SKETCH OF SPAIN


 SEVILLA

セビージャに着いたのは、まだ日も高い午後のことだった。SEVILLAの語尾をスペイン語では「ジャ」と発音する。『セビリアの理髪師』で有名なあのセビリアのことを、こちらではセビージャというのだ。当然のことながらパエリャはパエージャである。

静かなコルドバからやって来ると、セビージャは活気に溢れているように見える。広い通りにはひっきりなしに車が行き交い人通りも多い。通りに面して立つ建物さえ背の高さを競い合うようにどれも大きい。街路には、棕櫚やオレンジ、それにユーカリやプラタナスといった木が植えられ、明るい陽をいっぱいに受けている。夏の日盛りである。人々は日差しを避けて木の下陰を歩いていた。

 スペイン広場



 
バスが停まったのは、そんな木々に包まれた公園の中だった。中央の大きな噴水を囲むように半円形に翼を広げた形の建物が建っていた。1992年に開かれたイベロ・アメリカ展のために作られたパビリオンだ。弧を描いて延びる回廊には各地方の歴史の一齣を描いた陶板が埋め込まれていて、絵解きを楽しみながら散歩するにはもってこいである。今この一画はスペイン広場と呼ばれ、市民の憩いの場となっている。

マリア・ルイサ公園と呼ばれる博覧会跡地と通り一つ隔てた向かい側にカルメンが働いていた煙草工場がある。オペラの舞台ではさして大きな建物と思えない書き割りになっているが、どうして、実に堂々たる物である。今ではセビージャ大学になっているというのだからその規模が分かろうというものではないか。

 フラメンコ


夕食の後、フラメンコのショーを見にタブラオに出かけた。グアダルキビール川沿いに走る道に出ると、川岸に夏の間だけ店を出しているBALが並び、歩道をそぞろ歩きする人の列が見えた。ひときわ明るい建物は城壁を守るために建てられた黄金の塔と呼ばれる正十二角形をした砦である。

タブラオは、本当にフラメンコを見るためだけに作られていた。狭いとも言える室内の半ばを舞台が占めていた。客はその周りに窮屈に並べられた椅子に案内された。次から次に現れてくるダンサーは素人目に見ても、かなりの踊り手たちだと思われた。まだ、若い踊り手たちには若さから来る溌剌とした動きがあり、年輩の踊り手には、その表情の豊かさに魅せられるものがあった。床を踏み鳴らす靴音や手拍子の中に、文化が継承されている確かな手応えを感じることができた。ショーが終わったのは真夜中をまわっていたが、通りには小さな子を連れた家族連れが、何組も歩いていた。シェスタの国なのだとあらためて思った。

 アルカサル

アルカサルと大聖堂は、向かい合うように建っていた。まず、アルカサルを訪れた。石造りの城壁をくぐって中に入ると、驚かされるのは、キリスト教が征服してから建てられた宮殿なのに、建築様式がイスラムそのものであることだ。征服者であるドン・ペドロは、グラナダに残っていたモーロ人を使ってムデハル様式というイスラムの技術を使った建築を作った。それが、純然たるイスラム教のものでないことは、アラベスクの所々に、カスティーリア(城)やレオン(獅子)を表す両国の紋様が紛れ込んでいることから分かる。それにしても、これだけの宮殿を、自分たちの建築技術を使わずに、被征服者の技術で建てるというのは、自分たちが滅ぼした文化に敬意を感じていることからきているのだろうか。イスラムの文化もたいしたものだが、それを認め、悪びれず取り入れていくところに、征服者の持つ審美眼を感じないではいられない。

アルカサルで興味深かったのは池を囲んだ庭園である。室内の精緻なアラベスク紋様とはうって変わって、池の周囲の外壁を飾るのは、凹凸の激しいグロッタと呼ばれる見るからに荒々しい壁である。もともとは庭園の中に人工的に作られた洞窟の内部を表現する形式だったことから、洞窟を表すグロッタという言葉が使われてきた。こういう様式美を「グロテスク」というのだが、現在は、本来の美しさの基準を表す意味から外れ、奇怪なもの、異様なものを表す言葉に変化してきている。確かに、色彩や幾何学模様の華麗さを誇るアラベスクを見た後ではそういわれても仕方がない気もする造りであるのだが。

 大聖堂



カテドラル(大聖堂)とは、厳密にいうと司教座教会の謂で、司教が座る椅子を持つ特別の教会のことである。当然他の教会より高い位階にある。セビージャの大聖堂は、ローマのサン・ピエトロは別格として、ロンドンのセントポールに次ぐ世界で二番目の規模を持つカテドラルである。

ムデハル様式の官能的ともいえるアルカサル宮殿の真向かいに謹厳なゴシック様式の教会が建っているのは、慣れてきたとはいえ奇妙なものである。もともとは、モスクがあったところに建てた教会らしく、オレンジのパティオが残っていた。

 ヒラルダの塔



モスクの名残をとどめるのはパティオばかりではない。大聖堂の隅に立つヒラルダの塔も同じだ。塔の上にある風見(ヒラルダ)からその名がついたが、下部の直方体の部分は、マラケシュ、ラバトの二つの塔と同系で12世紀にアフリカから来たイスラム教徒によって造られたものである。上の方は、コルドバのカテドラルを作ったヘルナン・ルイスの手になるものだが、イスラム教の塔の上にキリスト教の塔を継ぐというのが今ひとつよく分からない。ユダヤ教も含め、もともと同じ神から別れた兄弟のような宗教だから許されるのだろうか。

大聖堂の中に入れば、そこは全くのゴシック様式の教会である。荘厳といってよい独特の雰囲気に満たされている。もともと同じ神と言ったが、二つの宗教にはその教義以外にも大きな違いがある。五体を地になげうって祈るイスラム教徒の姿を、地に生きるものを象徴するのだとすれば、キリスト教は、絶えず天に向かって上昇しようとする。ゴシック建築は高さを目指す意志の象徴である。

 交差ヴォールト天井


 


ゴシックという名前は「ゴート族の」という意味で、西ゴート族から来ている。しかし、建築そのものは西ゴート族とは何の関係もない。新しさ故に侮蔑的な呼び名で呼ばれたことが今に残っているのだ。イスラムの建築でも同じだが、天井の荷重を何によって支えるかというのがいちばんの問題であった。ゴシック建築は、アーチの技術を生かしながら、交差ヴォールトという方式を用いることにより荷重を壁で支えるのでなく、骨組で支えることができるようになった。それが、ステンドグラスという採光の仕方を産み出し、現在にも生きるキリスト教会の様式美を作ることになったのである。それに加え、外側から壁を支えるフライングバットレス(飛梁)もまた、ゴシック教会の美を象徴するものとなった。それは、セビージャの大聖堂でも見てとることができる。屋根の上に架かる平たいアーチ状のそれが、単調になりがちな屋根の外観に変化を与えているのが分かるだろう。

大聖堂で最後に見たのはコロンブスの墓だった。スペインの四つの王国を象徴する巨人に担がれた棺の中には、ハバナから送られた遺灰が納められているという。見るからに立派な墓だが、果たしてこれは報われることのなかった大発見を少しでも償うものになっているのだろうか。
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