SKETCH OF SPAIN


 CORDOVA

「哀愁のコルドバ」という言葉をかつて聞いたことがある。クロード・チアリのギター曲の題名なのだが、とにかく、コルドバの街を思い浮かべるとき、その頭に「哀愁」がくっついてしまうのだ。それは、この街が千年も昔、ヨーロッパ最大の都市であったということから来るのかもしれない。かつての栄華を誇るその姿にかえって凋落の影を見てしまうからだろうか。グアダルキビール川にかかるローマ橋を渡り、コルドバの街にはいるとき、人は時の流れを想わないではいられない。

川のある町が好きだ。特に名はなくともそこに川が流れ、古い橋がかかってさえいればそれだけでいい。なぜだか理由は分からない。ただ、川の彼岸と此岸にへだてられた二つの土地を結ぶようにかけられた古い橋を見、それを架けた人間というものを想うとき、切なさにも似た感情が胸のうちに湧き上がる。人はそれを感傷と呼ぶのかもしれない。

 ローマ橋


 

ローマ時代に作られたこの橋は、戦争の度に壊されては修理され、今に至っている。橋は幾度もの戦禍を被ってきた。しかし、人は、戦いが終わると同時に橋をかけ直した。そうして、幾度も幾度も橋はかけ続けられる。橋を見るたびに、その想いに感傷が混じるのは、人が異なる世界や人を拒むのでなく、むしろ接したいと想っているということを橋が語りかけてくるからではないだろうか。それで、人は橋の上に立つと立ち止まらずにいられない。そうして、何をするでもなく川の方に目をやり、流れる水を見つめ続けるのだ。

橋を渡ってすぐの所にホテルはあった。二階に上がって部屋の鍵を開けた。割と広い部屋の中は暗く、窓には木でできた重そうな内扉が閉まっていた。観音開きの扉を内側に引いたとたん、目の前に赤と白のだんだら模様のアーチが飛び込んできた。なんと通り一つ隔てた真向かいにメスキータが建っていたのだ。

荷物をほどくのも程々にして、早速外に出た。さすがに暑かった日も、暮れ方ともなれば、風が涼しい。メスキータのまわりをぐるっと回ると、ローマ橋の上に出た。橋から眺める回教寺院は夕日に映えてひときわ大きく見えた。その手前にローマ風の凱旋門が街の入り口を守るかのように今も残っている。今も昔もこの橋が街への進入路なのだろう。石畳の道を車が通り過ぎていった。

夕食後部屋に戻ると、窓から月が見えた。疲れたのか、散歩に誘っても妻は
「いいから一人で行ってきて。」
といって動こうとしなかった。しようがないので一人で外に出た。通りは夕涼みがてらにそぞろ歩きをする人が結構いた。空には、月ばかりでなく星も光っていた。もったいないので、ホテルに戻って、もう一度妻を誘った。少し横になって元気が戻ったのか、今度はいっしょについてきた。ライトアップされたメスキータを見るだけでも外に出た甲斐があるというものだ。

帰り道、どこからかフラメンコの音楽が聞こえてくる。通りの向こうの暗がりに目をやると、狭い入り口から光が洩れていた。人の笑う声や手拍子も聞こえてきた。まだ宵の口だ。これからが本番なのだろう。けれど、シェスタの習慣のない我々にはちょっとつき合いきれない。宿に帰って休むことにした。

 メスキータ

 

ホテルの前の道をすこし歩いて、左に曲がったところにメスキータの入り口がある。かつては、四方の壁に19もの入り口が開いていて、信者はどこからでも入れたのだが、13世紀にこの町がキリスト教徒にとりかえされた時に一つを残して閉じられてしまったのだ。

入り口は免罪の門と呼ばれている。その上に16世紀に建てられた塔が残るが修復中とかで上ることはできなかった。門をくぐるとそこは棕櫚やオレンジの木が整然と植えられたパティオになっていた。真ん中にある池では、かつて信者が沐浴をしたそうだ。木々の間に一本道が通っている。その先に一つだけアーチ状をした門がぽっかりと口を開けていた。棕櫚の門である。しかし、モスクに入るには、塗り込められた幾つものアーチを右手に見ながらもう少し歩かねばならなかった。

棕櫚の門の反対側にある入り口から寺院の中に入った。中の暗さに目が慣れるまでそこに何があるのかよく分からなかった。やがて、黒々とした影のように見えていたものの表面に大理石の紋様が浮かび上がってきた。柱に沿って目を上げると、まるでパティオに植わっていた椰子の葉を模倣するように幾重にも重なった赤と白のアーチがどこまでも続いていた。天井の高さが高いため、ローマの遺跡からとられた大理石の柱の上に角柱を継ぎ足し、二重のアーチで荷重に耐えるようにしているのだ。

あらためて寺院の中を見渡せば、林立する大理石の柱の列は、そのまま壁の向こうのオレンジのパティオにまで続いているように見えた。薄闇に目を凝らし、壁に残るアーチの内側を塞いでいる煉瓦や石を頭の中で取り除いていった。すると、明るい光の向こうに柱と等間隔に植えられた棕櫚椰子の列が見えてきた。そして、棕櫚の向こうに長く延びた塀にもアーチ状の入り口が開き、そこからは、かつてのコルドバの街やそこを歩く人や驢馬の姿さえ見えるような気さえしてくるのだった。

偶像崇拝というものをしないイスラム教寺院には祈祷のためにメッカの方角に設けられたミヒラブという小さな窪みがある。そのミヒラブと、その前にあるマクスラというカリフの祈祷所には大理石を使った色鮮やかなモザイク彫刻がある。しかし、三度に渡って拡張されてきたこの大寺院の大きさから考えると、それは本当に小さなものである。それ以外の壁面には扉の着いた開口部をとることができた。その扉はいつも開け放され外光はモスクの中に入ってきて、大理石の柱を照らし、床に長い影を曳いたことだろう。

しかし、キリスト教会は多くの聖者の画や彫刻を壁面に配置し、側廊部分には幾つもの礼拝堂を設けるため、壁面には開口部をとることができなかった。そういうわけでメスキータの扉は13世紀以来閉ざされたままになっている。それだけではない。モスクの中央部分には、16世紀にカルロス5世によって建造されたカテドラル(大聖堂)が異物のように挿入された。ミヒラブやマクスラを彩るアラベスクの天井を見慣れた後でそこに入ると、白い壁面や天井に犇めく聖者や天使たちの像にある種の抵抗を感じざるをえない。カルロス5世が「どこにもない物の中に、どこにでもある物を建て込む馬鹿がいるか」と嘆いたと伝えられるように、それはいかにも凡庸に見えてくるのである。

 花の小径

     


メスキータから少し歩くと、「花の小径」と呼ばれる絵のような一角に出た。コルドバの街の魅力は白い壁の家並みを縫うように続く細い小路を歩き、家々のバルコニーや壁に飾られた季節の花を愛でることにつきると言われている。その壁に飾った花の向こうに免罪の門の塔が見えた。

アルハンブラの中を歩き回ったのがきいたのか、妻は今朝から足の痛みを訴えていた。ふと見ると、民芸品を扱う店の入り口に革のサンダルが積み上げてあるのに気がついた。早速足に合わしてみた。細い革のベルトで調節するようになっているのだが、うまくできないでいると、店の中から人の良さそうなおじさんが現れた。手近な椅子に妻を座らせると、自分は片膝をついて、そこに妻の足を載せ、ベルトを調節してくれた。どこをどういじくったか分からぬままに、サンダルはまるで誂えたように妻の足にぴったり合った。指の痛みから解放されたことより、おじさんの丁重な扱いに妻は大感激。赤葡萄酒色のサンダルはこれからの旅を楽しくさせてくれそうな気がした。

店の中には様々な革製品があった。実はベルトやランドセルに使われるコードバンの名は、コルドバから来ている。回教徒によってイスラムから伝わった革細工の技術をコルドバが発展させたのだ。

 ユダヤ人街

 マイモニデスの像

コルドバというのは不思議な街だ。モスクとキリスト教の教会が一つの建物に入っているかと思えば、そのすぐ近くにシナゴーグ(ユダヤ教教会)が残っている。ローマを含め、これら四つのかつては相克しあった文化を当時も今もその懐に抱いているのだ。

シナゴーグを探してユダヤ人街の石畳の道を歩いていると、通りから少し入ったところに立派な風貌をした人物の像が立っていた。マイモニデスの像である。医者であり、ユダヤ教教理を成典化するのに功のあった人物と聞くが、10世紀にはヨーロッパ各地から大学で学ぶために多くの学生がコルドバに集まってきていた。その時代の知の集積地であったのだろう。有名なセネカもこの地に銅像を残しているという。

狭い通りの多いコルドバでは自分の足で歩くのがいちばん便利だ。街の中ならおおよそどこでも歩いていける。四、五日いれば地図なしでも歩けるようになるだろう。車も通るが、入り組んだ市街地には必要以上の車は入ってこない。道は歩く人のためのものだ。静かな通りは、何処に行くというのでなく、ただ歩くだけでも充分その楽しみを満喫させてくれる。立ち去り難い思いを抱きながら、街を後にした。
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