SKETCH OF SPAIN


 BARCELONA 2

この日は、ガウディの建築を見て歩くことに決めてあった。昼食の後、グラシア街にあるラ・ペドレラを訪ねるため、地下鉄に乗った。何度も乗り降りすることが分かっていたのでタルヘータという回数券を最初に買った。これだと、1回125ptsのところが10回で640ptsと、格安料金になる。切符売り場で簡単に買えるのでとても便利だ。ローマの地下鉄では入り口に入っても切符売り場がなく、仕方なくまた外に出て、近くのたばこ屋で切符を買ったことがある。バルセロナの地下鉄は入り口もパリに似てアール・ヌーヴォー風で洒落ているので見つけやすい。

地図によればラ・ペドレラとカサ・バトリョは、DiagonalPasseig de Graciaという二つの駅に挟まれる区間に位置している。この辺りはパセイジ・デ・グラシアと呼ばれる高級商店街になっている。散歩がてらに歩いて探すことにした。駅を出ると、道は僅かばかり坂になって海の方に下っていた。京都の町に似て碁盤状の通りは歩いて何かを探すにはありがたい。お目当ての建物はすぐ見つかった。アール・ヌーヴォー風の黒い鉄で出来た街灯がカサ・ミラのヴァルコニーの手摺りと呼応するように建っていた。(タイトル写真はゴシック街の王宮広場)

 カサ・ミラ(ラ・ペドレラ)

ラ・ペドレラというのは石切場という意味だそうだ。たしかに、うねうねと波うつ石造りの建築は採石場を髣髴させる。ガウディ晩年の作品らしく直線を探すのが難しい。あの穴居住宅が立ち並ぶカッパドキアに運んでもなんら違和感はあるまい。アパートなのだが、一つとして同じ形をした部屋がないという。あらためてよくよく見てみると、各階の同じ位置にある窓の形が微妙に違っているのに気がついた。一階ホールまでは見学が許されていた。内部と外部が通底しているのはここでも同じだった。切り出したままの石の粗い表面をそのまま生かした柱が上まで通っている。その柱に留められたバルコニーの手摺りも黒い鉄を撓めて直線になることを避けているかのようだった。

 カサ・バトリョ

同じグラシア街の通りをはさんで筋向かいにある、カサ・バトリョだが、やはりガウディ晩年の作品である。鈴懸の木の葉越しに見える屋根はドラゴンを象ったものであるらしい。胴体部分の膨らみに沿って鱗のように敷き詰められた屋根瓦が三次元的な曲線を描き出している。対称的なのは壁面だ。青や茶、緑を主としたセラミックがモザイクを描いてはいるが、バルコニー以外は平面的な作りになっている。そのバルコニーだが、昆虫の頭部のようでもあるし、舞踏会用の仮面のようにも見える。一、二階のバルコニーは一段と迫りだし、手摺りとそれを支える柱は、アール・ヌーヴォー風な曲線を使用しながら、まるで白骨のように形作られていた。

 カサ・カルベ

グラシア街とラス・ランブラス通りをつなぐ位置にカタルーニャ広場がある。カサ・カルベは、そこから少し入った人通りの少ない通りにあった。そう言われなければ、ガウディの設計した家とは気づかないで通り過ぎてしまいそうなおとなしい外観の建築である。生前、理解されることの少ない不遇な一生を送ったガウディであったが、この建築だけは市の賞を受けている。ここまでなら理解可能であったということなのだろう。しかし、子細に眺めてみれば、屋上の凹部に顔を突きだしている人間の頭部や出窓の上の千成瓢箪状のモチーフにガウディならではと思わせる意匠が窺える。一階部分はレストランになっているというので、中に入れるのなら珈琲の一杯でもと思ったが、改装中らしく入ることが出来なかった。けれども、鈴懸の並木道の下には小振りな街灯とベンチが設えられていて、そこでひと休みすることが出来た。大通りを一筋入れば静かな通りがあり、そこで一息つけるのはうれしい。これまでに訪れたスペインの街が、歴史的な街並みをそのまま残していたのに比べ、バルセロナのこの辺りは、パリを模して作られたといわれるだけに近代的な香りがする。空が広く感じられ、開放感があるのだ。ガウディの建築が、この辺りに集中しているのも、近代におけるバルセロナの経済的な発展を抜きにしては考えられない。スペイン語ではなくカタラン語を使用しているカタルーニャ地方は、スペインの中でも独自の位置を占めている。ピカソやミロなど二十世紀の美術史を飾る才能を開花させたのも、この都市の持つ潜在的なエネルギーなのかもしれない。スペインという名で一括りにすることのできないものをカタルーニャ地方は持ち続けているのである。

  闘牛       

時間通りに物事が進まないのはヨーロッパでは当たり前。ここスペインでもそれは変わらないが、闘牛だけは別である。闘牛場の半分が影で覆われたときが開始時刻。この日は午後の六時半であった。

闘牛見物は、当初の計画にはなかった。闘牛をスポーツと比べるのも変だが、もともと、人がしていることを上から見て楽しむ習慣がない。それに、残酷な見せ物のような気がしていたこともある。だから、現地のガイドに誘われたときも、初めは断ろうかと思ったぐらいだ。動物好きの妻もいやがるだろうと思っていた。ところが、案に相違して、妻は「見てみたい」と言った。それなら、というのでサグラダ・ファミリア教会に程近い闘牛場へと赴くことになったのである。

闘牛場には、市民が続々と集まってきていた。球場に集まってくる日本人と同じで軽い躁状態が伝わってくる。こういう雰囲気は伝染しやすい。隣に座ったガイドは邦人だが、この国は長く、すっかり闘牛ファンになってしまっていた。おかげで丁寧な解説つきで闘牛を体験することができた。以下は彼の説明に拠る。

 闘牛士の入場

闘牛の進行は儀式的である。トランペットとタンバリンの音に引き続き、主催者が上段の席で白いハンカチを振ると、それを合図に闘牛士たちが登場してきた。三人の後ろには、三人の助手と槍方(ピカドール)二人が並び、主催者席に向かって礼をした後、一人を残して下がっていった。闘牛士(マタドール)は三人いて、二回ずつ登場する。つまり殺される牛は六頭ということになる。この日の闘牛士の一番手はチャマコといって、少し人気は下降気味だが、第一人者であるという。

トランペットとタンバリンの音がして、牛が登場した。二人の助手が交互にカポテというケープを振っては牛を誘い、追いつかれそうになると板の後ろに隠れる。闘牛に使われる牛は、牧場で見慣れた牛とはまったく別の生き物である。荒々しい鼻息や向きを変える際の機敏さなど、猛獣といった方が正確だろう。

 槍方の登場

再びトランペットが鳴り響き、槍方が登場してきた。カポテに誘導された牛は、防具に身を固めた槍方の乗る馬に向かっていく。ピカドールは全体重をかけて、突進してきた牛の脊髄に手にした槍を刺し込む。手傷を負った牛は、ますますいきり立ってピカドールに挑みかかっていく。その度にアリーナ中にこだますように観客のどよめきが響く。深い傷を負った身で動けば動くほど体力が落ちるのが見ているこちらには分かる。心の中で、何度も「もう止せ。行くな。」と叫んでいた。牛の方に感情移入していては、闘牛を楽しめるはずがない。

トランペットの音がした。バンデリリェロが両手に短い銛を手にして現れた。牛の肩骨のあたりに二本の銛を打ち込むのだが、一歩まちがえば角によって跳ね上げられる危険がある。首尾よく突き刺しても、打ち込みが弱いと牛が振り払ってしまい観客のブーイングを浴びる羽目になる。この日も一本ははずされてしまった。

 ムレタの技

トランペットの音に続き、いよいよ大詰め、闘牛士によるムレタ技の披露である。巧みなムレタ捌きで、自分めがけて突進してくる牛をかわす度に、「オーレ」の声がかかる。牛の動く範囲が縮まり、最後には闘牛士と牛は、互いの心臓の鼓動が聞こえるほど近づく。闘牛士の帽子が投げられた。それが「真実の瞬間」と呼ばれる殺しの時間の合図である。左手にムレタ、右手に真剣を構えた闘牛士は牛の背に取り付けられた急所を示すリボンの位置に斜め45度から剣を刺していく。たまらず牛はどうと倒れる。

 屠殺場に運ばれる牛

よく戦った牛は、観客のうち振る白いハンカチにより、場内一周する名誉を与えられることもあるというが、この日は、槍方によって与えられた傷が深手過ぎたため、牛が弱りすぎてしまい、フェアな勝負には見えなかった。この牛たちは、次の日に、ラス・ランブラスにある市場で食肉用として売り出されるという。よく戦った牛の肉の人気は高いそうだ。初めは「涙が出てくる」と言っていた妻だが、最後には白いハンカチまで振って審査員にアピールしていた。案外スペインがあっているのかも知れない。自分はどうかといえば、殺された牛がアリーナの砂を地に染めながら馬に引かれて連れ出されていく場面が最も心に残った。

闘牛はもともと農耕儀礼であるという。大地の上に生贄の血を流すことによって、作物の豊穣を祈る信仰の起源は古くからある。そういうものと思えば、ただ残酷と決めつけることはできないと思う。鯨漁が民族の文化であるのと同じことである。それはそれとして、個人的には再びアリーナに足を運ぶことはあるまい。自分のいる場ではないように感じたからである。

 ラス・ランブラス

パセイジ・デ・グラシアが高級商店街だとすれば、ラス・ランブラスは下町の繁華街といったところだろうか。事実、この道をずっとおりて行くと、海に出るのだ。道の真ん中が並木のある歩道になっていて、車はその両側を走るようになっている。かつて我が国でも歩行者天国という試みがなされたことがあったが、ここでは、初めから道は歩行者のものと考えられているようだ。歩道の両側には、花屋や小鳥屋。新聞や本を売るスタンド。ストリートパフォーマー、似顔絵書きと、何でもありの通りである。白い椅子が並べてあるのだが、これは有料らしく、下手に腰掛けると金を払わなければならない。昨日の闘牛の肉が売られているはずの市場も覗いてみた。立派な看板の掛かった入り口を入ると、中は少し暗いが、広い敷地の中に食料品が一杯並んでいた。肉屋もたしかにあったが、どの肉がそうなのかは分からずじまいだった。

 グエル館

 ランブラスを少し脇道に入った狭い通りに、ガウディの後援者グエル伯爵の館がある。屋根の飾りに片鱗が見えるものの外観からは、あまりガウディらしさが伝わってこない重厚な造りの邸宅だった。

そのまま、ランブラスをぶらぶら歩いて海の見える広場に出た。コロンブス記念柱が目印になっているラ・パウ広場の前には14世紀頃に建てられた造船工場が今は海洋博物館になっている。ガレー船の原寸模型を見た後、オリンピックで有名になったモンジュイックの丘に登った。スタジアム見学後、昼食に、今度はちゃんとしたレストランでパエージャを食べた。話に聞いてはいたものの、できあがったパエージャを見せにシェフが登場したときは、その鍋の大きさに驚いた。見ているだけでお腹が一杯になるような気がした。料理番組など見ていて、いつも思うのだが、「グルメ」と呼ばれるためには、まず健啖家でなくてはならない。料理の量に驚いているようでは、とてもとてもというところだろう。さいわい一人分の量はそれほど多くないので食べきれた。おどかすない、という感じだった。

 ホテル界隈

バルセロナのホテルはこれまで泊まった何処よりも貧相だった。エアコンは旧式で、始終ぶるぶると音を立てている割りには冷えないし、窓を開ければ、隣のこれまた古いビルのエアコンの室外機が疲れた顔を見せているといった具合である。けれども、悪いことばかりではなかった。普通の市民が暮らす住宅街にあったので、日暮れになると夕涼みを兼ねてか、子どもから年寄りまで、いろいろな人が近くの公園にやってきた。ホテルに泊まっている間、狭い部屋でエアコンの不具合を託つよりも、彼らの中に混じり、公園での夕涼みを楽しむことにした。ボールで遊ぶ子どもたちをしり目にいつまでもしゃべり続けている母親たちを見ていると、何処の国でも同じだなと微笑ましくなる。

公園を抜けてホテルの裏にある通りに出ると、電気屋とか八百屋とかが並ぶ商店街になっていた。その中で比較的新しい店が目に着いた。今風にいえば百円ショップである。いかにもといった玩具や日用品の並ぶ中から、妻はアイシャドウのパレットを見つけてきた。色の組み合わせが気に入ったらしく、日本に帰ってからも愛用しているようだった。日本ではよく似た色はあっても同じ色がないらしく、妻は今度スペインに行ったら必ずまた買おうと決めている。わざわざ土産を買わずとも、こうした何気ない買い物がかえっていつまでも心に残る思い出の品となることがあるものだ。

ホテルは地下鉄の駅に近く、サグラダ・ファミリアを訪れるのにも便利だった。ライトアップされた夜景も含めると都合三度訪ねることになった。

サグラダ・ファミリアを見たことでスペインの旅の目的はすべて果たした。日曜日にしか見ることのできない夜のサグラダ・ファミリアまで見ることができたのは何よりだった。四本の塔の柱と柱の隙間から昼間は見えない内部の空洞が黄緑の光の中に浮かび上がる様は言葉で言い表すことができないほど幻想的な光景だった。ファサードの前に広がる公園の長椅子に寝そべって夜空に伸びる塔を仰ぐと、地上は遙か下方に消え去り、唯一人この身ばかりが聖家族教会の中に導かれていくような気さえしてくるのだった。
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last update 2001.2.10. since 2000.9.10