SKETCH OF SPAIN

 MADRID

首都マドリッドはイベリア半島のほぼ中央に位置する。そのため、どの地方を訪れるにもここを経由することが多い。今回の旅でも、三度マドリッド空港に下りた。

初めてスペインの地を踏んだのがマドリッドだった。飛行機の着いたのが夜の九時過ぎだったから、北駅の前にあるホテルに着いたときにはあたりは暗くなっていて様子はよく分からなかった。荷物を部屋に入れると、ホテルで少額の円をペセタに替え、通りに出た。とりあえず、さっき車で見かけたバルに行ってみることにした。旅の初日にありがちだが、体は疲れているのに高揚した気分が収まらない。ここはセルベッサ(ビール)でも飲んでリラックスするに限る。店はすぐ分かった。一間ほどの間口だが奥行きのある、日本でいう鰻の寝床のような店だ。カウンターの中にいる若い方の一人に、
「セルベッサ ドス ポル ファボール」
と、覚えたてのスペイン語で注文した。こみ入った話になると、とても無理だが単語をつなげたら分かる程度のことはその国の言葉で話したいと思っている。「分かった。」という風にうなずいて、バーテンは生ビールを二つカウンターに置いた。小ジョッキくらいのグラスだったが、うまかった。一気に飲み干して、手もとの小銭を見た。枕銭にいくらか残しておかなければならない。値段を訊くと一杯が125ペセタ(約百円)。後一杯ずつ飲めることが分かった。お代わりを注文して、今度はゆっくり味わいながら飲んだ。天井からハモン・セラーノ(黒豚の生ハム)が、塊のままでぶら下がっていた。ナイフで削ぎ切りにして酒のあてにするのだろう。その他にも旨そうなつまみがカウンターの上に並んでいた。こんなことなら、もっと換金しておけばよかったと後悔した。何処へ行っても、きちんとしたレストランより町の人が気軽に立ち寄るこんな店の方に食指が動く。バルでの楽しみは次の機会にとっておくことにして、ホテルに戻った。

翌朝、朝食を済ませた後、ホテルの近くを歩いた。ホテルの目の前にある北駅には、これから勤めに出る人たちが集まってきていた。終着駅というのは、ヨーロッパでは、どこでもよく似ているのか、パリの北駅もそうだったが、映画『終着駅』の舞台そっくりだった。鉄と硝子が時代を席巻したときのものらしく、重厚な中にもモダーンな感覚がうかがえる洒落た駅だった。

 王宮



駅から出てすぐの角を左に折れると、プラタナスの街路樹が続く坂道がある。坂の左には商店が並び、右手には大きな木が繁る森のような場所が広がっていた。そこが王宮だった。こんな朝早くから見学する者もいないのだろう。庭園の中は静かで、芝生や花壇に水を撒くスプリンクラーが忙しく動いているほかは、植木の手入れをする人や、警備員の姿がちらほら見えるばかりだった。王宮の建物を真正面に見る庭園の石段に黒猫がいた。妻が呼んだら寄ってきた。どこにいても猫さえいればご機嫌な妻である。

王宮庭園を出て、もとの坂道をもう少し上ったところにスペイン広場があった。大きなモニュメントを背にして高い台座の上の椅子に腰掛けたセルバンテスの像が、従者サンチョ・パンサを連れたラマンチャの騎士ドン・キホーテの騎馬像を見下ろしていた。ここまで来るとさすがに、観光客で一杯だった。初めから歩きすぎたせいか、妻は足が痛そうだった。ホテルに戻って支払いを済ませた。日本までの電話代が432pts。国際電話のよく聞こえることに妻は驚いていた。スペインからだと言っても信じないくらいはっきり聞こえる。もう少し聞こえ難い方が、かえってありがたみが出るように思うくらいだ。
 

 プラド美術館


次にマドリッドの街を歩いたのは、トレドから帰った日だった。前々からここだけは行きたかったプラド美術館を訪れた。いうまでもなく世界的に有名な名画が集められているプラドだが、どうしても見ておきたかったのはベラスケスの『ラス・メニーナス』である。フーコーが『言葉と物』の第一章で言及している鏡に映るフェリペ四世とその王妃の姿をこの目で確かめてみたかったのだ。それというのも、フーコーの『ラス・メニーナス』についての読解を読んだとき、おやと思って書棚にあった高階秀爾氏の『名画を見る眼』(岩波新書)を取り出したことがあったからだ。高階氏によれば、画面に向かって左側で画布に向かっているベラスケスが描いているモデルは、画面中央に描き出されている王女マルガリータのはずである。ところが、フーコーの説は、それとはまったく異なり、王女マルガリータは、モデルとなっている両親のもとを訪れたという設定で、この絵を読んでいる。これほど有名な絵でも、見る者が違えば、まったく異なった解釈ができるのだなとあらためて思ったことが鮮明に記憶に残っていた。

絵の保護のためか、少し暗い一室にこの大作は置かれていた。高階氏も触れていたが、ベラスケスの魔術とも思える技法は、解説書通りであった。近くに寄って見れば、単なるかすれた絵の具の線としか見えない物が、離れて見れば使い込まれた画筆に見える、その不思議さ。白と銀のなぐり書きが王女の袖に見る見る変わっていく面白さは絵を見ることの楽しさをあらためて教えてくれる。左胸に騎士であることを示すサンチャゴ十字勲章を誇らしげにつけた画家が「どうだ。俺の腕前は」と言いたげな顔をしてこちらを真っ直ぐ見ている。そう思って隣を見ると、広い額の下から王女の目もこちらを見ていることに気づくのだ。画家から王女へと移動した視線はそのまま右下にうずくまる犬に落ちる。そうして、画面右隅にいる少年を介して今度は、太った矮人の道化女からお辞儀をする侍女、扉口で階段に足をかけたままの騎士らしき人物へと移った動線が最後に止まるのが鏡に映った国王と王妃の像であるのは偶然とは言えまい。つまり、この絵を見る者は、画家ベラスケスの視線越しに国王と王妃を見ることになる。二人は、ちょうど絵の鑑賞者の立つ位置にいることになる。手の込んだオマージュではないか。この時代、画家はパトロンのために絵を描いているのであって、美術館に飾られるなどとは思ってもいない。この絵も国王たちが住まう王宮に飾られていたはずである。絵の鑑賞者すなわち国王と王妃なのである。題名が『ラス・メニーナス(侍女たち)』であることもそう考えれば納得がいく。絵の主人公は王女でなく侍女がお辞儀をしている相手、つまり国王夫妻であるからだ。それでいて、描かれているのは愛娘マルガリータであるという、親心というものを熟知した画家の計算が効を奏したのだろう。画家の胸に輝く十字勲章は、初めから絵の中にあったのではなく、絵の完成した二年後に叙勲した画家自らが描き入れたものであるという。ベラスケスという画家の人間像までうかがえる逸話である。
 

 ソフィア女王アート・センター


ピカソの絵は好きだが『ゲルニカ』はそれほどでもない。夾雑物が多すぎるのだ。画家が何を思って描こうと絵は絵である。美しければ文句はないが、美しくなくても構わない。それが絵であればいい。ピカソに罪はないのかもしれないが『ゲルニカ』は教科書に載りすぎる。説教臭いのは御免だ。とは思いつつ、やはりここまで来て本物を見ておかないと後悔することは必至である。『ゲルニカ』はソフィア女王アート・センターに展示されている。プラドをクラシックとするなら、ここはモダーンな美術館である。『ゲルニカ』のある二階は思ったよりこぢんまりしていた。防弾ガラスか何かの中に入っているのかと思っていたのだが、そのまま手に触れることさえできそうな位置に展示されているのには拍子抜けしてしまった。もちろんそれでいいのだ。『ゲルニカ』に感じる違和感はモノクロームの画面のせいかも知れない。「青の時代」、「薔薇色の時代」という区分の仕方からも分かる通り、ピカソの魅力の一つはまちがいなくその色彩にある。類い稀な素描力はデフォルメされた形の陰に隠されていたとしても、天性のカラリストであるピカソの色彩感覚は、どの時代の画にも顕著である。それが、この絵では抑制されている。色彩は感情を表現することに長けている。それをあえて封じてみせたところにこの絵の存在価値があることはよく分かるのだが。

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