SKETCH OF SPAIN

 BARCELONA 1

バルセロナという都市を初めて意識したのは、学生時代のことだ。渡辺貞夫のところでギターを弾いていた増尾好秋が初めて出したアルバムタイトルが『バルセロナの風』だった。自分でもギターを弾きはじめていたから、この若いジャズギタリストの才能には羨望を通り越して、異世界の住人でも見る思いでいたことを覚えている。

ギターとスペインの結びつきは古い。ギターを弾く人で『アルハンブラの思い出』に食指を動かさなかった人はいないだろうし、『アランフェス協奏曲』はマイルスの『スケッチオブスペイン』でも採り上げられているジャンルを超えた名曲である。けれども、どちらかといえば古風な響きのするそれらの都市とは違って、バルセロナにはいかにも海に開かれた都市の持つ開放的な響きがあった。新進ギタリストの繰り出す爽やかな音は、まだ見ぬ国から吹いてくる海風のように感じられたものだ。

今回の旅の行き先をスペインにしたのはプラド美術館もさることながら、何を置いても先ずはガウディの建築をこの眼で直に見たかったからである。今でこそガウディも市民権を得て、多くの観光客が彼の建てた建築目当てにバルセロナを訪れるようにもなったが、大学にいた頃ガウディといっても知っている人は少なかった。サグラダファミリア教会の写真をはじめて見たのがいつ何処でだったのかは覚えていないのだが、その建築の異様さに驚き怪しみながらもいつの間にか惹きつけられている自分を感じていた。しかし、当時、自分の目で直接見ることができようとは、それこそ夢にも思わなかった。写真を見ては、その奇想に感嘆の声を漏らすばかりであった。それが今現実に眼にすることができる。いやでも心は躍るではないか。

  グエル公園

 エントランス



地下鉄の駅を出て道を探していると、近くの公園を掃除していた初老の男性が
「パルケ・グエル?」と、訊いてくれた。
「そうだ。」と、首肯くと、手にしていたちりとりと箒を下に置き、身振り手振りを交えながら詳しく道順を教えてくれた。

地図を片手に、その道をしばらく行くと、今度は同じ二人連れの観光客が、
「グエルはこっちだ。」と別の道を指さして教える。別にどちらでも行けるのだが、折角だから一緒に行くことにした。ブラジルから来たというので、
「妻の履いている靴はブラジル製だ。」というと、
「それは素晴らしい。」と言って喜んでくれた。話をしながら歩いたのだが、足が速いので汗をかいた。入り口に着いたところで別れた。 

 管理事務所



グエル公園は、もともと、ガウディの唯一の後援者であるグエル伯爵が分譲住宅として設計させたものである。伯爵の死で計画は頓挫し、現在は公園として公開されている。その当時の物としては超モダンな分譲住宅であったことだろう。単なる住宅地としてではなく一つの街として構想されているところが、時代を先取りしていたと言えよう。

公園の入り口両側に二軒の家が建っている。右側が管理事務所で、左は門番小屋である。ガウディの建築の根本にあるのは、有機的な物質あるいは組織である。時代的には、フランスのアール・ヌーヴォーなどと並行しているとも考えられる。けれど、アール・ヌーヴォーの良い意味で洗練された感覚は容易にデカダンスに流れていく危険性がある。様式化というものが持つ罠である。独創性のあった意匠が自己を模倣しはじめるときそこに頽廃が生じるのだ。

 回廊




ところが、ガウディには。そうした精神の退嬰化を示す徴候が何処にも見あたらない。植物や動物は意匠化され、模倣されるのではなく、建物自体が、通路が、生き物のように産み出されているのである。

サグラダ・ファミリアが専ら上へ上へ伸びようとする垂直の意志を表明しているとすれば、グエル公園は、内と外、表と裏の区分を取り外し、三次元であるべき建築を平面化しようとする試みであるかのように思える。

 馬車道



ガウディの構想した街は、歩くことが中心に据えられている。石造りの柱で支えられた回廊は歩行者用の道だが、その上は馬車道になっている。まるでメビウスの輪のように、馬車道と歩廊はいつの間にか交錯する。無機物であるはずの石を使いながら、妙に生命観を横溢させる不思議な回廊が、この街を行き交っている。

歩廊もそうだが、公園のいちばん上に当たる部分にうねうねと波うつベンチもまた、何処までが内部で、何処からが外部なのかを明らかにしないよう、曲面を介して外壁につながっていく。自然には直角というものは存在しないという。巻き貝や蝸牛の螺旋状の構造は自然の中に数多見いだせるのに、人間はどうして自分の住居を直角で構成しようとしはじめたのだろう。
    

 ベンチ

穴居生活をしていた頃の人間は直角とは無縁であったはずである。おそらく、石のような素材を自分たちの住居を組み立てる構造材として取り入れたとき、直角がはじめて意識されたのではないだろうか。ガウディは直角を嫌う。彼はそこに人工の限界を見ていたのではなかろうか。

 市場の天井



建築が箱のような形を前提とする限り、そこには内と外ができてしまう。けれど、巻き貝の上を這っていた蟻は、いつ内部に侵入したのか自覚できるものであろうか。

ガウディがグエル公園で試みようとしたのは、こうした外部と内部を通底させた、より根元的な空間を人間の住居として措定することではなかったか。ここでは、柱は樹木と化し、天井は枝葉の重なりとなる。一方それは地中でもあり、天井からは樹木の根のようなものが突きだしている。それは人工が限りなく自然にとけ込もうとしているかのようにも見える。

グエル公園に住むということは、太古の地球に棲むことでもある。ガウディは秘かに天地の創造を考えていたのかも知れない。否、それを夢想したことのない者を人は芸術家とは呼ぶまい。

 カフェ

グエル公園を出て、地下鉄の駅の方へ、もと来た坂道を下りていった。お昼時で、さほど賑やかでない通りだが、チョークでメニューを書いた黒板を出した小さな店がちらほら目に着いた。毎日毎日、レストランでの食事に少々飽いていた。通りに椅子を並べたカフェで、気ままに食べてみたかった。そんなわけで、駅近くの店で、烏賊墨のパエージャを頼んだ。インディカ米かと思っていたそれは、どう見てもパスタで、それも短く切り揃えてあった。妻は、それを「焼きそばパエージャ」と呼んで面白がった。駅前の通りは車がひっきりなしに行き交い、外で食べるにはあまり良い環境とは言い難かった。それに文句を言うこともなく、珍しい料理を面白がる妻に救われた気がした。

 サグラダ・ファミリア教会

 御誕生の門 

地下鉄を降りるとすぐそこに教会はあった。玉蜀黍の芯のような塔が四本蒼空に向かって伸びていた。ああ、これがサグラダ・ファミリアなんだ。とうとうやってきたぞ、と心の中で呟いた。正面玄関(ファサード)に回ると、玉蜀黍状の塔の下に鍾乳洞のようにつららが垂れた庇が見えた。その下に青を基調にしたステンドグラスを囲むように彫刻の群像がある。主イエスの生誕の場面らしいことは素人目にも分かる。

カトリックの時代、神の教えを知ることのできる者は聖書を読むことができる聖職者に限られていた。一般の信者は教会入り口の彫刻、それに内部の壁面やステンドグラスに描かれた絵によって、神の教えやイエスの物語を知ることができるだけだった。教会ファサードの彫刻が重視されたのには訳があったのである。聖母子を祝福する天使達の像は比較的新しい石の色をしていたが、この中には日本から来て、教会造りに参加している彫刻家の手になる天使もいるそうである。

 双曲線を描く塔



教会の中を見学するには裏門に回らなければならなかった。入ってすぐの所に何度行っても観光客でごった返している売店があるが、そこを過ぎると地下に降りる階段がある。地下には、ガウディの建築プランや模型などが展示されていた。その中でも特に面白かったのは、ガウディが教会の塔やアーチを設計するために作った模型である。錘を下部につけたネット状の物を逆さに吊し、アーチの双曲線を求めたのである。鏡で見ると、下に垂れ下がったネットは天を脅かす塔やアーチの骨組みになるという仕掛けだ。コンピュータのない時代、三次元の空間座標を表す工夫に現場の知恵を見たような気がした。 

 煉瓦積みの内壁



サグラダ・ファミリア教会は、信者の寄付や観光客の入場料を唯一の建築資金とする贖罪教会である。そのため、いまだ建設途上にある。正面の御誕生の門と塔を除けば、後陣の外壁だけが高い塀のように建っているだけで、内陣といっても天井さえないのが実状である。しかも、ガウディが作った部分の尖塔には鉄筋が入っていない。内部は全部煉瓦積みである。これでよく崩れないものだと感心するより呆れてしまった。

細長いランセット・アーチを用いた窓からも分かるように初期に建てられた部分ははっきりしたゴシック建築様式を見せている。ガウディの代表作のようにいわれているサグラダ・ファミリアだが、もとはといえば、彼の師であったビジャールが手がけた仕事である。施主との折り合いが悪く、途中まで作り上げながら放り出した師匠の仕事の後始末を引き受けたのが34歳のガウディだった。

 御誕生の門内側

御誕生の門の上部に聳える四本の塔の内部には螺旋階段が設けられ、歩いて上れるようになっていた。巻き貝の殻の中を進むように上っていくのだが、下を見ると吸い込まれそうになる。途中に出口があって二階回廊に出られるようになっていた。地上は建築資材が所狭しと積まれ、工事現場の様相を呈していた。最下層から順に窓の造りを見てくると、様式の変化が一目瞭然である。下段の薔薇窓がゴシック様式のランセットアーチになっているのに比べ、中段のそれは馬蹄形アーチ、上段のそれは花弁アーチと、いずれもムデハル様式を取り入れていることが分かる。サグラダ・ファミリアは、上へ上へと上昇するに連れ、時代の変化とも相俟って、進化成長を遂げる生き物のような建築なのである。

 アントニ・ガウディ(作者の複数性)


ガウディは、サグラダファミリアを引き継いでから74歳で電車に轢かれて死ぬまで、地下聖堂の一隅に寝起きしながら教会の建設に一生を捧げた。彼の死後、弟子達によってその仕事は引き継がれてきているが、それでも完成までは後百年はかかるだろうと言われている。この建築はすでにガウディ独りの作品とは言えなくなってきているのだ。現に教会への入り口上部のデザインはガウディの考えていた意匠とは異なったものになってきている。これには批判もあるようだ。しかし、ガウディ自身が40年の間にずいぶん変化を遂げている。初期のネオ・ゴシック様式と、ダリが「食べられる建築」と呼んだ晩年の独特のモティーフを多用した奇抜とも言える意匠との間に、いったい何人のガウディがいるものであろうか。

同じように一人の中に何人もの芸術家を擁していた人物を知っている。同じカタルーニャ出身のピカソである。青の時代のピカソ。薔薇色の時代のピカソ。そしてキュビズム時代のピカソ。アルチュセールのマルクス論に倣っていえば、ピカソはピカソを「断絶」する。前の時代のピカソと次の時代のピカソには「認識論的切断」がある。

近年ガウディの建築が世評に上るようになったのは、今ようやく時代がガウディに追いついたのかも知れない。現代芸術を語るとき忘れてはならない「作者の複数性」というものが理解されはじめたからだ。ジョイスの『ユリシーズ』を例に取れば、先行するテクストとして、神話や聖書、シェイクスピアその他の物語群なくしてジョイス文学は成立しない。サグラダ・ファミリアにも幾多の引用がある。御誕生の門を飾るイエスの物語群を囲繞するようにムハンマドの鍾乳石が垂れ下がっているのもその一つである。また、ゴシックの尖塔に、スペインのアールヌーヴォーともいえるモデルニスモに特有のドラゴンが張り付いているのも同様である。これから先も、サグラダ・ファミリアは幾つものテクストを織り込んで行くに違いない。しかし、それは百年を経た後、この教会がアントニ・ガウディの作品と呼ばれるのを妨げはしないだろう。独創性と複数性は共存するからである。独創のないところに複数はあり得ない。そこにあるのは死ぬほど退屈な単一ばかりである。

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last update 2001.2.10. since 2000.9.10