caravan serai

メブラナの旋舞 KONYA

パムッカレからカッパドキアまでは、地図で見てもかなりの距離がある。そのため、この日の出発は朝の5時ということになっていた。ホテルから出てバスに乗り込もうというとき空を見たら、まだ星が光っていた。窓から見える昧爽の空は譬えようもないほど美しい藍色をしていたが、いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。次に起きたときは、すっかり明るくなっていた。

窓の外ではそれまでの綿畑と打って変わって、所々に茶褐色の地肌を見せながら、うねうねと続く丘陵地帯が広がっていた。時折、羊や牛の群が現れては消えていく。アナトゥリア高原に入ったのだ。ほとんど街らしい街の姿も見ずに、一度の休憩をはさんだだけで、かなり長い間バスは走り続けた。

 メブラナ博物館

突然大きな街が現れた。少し煤ぼけてはいるが原色のピックアップが忙しく行き交い、町には活気があふれている。大きなビルが建ち並ぶ大通りを少し走ると、町の様子が変わってきた。それまで目に着いた近代的なビルが姿を消し、ガラス窓の目立たない落ち着いた雰囲気の街が姿を現した。
それもそのはず、コンヤは、11世紀から13世紀にかけて、セルジュク・トルコの首都が置かれていた街である。そのころ政治、文化、芸術の中心地であったコンヤは、優れた人材が各地から集まってきていた。その一人、神学者メブラナによって興されたイスラム神秘主義教団「メブラナ教」発祥の地としても有名な街である。アタチュルクによる改革により現在では宗教活動は停止され、始祖メブラナをまつる霊廟も今は博物館となっている。長い円筒形の帽子の下に白いスカートという出で立ちでくるくると旋舞を舞うのがメブラナ教の法悦の形だが、現在では観光行事と化し、12月に見ることができるそうだ。.博物館では、その衣装をつけた人形や、美しく装丁されたコーランの教典などが展示されていた。

 カラタイ神学校


コンヤではもう一つ博物館を訪れた。今では陶器博物館となっている、セルジュク時代のカラタイ神学校である。ここには、セルジュク朝のタイルが主に展示されていた。藍色が主体の美しいタイルであったが、面白いことを発見した。イスラム教が偶像崇拝を禁じているのは前にも述べた。その故に複雑かつ華麗なアラベスク文様が発達したのである。ところが、カラタイ神学校に残されているタイル画の中には、人間の顔をつけた鳥などの絵がたくさん残っている。これは、イスラム教の教義が完成する以前にトルコの人々が受容した宗教の原形をとどめているのではあるまいか。さらに驚くことには、そのタイル画に描かれた女性の顔は、どう見ても中国や日本、朝鮮の女性の顔なのである。ダヴが、トルコ人のルーツは、モンゴル近辺だといっていたことを思い出す。この絵を見た後では信じたくなるほどの顔であった。

 トルコ風ピザ

トルコの美味い物の一つに、トルコ風ピザがある。この日はコンヤ市内のレストランでそれを食べることになっていた。チーズこそ少ないものの、見かけといい、味といい、ピザそのもので、とても美味しかった。問題は、その後のケーキヴァイキングである。食事は、コースで、次々と運ばれてきたのだけれど、この店では、ケーキは好きな物を自分で取りに行く方式になっていた。全体に小ぶりであったことに気をよくして、普段なら食べないデザートを皿一杯に集めてきてしまった。皿に取った以上きれいに食べるのがマナーだといいつつ、全部食べた後、しばらく胸がおかしかった。

 キャラヴァンサライ

コンヤからカッパドキヤに至る道はかつてシルクロードと呼ばれた道筋にあたる。シルクロードを旅する商人達は多くの荷駄を積んだ馬や駱駝の一団を引き連れて旅をしていた。そうした集団をキャラバン(隊商)と呼ぶのだが、キャラヴァンサライとは、隊商宿のことである。当時はいくつもあった隊商宿だが、今はほとんど残っていない。スルタンハヌには、珍しく昔の佇まいを今に残す隊商宿が残っていた。

ウッドストックという奇跡にも似たイベントがかつてあった。その記録映画には、信じられないほど豪華な顔ぶれが揃っていたのだが、その中に若いカルロス・サンタナもいた。圧倒的なラテンのリズムにギターが負けじとかぶさっていく、その迫力には正直参った。そのサンタナの作品の中でも評価の高かったアルバムのタイトルが“CARAVAN SERAI”だったのである。レコードの盤上に針を落とすと、最初の曲が始まる前に虫の音が聞こえてくる。それが、たまらなく良かった。

日本人には秋を感じさてくれる虫の音を、欧米の人は雑音として聞いているのだという説を聞いたことがある。誇張された表現とは思うものの、そういえば、西部劇の夜のシーン。テラスに出ている主人公のすぐ近くでは、必ず虫が鳴いているのだが、それに言及した人物を見たことがない。まったくと言っていいほど無視されているのだ。

それが、ラテンロックの雄、サンタナの話題のLPから聞こえてきたものだから、なんだかうれしかった。きわめて個人的だが、キャラヴァンサライを訪れるということについては、それだけの思い入れがあった。曲を聴いて想像していた隊商宿は、これもまた、映画ベン・ハーの影響かもしれない、オアシスの近くに張った白いテントのようなものだった。しかし、ちょっと考えれば分かるように、それは宿でなくて、キャンプである。実際の隊商宿は、写真でも分かるように宿というより城砦のようないかめしい建物だった。

外壁に穿たれた門を潜り、中に入ると、中にも石積みの建物があった。内部は広く、天井も高かった。面白いのは天井の一部がわざと開けてあり、そこから空が見えていることだ。冬などは寒くて、動物を別の部屋につながず、あたたまるために、一緒に眠ったのだが、さすがに匂いが強いため、屋根が匂い抜きに開けてあるのだそうだ。隊商の荷は盗賊にとっては魅力的な獲物だったに違いない。外壁には上れるように階段が内側からつけられていた。隊商宿は、ただの宿ではない。一夜の安全を保障してくれる避難所でもあったのだろう。

 日干し煉瓦の家




観光地ではないスルタンハヌでは、アナトゥリア地方の自然な風景を見ることができた。隊商宿の裏手には、天日に干した粘土で作った煉瓦を積み重ねて造った家が残っていた。その前には、何を入れておくためか、牛糞を積み上げて小屋状にしたものが二つ並んでいた。辺りは、鶏と羊の糞で、足の踏み場もなかった。隊商宿の裏手にできた日陰で、何十頭もの羊が昼寝をしていた。隊商宿の前、道を挟んだ向かいには、チャイハネが店を開き、ここでもやはり、二、三人の男が暇そうにチャイを飲んでいた。時間が止まったような村を後にして、バスは、いよいよカッパドキアに向かった。

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