SKETCH OF SPAIN


 LISBON

セビージャを後にして、バスはポルトガルの首都リスボンに向かった。車窓に時折現れる丘の上の城郭らしきものを除けば、後はどこまでも続く枯れ草の平原が続くエストレマドゥーラ地方である。

国境の町の名はバダフォス。そこで昼食を食べた後ポルトガルに入った。EUの時代のせいか、パスポートのチェックも何もなく、まるで県境を越えるような気楽さで国境を越えた。

 アモレイラスの水道橋


 

この水道橋は比較的新しいものだが、水というものがいかに重要なもであったかをこうした遺跡は再認識させる。それにしても、ギリシャ人がやっていたようにまぐさで垂直荷重を水平に受けるのでなく、アーチを使うことで柱に荷重を分散させることに気づいたローマ人の智慧には感嘆させられる。ア−チというものがなかったら、この時代の建築の持つ美しさの大半は失われることになるだろう。機能的なものは美しいということを実感させてくれる例である。

 コルク樫

 

コルク樫が街路樹のように両側に植えられた道を走り続けた。ポルトガルはコルクの生産量が世界一だそうである。樹皮を剥いでコルクを作るのだが、皮を剥いだ後に、木を保護するためかペンキのようなものを塗る。赤茶色をしたそれが、道に沿ってどこまでも続いていた。

こんな所でわざわざ停まる車があるのだろうかと思ってしまうような辺鄙なところで、バスは休憩をとった。煤ぼけたような土産物とカウンター、それに壊れかけた自動販売機のあるレストランが、道の脇にぽつんと立っていた。

土地の男が二、三人止まり木に座ってこちらを見ていた。ビールでも飲みたいところだが、バスで国境を越えたばかりで、まだポルトガルのエスクードを持っていない。することもないので、バスが出るまで店の周りを歩いていた。店の後ろにも樫の木が生えていた。思い出したように前の道を車が走り抜けていった。

 コスタ・ダ・カパリカ

てっきりリスボン市街に泊まるのだとばかり思っていたら、この日の宿は、近くにある保養地のリゾートホテルだった。こんなこともあろうかと持参してきた水着に着替えて、ホテルの前のビーチに出かけた。

海岸はヴァカンスのポルトガル人で一杯だった。日本人の観光客は、そのほとんどが周遊型で、滞在型は少ないからか、水着を着た同胞は誰もいなかった。大西洋の水はとても澄んでいた。空の青さがそのまま海に映るのか、海の水も青かった。水は冷たかったが気持ちよかった。

聞いていたところでは、こちらの人は海ではあまり泳がないということだったが、聞くと見るとは大違い。ポルトガルの人は日本人に似ているのだろうか。

旅の間、食事の際同席した人たちから、よく「新婚ですか」と聞かれた。悪い気はしないが、大きな子のいる夫婦としては、ちょっと複雑な気持ちである。
「とてもそんな大きな子がいるようには見えない。子どもの話はしない方がいい」と忠告してくれた人もいた。気の若いことは認めるのだが。

結婚した当時は少々つむじ曲がりのところがあり、そろそろ流行りはじめていた海外への新婚旅行をあえてしなかった。妻には少しかわいそうな気がしていた。そんなわけで、今回は新婚旅行のやり直しみたいなものだから、周りの人がそう見ても不思議ではないところもあるのだが。

 ファド


ホテルに戻って着替えた後、旧市街に出かけた。バイロ・アルト地区にあるレストランでファドを聴くのだ。七つの丘からなるリスボンの街には坂が多い。それもかなりの急坂である。陽が坂の向こうに沈んでしまって、白い壁に藍色の影が濃くなった。大通りで車を捨てて狭い小路に入っていった。少し薄汚れた感じの裏通りだった。壁にスプレーの落書きがいくつも残る、そんな通りだ。

店の中は小綺麗だった。ファドといえば、アマリア・ロドリゲスの歌う「暗いはしけ」ぐらいしかなじみがなかった。決して美しい声ではないがしゃがれたような声で感情を込めて歌うその響きは、一度聞いたら忘れられない種類の歌である。最初に歌ったのはまだ若い女性だったが、やはり少ししゃがれた声で切々と歌った。歌詞の内容は無論分からないのだけれど、聞いているこちらにまで何ともいえない哀感が伝わってくる。数曲歌って次の男性に変わったが、歌の巧拙はひとまず置くとして、ファドには女性の声がよく似合っているように思えた。 

 アルファマ地区



朝のうちに、サン・ジョルジュ城に登った。アルファマ地区という旧市街を通っていくのだが、石畳が円を描くように上っていく道の両側には、店を開いたばかりの八百屋だのパン屋だのが互いに威勢のいい声で、朝の挨拶をかわしていた。食料品を積んだ車が狭い坂道を上ったり下ったりする中を、丘の上にある城まで登っていくと、所々にまるで建てられた当時から変わっていないような昔の面影を漂わせる家並みが残っていた。1755年のリスボン大地震の傷跡は、コルドバのメスキータにも残っていたほどだが、このアルファマ地区は奇しくも災禍を逃れたため、中世そのままのたたずまいを残している。生活の匂いのするこんな一角に出会うとうれしくなる。子どもの頃を思い出すからだ。人々は通りに顔を向け、道行く人と話を交わし、一日が過ぎて行く。空間は遠く隔たっているのだが、流れている時間が子どもの頃住んでいた世界に似通っているのである。

 テージョ川




城は5世紀頃に建てられたそうだが、市街を一望できる絶景の地にあった。石垣に据え付けられた古い砲台には、今も大砲がそのまま残っていた。砲身にまたがって石垣の向こうに身を乗り出すと、眼下に海のように見えているのはテージョ川である。確かに川のはずなのだが、どう見てみても川には見えない。リスボンのガイドは日本人女性だったが、こんな話をしてくれた。
 「この間、年輩のご夫婦を案内してここに来たときのことですが、奥さんが、とてもきれいな海ですね、と言われたので、いいえテージョ川ですよ。と言ったら、そうなんですか。でも海ですよね。と何回も念を押されたんですよ。」

老婦人の味方をするわけではないが、日本人なら誰が見てもこれは海にしか見えないだろう。ガイドの女性は長くこちらにいるから川に見えるのだ。明治の初めに、治水技術者として日本にやってきたオランダ人のデーレケは、日本の川を見て「これは川ではない。滝だ」と言ったと伝えられている。落差もなく向こう岸が見えないほどの幅を持つ水の広がりを川だと認識できる日本人は少なかろう。床の間の掛け軸のように縦長の画面にふさわしいのが日本の川なのだ。

 路面電車  




リスボンの三大名物は、坂と路面電車と石畳だそうである。城からの坂道を下りてくると、車体を黄色に塗った路面電車がちょうど止まった。玩具のようなかわいらしい電車だった。子どもの頃、よく似た電車が走っていたのを思い出す。自動車が町に溢れだした頃、日本の町からはひっそりと路面電車が消えていった。近頃では、逆に排気ガスを出さないところが評価され復活の気配があると聞く。勝手なものだが、もし町に路面電車が戻るなら大歓迎である。そのときには是非あの野暮な宣伝の文字をつけず、ポルトガルの電車のようにきれいな色の車体で走らせてもらいたいものである。

 シントラ




リスボンの北西に、バイロン卿が地上のエデンと称えたシントラがある。王家の夏の離宮があり、かの天正遣欧使節の一行もここを訪れていた。乾ききったスペインを旅してきて、ここに至れば、緑に囲まれ、城や王宮が点在するこの地は地上の楽園とも見えただろう。ポルトガルの大西洋側に面したシントラだから、西岸海洋性気候の影響もあるのだろう。これまで旅してきた土地とは、空気中の湿度が違っていた。この日もリスボンは快晴だったのにここでは曇っていた。山が緑に覆われているのは雨に恵まれているからだろう。なるほど炎熱の街を避けて避暑に来るにはふさわしいところだ。しかし、それは乾ききった大地に住む人たちにとってのことである。東洋の湿潤な夏を逃れてきている身にとっては、むしろ乾いた空気に憧れる気持ちが強い。

とはいえ、王宮は美しく、切支丹の少年使節が王に謁見した部屋の調度もよく保存されていた。夏の離宮ということもあり、開放的な造りで窓も広く明るい部屋が印象的だった。暑さをしのぐ工夫か、窓の外には水を引いた池が随所に配置され、庭には緑の植物が茂っていた。こういった場所では、あまり見ることのない台所も見学場所になっていて、大きな竈の上にこれも大きな煙突の穴が二つ開いていた。山道を下りながら振り返ると、王宮の屋根には不釣り合いとも思えるほど高い煙突が二本突きだしていた。どんな料理を食べていたのだろうかと、ふと思った。

細い道を下りてくると、村と呼んだ方が相応しい小さな町に出た。にぎやかな商店街を通り抜けると、林を抜けたところにレストランがあった。テーブルの真ん中には、もうすっかりお馴染みになった、塩漬けのオリーブがでんと鎮座していた。初めのうちこそつまんだが、ちょっと飽きていた。こちらの人にとっては梅干しのようなもので飽きるということはないのだろう。せっかくたくさん出したのにという顔をしてこちらを見ていた。ポルトガルの漁師町では、魚の干物を作ったりするところもある。味覚が似ているのか日本人には口に合う料理が多かった。

 バイシャ地区




再びリスボン市内に戻り、中心街を歩いた。バイシャというのは「低い土地」という意味で、逆にバイロアルトは「高い土地」という意味である。坂の多いリスボンでは、昔懐かしいケーブルカーや、サンタジョスタのエレベーターが現役で活躍している。エレベーターのどこが珍しいのかと思う人がいるかもしれない。ビルの中ではなく、公共交通機関として、野外に設置されていたエレベーターを覚えている人なら、懐かしいと感じるに違いない。低地から垂直に鉄骨を組み上げ、一気に乗客を上に運ぶと、そこからは長い橋で高台に渡す仕組みである。見晴らしの良さが喜ばれて、日本でも景勝地に一時よく見かけた。ここリスボンでは、町の中に作られている。ビルの谷間を通る坂道の上を硝子窓のついた長い橋が横切っている風景は実に魅力的に映る。ここでは、目に入る物すべてに高低のアクセントがつけられ、風景が立体的に見えるからだ。

 ベレン地区

 ジェロニモス修道院



次に向かったのは「大航海時代」のポルトガルをしのばせる歴史的遺構が数多く残るベレン地区であった。ジェロニモス修道院は川岸から少し中に入ったところにあった。インペリオ広場を囲むように博物館や碑が数多く建てられているが、その中心になっているのがここだった。修道院は、バスコ・ダ・ガマの海外遠征によって得られた巨万の富を使って建てられた。ここには彼の墓がある。もっとも墓といっても遺体はない。その人の功績をたたえる彫刻によって飾られた櫃のようなものが広い空間の壁際に安置されていた。壁や柱の装飾にはキリスト教建築にはめずらしく、海洋国ポルトガルを象徴するように、帆綱やそのほか海をモチーフにしたものが多く用いられていた。

 ベレムの塔




広場の前の通りを河岸に向かって歩き出すと、水の中に真っ白な塔が見えてくる。ベレムの塔である。大航海時代、船の見張りに使われていた塔は、その美しい姿からテージョ川の貴婦人と呼ばれている。川の中にかけた仮橋から塔の中に入った。水の量が少なく、岸壁の近くは川底が露出していた。周りをすべて水に囲まれていたなら、貴婦人が裳裾を引くように白い影を水に映していただろうにと惜しまれた。

いつか聞いたことがあるのだが、日本人が海外に旅行して、もっとも好感を持つのはポルトガルだそうである。来てみて思うのは、横浜や神戸、それに長崎に似ているということだ。坂に石畳、路面電車。海に面していて、それを見下ろすように町が広がっているところもそっくりである。海を渡ってきた碧眼紅毛の人々は、故国に似た風景をそれらの街に見出し、そこに自分の家郷そっくりに街を作っていったのだ。日本人が感じる異国情緒は、早くから異邦の人々に開かれたそれらの街によって形作られてきたのだろう。ポルトガルの醸し出す懐かしさには理由があったのである。
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