SKETCH OF SPAIN



 GRANADA

 アルハンブラ宮殿

道は少しずつ登りながら次第に細くなり、やがて森の中を思わせるような木々の中に消えていた。木陰の道は打ち水のせいかひんやりとしていた。赤褐色の荒い地肌を見せる大きな門をくぐると、目の前に現れたのはルネッサンス風の建物だった。おやおや、これは想像していたアルハンブラとはえらく違うぞ、と思いながら中に入った。暗い通路を抜けた先にはローマ風の円柱が立ち並ぶ大きな円形広場が待っていた。ここでは、毎年音楽会が開かれているという。なるほど、通し柱のように下から続く円柱がつくる二階の回廊はいい客席になるだろう。

 カルロス5世宮殿


 

現在のアルハンブラは四つの部分からなる。一つがこのカルロス5世の宮殿。二つ目がアル・カサバ(城塞)。そして三つ目がアルハンブラ宮殿。最後が夏の離宮ヘネラリーフェ庭園である。カルロス5世の宮殿は、アルハンブラがキリスト教徒に明け渡された後で、その一部を取り壊して造られたものである。神聖ローマ皇帝でもあった王は、二階回廊から、下で行われる宴を見下ろしていたのだろうか。

 アル・カサバ



アルハンブラというのは「赤い城」という意味である。言われてみればアル・カサバの外壁の表面が剥落し、中の赤褐色の煉瓦部分が露出しているのが見えている。それが、名の由来なのか。一見したところ堅固な城壁のようだが、その内実は今でいう木造モルタル構造なのだそうだ。レバノン杉の骨組みの上に、煉瓦などで壁を作り、その上を化粧漆喰で塗り固めたものである。しかし、一度中に入れば、その巧緻精妙を極めた幾何学紋様の饗宴は筆舌に尽くしがたい。それだけではない。小高い丘の上に立てられたアルハンブラなのに、此処彼処に溢れる水、水、水の溢れる様はどうだ。シェラ・ネバダ山脈から水を引いているというが、その導水の技術に驚かされる。もちろん揚水モーターなど無い頃の話である。その水があらばこそ、数十種類の花や樹木のアラベスクが可能であったのだ。大理石と化粧漆喰、水とタイル、それに様々な花の咲き乱れる楽園を粗野な外壁で包んでいる様は、まことに柘榴(グラナダ)そのものである。

 天人花の中庭アラヤネス パティオ

 

砂漠の民であるアラブ民族であればこそ、満々とたたえられた水に対するあこがれは我々の想像を絶するものがあるに違いない。水は乾ききった空気を潤し、風に幾ばくかの湿り気を与える。この宮殿が奇跡的に崩壊を免れているのは、この水のたまものといえるかもしれない。

風が凪ぎ、人が去った後、鏡のような水面には、柱の描くアーチと、白く小さな天人花の花が静かな楽園の情景を浮かび上がらせる。

アルハンブラは1238年にグラナダ王として独立したナザリ家のアルアマール王が、現在アル・カサバと呼ばれている部分から作り始め、歴代の王によって拡張されていった。特にユスフー1世とその子ムハンマド5世の時代に現在アルハンブラ宮殿の中心をなすコマレスの宮殿や獅子の宮殿が増築された。

18世紀に入ると、盗賊や浮浪者の棲み家となり、荒れ果てていたのは、ワシントン・アーヴィングの『アルハンブラ物語』に書かれている通りである。19世紀後半から再び管理されるようになり、現在に至っている。伝え聞くところによれば、残っているのは往時の5分の1とも3分の1とも言われるが、よく残ったものだと思う。

 獅子の中庭

 天人花の中庭から左に進むとアルハンブラ宮殿で最も有名な獅子の中庭が現れる。しかも、この新しい庭を見るために訪れるものは必ず一度は暗い回廊を歩かされることになる。そして、再び陽光溢れる中庭に出ると、さっきとはまるで異なる美に出会うわけである。空間を存分に使った魔法のような建築技術には、ただただ圧倒される。

カルロス5世宮殿と比べるまでもないが、いかにも繊細な大理石の柱はこの中庭だけで124本あるが、かつて金箔が貼られていたという。シンメトリーを嫌うイスラムの建築らしく、二本が一対になったものと一本だけの柱が並んでいる。そのアシンメトリーな大理石の柱とアーチが作り出すリズムは、不思議に蠱惑的な雰囲気を漂わせている。それもそのはず、ここはその昔ハレムであったという。大理石の柱が支える二階部分には寵姫たちの部屋があった。昔、王家の一族の者がハレムの女性に近づき、王の逆鱗に触れ、首をはねられた。その八つの首が置かれた部屋から流れ出た血は、大理石に穿たれた窪みから中央の噴水へ流れたそうだ。今は12頭の獅子のどの口からも水が吐き出されているが、かつては、12の獅子は時を告げる働きをしていたとも言われている。どのような仕掛けであったものか、今は知る由もない。

 ヘネラリーフェ庭園

 

獅子の宮殿を出ると、そこはパルタルの庭になっている。パルタルというのは屋根つき柱廊のことで、その前には満々と水をたたえた池があった。そこから、ヘネラリーフェが見えた。夏の離宮は谷をはさんだ向かい側の丘の上に作られている。

ヘネラリーフェには当時の建築があまり残っていない。中心になるのはアセキアのパティオで、全長50メートルに及ぶ回廊が、噴水を配置した庭園の周りを回っている。庭園には刈り込まれた樹木と、色とりどりの花々が咲き乱れ、見る者をあきさせない。夏の離宮らしく外に向かって開かれた回廊の窓からは、辺りの景色が一望の下である。

アルハンブラはスペインに残されたイスラムの最後の砦であった。1492年、この年は、記憶されていい年だが、カスティーリア女王イサベルとアラゴン王フェルナンドのカトリック両王により、イスラム王朝はグラナダのアルハンブラ宮殿を追われ、ここにレコンキスタは完了する。それまで、イスラム教もユダヤ教も、キリスト教も共存していたスペインは、爾後、カトリック以外の宗教を認めず、改宗か国外追放かという厳しい選択を他宗に問うた。改宗したユダヤ教徒は改宗した後もムラーノ(豚)と蔑まれ迫害を受け続けた。国家が宗教を使って国をまとめようとするとき、弾圧は必ず起きる。この後起きる異端審問の嵐はこのときに兆していた。

また、コロンブスが、女王イサベルに新大陸への渡航許可を得るのも同年。二人が最後の会見を持ったのもアルハンブラ宮殿内の大使の間であった。コロンブスとイサベル双方ともなかなか条件が折り合わず、コロンブスはスペインに見切りをつけかけていたという。歴史に「もし」はないというが、コロンブスがスペインを見限っていれば、中南米諸国の運命は、今とは決定的に違っていたことだろう。歴史の偶然を思わないではいられない。

 グラナダ市街

 大聖堂付王宮礼拝堂

市内のレストランでツナバンドの伴奏つきで烏賊の墨煮を食べた後、少し街を歩いた。地図を片手に知らない街を歩くほど楽しいことはない。道に迷うのも旅の楽しさの一つだろう。あちこちうろついた果てに、お目当ての場所にたどり着いたときの喜びは、バスで運ばれたときとは比べもつかない。大通りから少し入り込んだ小路の突き当たりに礼拝堂があった。シェスタが近いせいか、大通りをはずれると人通りがなかった。礼拝堂の扉もしっかりと錠が下ろされていて、入ることができなかった。色の違う二種類の円い小石を格子状に敷き詰めた舗道が礼拝堂からずっと続いていた。地図によればこの界隈はイスラム教時代、絹問屋だったアルカイセリーアがあったところだ。今は、土産物屋などが軒を並べているが、カスバの雰囲気を漂わす細い小路が残っている。

 バエニア  

スペインといえば、フラメンコと闘牛というのが、おおかたの日本人がこの国に抱くイメージではないだろうか。しかし、それは少し違う。スペインは一つではない。フラメンコは、主にアンダルシアの、それもヒターノ(ジプシー)起源の踊りである。だから、マドリッドを中心とするカスティーリア(城の意)地方では、フラメンコは異境の地の踊りと考えている。そもそもフラメンコとは、スペイン語でフランドル(フランダース)地方のという意味で、スペイン本土とは異なるものという意味である。ただ、現在でもヒターノの人たちが多く住むアンダルシアでは、フラメンコを踊ることで生計を立てている家族も多い。フラメンコを見るならアンダルシア地方に限るのである。

そのアンダルシア地方の典型とも言える街並みを見せてくれるのがバエニアの街である。白い壁と褐色の屋根の色が統一されているのがみごとだ。窓が小さいのはアンダルシアの暑熱が家の中に入るのを少しでも防ぐため。鎧戸をおろした家が多いのは、今がシエスタ(昼寝)の時間だからだ。スペインに来てみて初めて分かったことがある。この暑いさなか、午後2時から4時までを家で眠るというのは賢い生活の仕方だということである。それほど暑いのだ。この地の人は、日も落ちかけた頃に起き出し、また仕事をする。夕食は8時を回らないと始まらない。何しろレストランが開かないのだ。そして、夜は2時、3時まで街にくり出し、BALで飲んだり、ディスコで踊るのである。有名なフラメンコダンサーは、午前3時くらいにならないと登場しないというからすごいではないか。
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