caravan serai

 洞窟教会と地下都市 CAPPADOCIA

予定では見学は明日からとなっていたのだが、日中の暑さを避け、この日の夕刻と、明日の朝早くをカッパドキアの見学に当てることになった。どこといって変わった所のない田舎町のこんな所にまで入っていくのかと思うほど狭い小路の中に、バスは車体をこじ入れるようにして入った。まだ強い日差しの下で、白茶けた光を放った道が、つま先上がりに坂道を作っていた。両側には、日除けのテントを張り巡らせた土産物屋が建ち並ぶのに、お目当てのカッパドキアらしい光景は、まったく見えない。けれども、店先には、軽石で作ったカッパドキアの奇岩の置物が所狭しと並んでいる。そうしてみれば、やはりここなのだ。

 カイマクル

土産物屋の建ち並ぶ通りを突っ切ると、階段がある。銃を構えた衛兵が護る入り口を一歩入ると、光に慣れた目にはすぐには見分けられないが、なにやら部屋のような形に石を穿った空間が広がっている。ここがカイマクルだった。子どもの保育園時代毎月取っていた福音館の児童向け雑誌「たくさんのふしぎ」に紹介されていた町だ。奇岩が目にはいるはずがない。ここは地下都市で有名なのだった。

もともとは鉄器を初めて使用したことで有名なヒッタイト人が食糧貯蔵に使っていたものを、他宗派の迫害を恐れたキリスト教徒達が、住居用に広げたのがこの町の始まりだった。敵の侵入を防ぐため、通路は意図的に狭く作られているが、部屋はかなり広い。三、四十人が食事をとれる大広間もあった。もちろんテーブルも椅子も石を彫りだして作ったものだ。キッチンやワインの醸造所など、そのままの形で残っている。壁には十字架らしき彫り跡のほかにも無数の鑿の跡が残り、当時の苦労が忍ばれた。地下8階にまで延びる蟻の巣状の地下都市には16000人の人が住んでいたという。宗教間の軋轢というものをほとんど知らずに来た多くの日本人にとっては、想像を絶する世界である。信仰を守るということのために、人というものは、このような壮絶な苦労にも耐えうるものなのだということが、冷え冷えとした石の内側から手のひらを通して伝わってくる。今更ながら、信仰というものの持つ力に畏怖をすら覚えたのであった。

 帽子

どこへ行っても、その土地の民族衣装に目がない妻は、カイマクルの土産物屋の店先で帽子を買った。とはいっても、俗にいうトルコ帽ではない。どちらかといえば、ターバンに似たもので、模様を織りだした色鮮やかな布でできていた。後ろや横の方に共布が長く垂れ下がっているのは、巻けば顔を覆えるようになっているらしい。そのままにしておけば、後頭部にあたる日差しを遮ってくれて涼しいに違いない。真夏のトルコを歩くには最高の帽子だろう。妻は、早速かぶってみた。それは確かに、インド綿でできた紅い更紗の袖無しのワンピ−スによく似合っていた。

 鳩の谷

大地の上に降った雨が、岩を少しずつ削ってゆく。自然の造形作用が手にとるように見える。ここが鳩の谷。よく見ると岩に穿たれた小さな穴がいくつも見える。カッパドキアはワインの産地として知られている。ここに住む人たちは葡萄の木を育てるための肥料として、鳩の糞が必要だった。小さな穴は鳩の巣になるように人工的に作られたのである。

日はまだ沈んではいないはずなのに、ずいぶん辺りが暗くなってきた。厚い雲が空一面を覆い隠していて、なだらかな稜線を見せる山際の空だけが仄明るい。パゾリーニが監督し、マリア・カラスが主役を演じた「王女メディア」という映画を見たことがあった。高校生の頃だったから、パール劇場だったろう。あのころよく通った洋画専門の映画館だった。ギリシァ悲劇のはずなのに、出てきた風景は何とも奇妙な、まるで蟻塚のような岩山が何本も空に向かって伸びていて、しかも人々はそこを住居にしているという、それまで見たこともない光景だった。今にして思えば、あれがカッパドキアだったのだ。いつまでも心に残る風景というものがある。

「すみませんが一緒に写真を撮ってもらえませんか。」
エフェスのレストランで猫にケバブをやっていた女性が、妻に話しかけた。
「えっ、いいですけど。」
カイマクルで買った帽子をかぶった妻は、エキゾチックな雰囲気を盛り上げるには格好のモデルだったのだ。
「次はわたし。いい?」
と、次々と写真に収まっていた。そのうち、
「よかったらご自分でかぶったみたら、撮りますよ。写真。」
妻はそういうと、帽子をその女性にわたし、カメラを預かった。帽子は、その後何人もの人の頭にのっかって写真を撮られていた。皆、本当はちょっと冒険してみたいのだ。けれど、今ひとつ思い切りが足りなくてなかなかふだんの自分を捨てきれない。なに、かまうことはない。もともと日常性から抜け出したくて旅に出ているのではないか。ひょっとしたら新しい自分を見つける機会になるかもしれない。思うままに行動すればいいのだ。

 ウチヒサール

鳩の谷から見て裏側にあたるこの奇岩がウチヒサール。ヒッタイト時代にはすでにあったという城砦である。小さな穴には鳩が、大きな穴には今でも人が住んでいる。夏冬を通じて14度というのは思ったより住み易いのかもしれない。世界で初めて鉄を鋳造したのがヒッタイト人だったからだろうか、この地方の土産物屋では、金属製の手斧や秤のような古道具を並べている店が多い。店とは言っても。テント張りの屋台店だから、そんな上等の物があるわけではない。アンティークめかしてはいるものの手斧は明らかに新しく作った物だし、本物らしい鉄製品は、もとは何だったか見当さえつかないほど表面がぼろぼろに錆びている。そんな中に、昔家にあったアイロンと同じものを見つけた。中に炭火を入れて使っていたが、形も大きさも同じだった。今ではだれも住まなくなった岩穴から探してでも来たのだろうか。不思議に懐かしかった。

妻のかぶっているのと同じ物を、売っている店の青年が、「おまえもかぶってみよ」と色だけは違う青い帽子を持ってきた。「いらない」と言ったが、「かぶるだけでも」としつこく言うのでかぶってみた。なるほど、かぶってみると具合がいい。布地と頭頂部の間に少し隙間ができるのが涼しいし、垂れた布は頸筋の暑さをしのいでくれる。しかし、妻と違って、格子縞のオーソドックスな半袖シャツとチノパンでは、似合うはずもない。残念ながら返すことにした。

 パシャバ

別名「修道士の谷」と呼ばれるパシャバに着いたときには、厚い雲のせいで、肌寒くなってきていた。ここで有名なのは「妖精の煙突」と呼ばれるきのこ型の岩である。摩訶不思議な格好をしているには訳がある。もともと、雨や風による浸食、風化が原因なのだが、上部のきのこの傘にあたる部分は玄武岩の層でできている。硬度に勝る上の層を残し、下の柔らかい部分から削られていったので、今のような形ができあがった。説明されれば納得はするものの不思議な光景であることには変わりがない。丈の低い木は葡萄の木である。修道士の谷という名は、岩の形から来るのかと思っていたら違っていた。11世紀頃にはこの谷では多くの修道士が、岩屋で生活していたのだという。聖シモンという名の教会が今でも残っていた。

 ゼルヴェ


ギリシァ語で「谷」という意味を持つゼルヴェに着いた頃には、日はかなり沈みかけていた。マリアの形をした岩や、駱駝の形をした岩がなかばシルエットのように立ち並んでいた。バスはそこで少し止まった後、この日の宿に向かって、人気のない寂しい道を走っていた。町どころか、村の影すらないところを走り続け、ようやく一軒の建物が遠くに見えた。そこが、今夜の宿だった。まわりには人っ子一人住む者とてない全くの一軒宿。しかし、部屋はバルコニーつきの角部屋で南と西に窓があった。西の窓を開けると、今まさに沈んでいこうとする夕日に照らされたカッパドキアの谷が一日の最後の日を浴びて輝いていた。遠くの村のモスクからお祈りの声が谷を渡って響いてくるのをバルコニーの手摺りに凭れていつまでも聞いていた。チェックイン時に振る舞われたカッパドキア産のワインが緩やかに体の中に広がっていった。

 ギョレメ

 サンダルの教会

静かな朝だった。雲一つない青空の下にカッパドキアの大地が広がっていた。典型的な幼年期の地形である。所々線状に白く見えているのは谷筋で石灰岩がむき出しになっているからだ。どこまでも広がる地表面は地味に乏しく、わずかな水分を求めて、植生は谷に沿って伸びている。同じように人もまた、谷に住んだ。ギョレメの谷はキリスト教徒にとっては、信仰を守り通すには絶好の砦であったろう。人目につかぬ岩の中を穿ち、幾つもの洞窟教会を残した。特に11世紀に建てられたものは、保存状態が良く、内部の壁画やフレスコ画も含め、現在では野外博物館として公開されている。

博物館は8時に開くのだが、ホテルから近かったために開館前に着いてしまった。やれやれ、こんなことならもっとゆっくり出れば良かったのにと思っていたら、何のことはない。門は定刻を待たずに開いた。チップをはずんだのだろう。おかげで、朝の涼しい時間帯に静かに見て回ることができる。もっとも、鍵の掛かっている洞窟もあって、そこは定刻まで待たなければならなかった。

 フレスコ画

ギョレメとは、トルコ語で「見てはならない」という意味である。イスラム教徒であるトルコ人にとって、キリスト教は異教徒である。偶像崇拝を禁じたイスラムの教えに従ったものか、フレスコ画の聖人の顔の多くが傷つけられていた。

フレスコ画が良好な状態で残っているのは、開口部が小さい洞窟の奥の方に描かれたものに限られる。光が当たらなかったのが幸いしたのだ。そういうところは今でも撮影は禁止されている。写真に撮れるのは光が入り込むところに限られるが、人の手の届く範囲には多くの傷がつけられていて、痛々しい。しかし、奥に入ればドーム天井の後陣部分などに、いまだに色あせることなく聖人やキリストの壁画やフレスコ画が残っていた。人物には力が入っているのだが、それ以外になると、あっさり線書きで済ませていたりするのは、塗料の調達が難しかったからかもしれない。その代わり、壁龕(ニッチ)や、柱など、岩を彫刻して、聖堂らしく見せる努力は惜しまなかったようだ。実際、ともすれば、これが全部岩を刳り貫いて造られた教会であることを忘れてしまいそうになるのだった。

 暗闇の聖堂

いったい何人の修道士がいたのだろうか。壁画の残る有名なものだけでも。「暗闇の聖堂」以外に、「蛇の教会」、「林檎の教会」があった。それぞれに、内部の装飾は見事なものだったが、それ以外にも質素な作りながら三、四十人は入る食堂も残されていた。これらを作ることも、神への信仰の証であったのだろう。信仰の持つ力をまざまざと見せつけられるたびに、信仰を持たない自分を省みずにはいられない。理性に対する信仰が、おそらく神に対するそれの代わりをつとめているはずなのだが、人間の理性とはそれほど頼りになるものなのだろうか。それを頼りに生きている者にとっては懐疑の深まる今世紀であった。

 三人の乙女

ギョレメの後は「三人の乙女」という、これもきのこ型の岩を見た。三本の円錐形の岩が頭部に玄武岩を載せているだけのものだが、辺りに何もないので見晴らしはいい。丘の上から、眼下に広がるカッパドキアの風景を心ゆくまで眺めた。白く光る石灰岩の連なりと、灌木の茂みが縞模様を織って、遠くの方まで続いている。荒涼とした風景だ。けれども、あの谷の下に、人々は営々と住み続けてきた。今もそこで生き生きと暮らしている。かつてのように恐れたり隠れたりすることもなく、杏の花の咲く木の下で、葡萄の酒を飲みながら平和に暮らしていくことだろう。それを思うと、なんだかこちらまで愉快になってくるのだった。

 トルコ絨毯

トルコ絨毯が有名なのは知っていた。しかし、細かな作業で、一日に数ミリしか織れないとは知らなかった。ここでもやはり、それは女性の仕事で、指先の細い若い女性にしか細かな仕事はできないという。トルコの花嫁は、自分で織った絨毯を手みやげに嫁ぎ先に持っていく。出来の良い絨毯は、まさかのときに家計を助けることができるのだ。上手な日本語の説明にあわせて目の前に次々と広げられる絨毯は次第に単なる土産物の域を脱し、伝統工芸品に変わっていく。それと同時に値段も上がっていく。初めの方の絨毯なら手が届くのだけれど、そのころには素晴らしい作品を見てしまっているから、値の安いものはなんだか貧相に見えてしまう。もっとも気に入ったのはヘレケというシルクの絨毯だった。濃い藍地に色とりどりの細かな草花が織り出された惚れ惚れするほど美しいものだったが、いい目の保養をさせてもらったと思うことにした。

 アヴァノス

次にバスが止まったのはアヴァノスという町で、絵皿の工房を訪ねた。赤い川と呼ばれるトルコ最長のクズルウルマク川が村の中心を流れている。川が赤いのは、上流から陶土を削ってくるからで、この町はその土を使っての陶器作りで有名だった。工房は、洞窟を利用していて、中は涼しかった。ここでも上手な日本語の説明を聞いた後、作品を見て回った。セルジュク朝のロータス文様の絵皿が妻の目にとまった。白地に藍色で絡まりあう蓮の模様が描かれていた。もともと普段使いの什器も白地に藍のものが好きで、これなら我が家に持って帰っても他の家具との釣り合いがとれていた。絨毯に思いを残していた妻もこれで満足してくれたようだ。

昼食もアヴァノスの洞窟レストランで名物の鱒料理をカッパドキアの白ワインとともに賞味した。旅行中ワインを飲まない日はなかったのだが、気になったのは、店の人にワインを頼むと、「大きいサイズか」と、いちいち確認をとることだ。別に大きいサイズではない。普通のサイズである。ハーフボトルを小さいというのは分かるが、あまり「大きいサイズ」を繰り返されると、大酒飲みみたいで気が引けるではないか。

 アンカラへの道で



午後は、シルクロードをひた走り、バスは、一路アンカラへと向かった。途中休憩した村で、屋台の果物屋に子犬がいた。遊んでいると、どこからか、変な鳴き声が聞こえてきた。鳴き声に誘われて、子犬は屋台の下へ。親爺の悪戯だった。アンカラからは空路でイスタンブルに戻った。見慣れた風景の街に帰ると、旅先であるのを忘れ自分の町に帰ったような安堵感がある。夕食はアガサ・クリスティーが常宿にしていたベラ・パラス近くのレストランで、ベリーダンスを見ながらシシケバブを食べた。イスタンブル最後の夜はこうして更けていった。

Prev             Home             Next


Copyright©2000-2001.Abraxas.All rights reserved
last update 2001.2.12. since 2000.9.10