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 無常観

ある日、妻が言った。
「あなたは、自分の車に防災グッズを積むのいやでしょうね。」
車にものを乗せるのがいやで、ティッシュの箱一つ置かない。車に何も乗せないのは生活臭が漂うのを嫌うからで、走るための機能さえあれば他はいらない。CDもなければ、ナビもない。およそ愛想というもののないのが我が愛車なのだ。そんな夫の性格を知っていながらそんなことを聞くのは、よほどのことである。

半月ほど前、かなり強い地震があった。二、三日の間余震が続き、不安な日々を送った。妻は非常用の食料やら防災グッズをリュックに詰め込み、ベッドの足下に置いた。割れたガラス対策に長靴も用意する徹底ぶりである。夫の方は、その時はその時といういい加減な性格なので、その後に来た台風のせいで、地震のことを忘れかけていたのだが、そこへ今度の新潟県中越地震である。

テレビ画面に映る家屋の倒壊ぶりを見るにつけ、緊急用の荷物は家の中に準備するだけでは心許ない。家から離れた場所に駐車している車の中に積んでおくことが大事だと思ったのだろう。そんな時に届いた自分の新車はトランクに物が載せられない(電動でトップの部分がトランクに格納されるコンバーチブル)。しまった、と思ったのではないか。

しかし、今回の地震報道を見てつくづく感じるのは、日本の家屋の頼りなさである。震度6という余震が続いていては、揺れる家の中で眠ることもできず、狭い車の中で夜を過ごす被災者の様子を見るにつけ、家とはいったい何なのだろう、という思いがつのるのである。苦労して庭付き一戸建てを手に入れたところで、地震で倒れてしまえば残るのは借金ばかり。夜露や雨風をしのぐ程度のことなら、賃貸マンションやアパートで充分、大枚をはたいてマイホームを建てる必要などない。

思い出すのは、鴨長明の「方丈記」である。冒頭の有名な文。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」は、人の世とその住処について述べた文。長明の生きた時代も飢饉や火事、戦乱の相継ぐ乱世であった。組立式の方丈の家を住処と定め、世の無常を説いた本人は、権勢欲や名誉欲の強い俗人だったという風評もあるが、その現実を見据える目のたしかさは堀田善衛の『方丈記私記』にくわしい。

鴨長明が牛車に組立式の方丈の庵を積んで、日野のあたりに隠棲したのは、どうせ火事や戦火に焼かれるなら、立派な住居などいるものかという一種の開き直りだろう。今ならさしずめキャンピング・カーか。小さいながらもベッドもあれば、キッチンもついたキャンピング・カーなら、余震の怖れのないどこかの町に移動して、ゆっくり眠ることもできる。横になることができればエコノミー・クラス症候群に怯えることもない。

もとより今の車に不満はないが、あと少しで、愛車も一年車検になってしまう。防災グッズを積んだステーション・ワゴンより、キャンピング・カーの方が徹底している。本当に生活する気なら、アメリカ映画に出てくるトレーラーハウスがいちばんだろうが、あまり設備が行き届いたものは第二の住居化し、本質を見失ってしまう。ここは、車の後ろにつける小さなトレーラーハウスくらいが現代版方丈の庵として適当かもしれない。

 プラグを抜く

産業再生機構の支援を受けることになったダイエーに代わって、IT産業大手のソフトバンクが福岡ダイエーホークスの買収に名乗りを上げた。今年のプロ野球界は、近鉄とオリックスの合併問題から1リーグ制の是非をめぐって、選手会とオーナー会議の間にストを含む対立があるなど、何かと話題を提供してくれたが、その中でも特筆すべきはIT産業が球界に向ける視線の熱さだろう。

近鉄バファローズがオリックスブルーウエーブに吸収合併されることにより、球団数が一つ減ることになったパ・リーグだが、ファンや選手会は合併反対、それが無理なら新球団の参入による2リーグ制の維持を訴え続けてきた。スワローズの古田選手をはじめ、選手会はストを打つなど果敢に世論に訴え、どうにか2リーグ制の維持にこぎ着けた。そこに降ってわいたようなダイエーと西武の社長辞任劇である。

もともと西部ライオンズのオーナーでもあった堤氏は、巨人の元オーナーとともに1リーグ制の推進論者であった。近鉄とオリックスの他に、もう一球団の合併もあり得るという噂の出所でもある。すわ、1リーグ制の復活かと周囲が色めき立っても無理はない。そこに、インターネットの世界では、ライブドア、楽天以上に知名度の高いソフトバンクの球団買収話である。日本シリーズの真っ最中だというのに、プロ野球をめぐる話題は、試合そっちのけで球団経営の方に視線が集まっている。

イチローや松井秀喜の活躍のせいですっかりメジャーリーグにお株を奪われた形の日本プロ野球界だ。これだけニュースになるのは不幸中の幸いといったところかもしれないが、ちょっと待てよ、という気がしてくる。冬ソナブームを見ても分かる通り、ひと頃とはちがって、チャンネルの主導権は父親族にはない。プロ野球に人気が集まるのは、ビール片手に野球観戦する中年男性ファンをいまだに引きつけることのできる数少ないプログラムだからだろう。

今まで、何か大きなイベントが政府の手で行われるときは決まってその後ろで別のプログラムが進行していた記憶がある。オリンピックや万博がその最たるものだが、そういえば、今年のオリンピックの盛り上がりぶりは異常だった。どうやらそれも落ち着いて、大人の関心も政治の方に向くかと思われた矢先に突然の球団合併の話題である。マスコミがこの話題に飛びつくのは当然である。かくして、この国の関心はまたしても娯楽の方に向けられてしまった。

メジャーに押されるプロ野球もそうだが、インターネットの普及により、テレビも情報の中心ではなくなってきている。そのプロ野球界に次々とインターネット関連企業が参入しようとしているのが時代を感じさせる。現代にあっては、情報を操るものが権力を握る。日本に限らず、メディアで力を持つ者が政治の舞台に躍り出ている時代だ。ヒトラーの例を出すまでもなくメディア戦略は大衆の政治動向を支配する上で最も有効な手段である。耳目を集める大見出しの陰でひそかに進行しているものがないか、時には、垂れ流される情報でいっぱいのテレビやネットの「プラグを抜いて」、自分の目で世界を見つめることが必要なのかもしれない。


 等身大

オリンピックの金メダル選手に贈るかどうかでもめていた国民栄誉賞だが、今度はイチローの方からあっさり辞退されてしまったようだ。なかなか本心を明かさない彼のことだ。まだまだ上をねらっているにちがいない。相変わらずのクールなコメントの裏には、これくらいのことで受賞させられてもありがた迷惑といった自負心が透けて見える。

メジャーリーグで活躍する選手の成績に一喜一憂する日本国民は、彼らの背に日本を背負わせ、その日本に自分を同化させているのだろう。政府は、いっこうに上昇してこない景気だけでなく、不祥事や不審な事件、災害が相継ぐ世相に意気消沈気味な国民の志気を高めるために、自ら努力する代わりに国民的英雄を作りだし、その力を借りようとしているのだろう。実に安易な考えだし、危険でもある。

世界で活躍する日本人は数多いが、彼らが日本を捨て、海外に出て行ったには理由がある。自分の力を発揮するには、その方が相応しいと思ったからだ。逆に言えば、日本にいては、その力は十分発揮できずに終わってしまったかもしれない。話はスポーツの世界に限らない。音楽やバレエにおいても優れた才能を持つ若手は、日本ではなく海外に活躍の場を探すのが普通だ。

海外で活躍する日本人に、同国人として誇りを感じるのは勝手だが、日本が彼らをそこまで育てたかどうかは疑わしい。世界の優れた才能の中で揉まれながら、本人の努力で開花した成果だけを見て、まるで我がことのように喜ぶのは、どうかと思う。今となっては幻想に過ぎないが、かつては、経済は一流と呼ばれた国である。潤沢な資金に恵まれながら、スポーツも芸術も充分に根を張らせることができず、景気後退と伴に球団は倒産、メセナコンサートは廃止と金儲けに邪魔だと見るとすぐに切り捨てられるのがスポーツと芸術だ。

プロ野球に参入しようとしているのがインターネット関係の企業であることが象徴しているように、その時代に金を儲けることができる企業の宣伝材料に使われているという体質は何も変わらない。今は昔の話だが、かつては「国鉄」や「東映」といった名前を冠した球団もあった。ライブドアの堀江社長はインタビューの中で「野球が好きなだけでは球団は経営できない」と言っている。たしかに経営という面ではその通りだろう。しかし、経営手腕のたしかさで救われるのは企業であって「野球」ではない。経営のためにチームを勝手に売り買いする経営者は、映画では決まって敵役になっているではないか。

メジャーリーグで活躍する選手はまぶしい。しかし、それはメジャーが輝かせているまぶしさであることに気づこう。大手の航空会社に混じって格安料金で営業を始めたスカイマーク社は、新社長になって音楽サービスをやめ、飲み物はペットボトルにした。海外進出という夢の代わりに西日本限定という現実路線を敷いたという。憧れの対象に自己を同一視して白昼夢に耽るのは子どもである。等身大の自己に気づくことが、大人になるということだ。

何か、この国全体がかつて見ていた夢から覚めることを怖れ、いまだに白昼夢を見ているような気がする。もうそろそろ等身大の自己に気づいてもいい頃だろう。夢は夜見るものだ。日が昇ったら、自分の足下を見詰め、自分の力で歩くことが可能な距離を目指して足を踏み出すしかない。そういう意味では、高校野球で培った人材を活用して、既成リーグとは別に新リーグを立ち上げようとする四国の試みは興味深い。野球ファンは、どこかの金満家のオーナーなどの手で邪魔されないように、しっかり目を覚まして見ていく必要があるだろう。

 秋晴れ

同業者の集まりがあって、久しぶりに昔の仲間や、懐かしい顔を見た。川沿いに住んでいる人には、被害がなかったか聞きあうのが、挨拶代わりのようだった。それほど親しくしていたわけでもない人からも、山小屋の様子を訊かれたのだが、まだまだ落ち着いていない被災地区にボランティアをする訳でもない人間が、顔を出すのははばかられ、被害の様子も分からない。もう少し落ち着いたら、一度は見に行かなければならないと思っているのだが。

懐かしい顔を見たからというわけでもあるまいが、いつになく饒舌になっていたらしい。「どうしたの、今日はテンションが高いね。」
と、言われてしまった。
「天気がいいから。その影響だろう。」
と、答えたが、避難勧告が出て以来、ぐずついた天気が続いていて、復旧工事もままならない様子が、新聞等で伝えられている。大雨警報が出るたびに、また土砂崩れが起きるのではないか、という不安が頭を擡げてきて、気分が晴れない毎日が続いていた。

久しぶりの秋晴れに、堆積した泥濘の除去も進んでいるだろうと思われ、他人事ながら晴れやかな気分でいたのは本当だった。雨の多い地区でもあり、これまでも何度も大雨を乗り切ってきた。小屋を建てているとき、地元の人が、「本当は怖いところなんやんな。」と、教えてくれてはいたが、あまり真剣に聞かなかった。話している人も、そう言いながら、どこか、安心している口ぶりだったからだ。

しかし、いつぞやの大雨の後、人家こそ流されはしなかったが、小規模の土砂崩れはあり、小屋に行くまで、何度も倒木が道を塞いでいるのを見た。小屋に着いてみると、前の道は大きく剔られ、谷川沿いに植えられていた欅が、崖ごと川の中に落ち込んでいるのを見て、ぞっとした。さいわい、小屋は大丈夫だったが、被害の大きさから見て、今回はあの時以上の事態が予想される。それでも、自分の小屋のことなど、正直どうでもいいような気がしている。

気分が晴れないのは、避難勧告を出す時期が遅すぎたという批判が出ていることもある。あまりに雨が多く、テレビの気象情報番組を見ても、立体の棒グラフが日本地図の中でそこだけ異常に突出しているのは日常茶飯だったからだ。たしかに今回の雨量は記録的であったが、雨に慣れている土地だけに、かえって避難勧告を出すことが躊躇されたのは分かる気がする。それに、安全な避難場所といっても、平地とは訳がちがう。皆がすぐに集まれるようないい場所を見つけるのが困難なくらいの山の中だ。

地球温暖化などという言葉は、もっと大きな世界のことだと考えていた。こんなに自分の身近に、その影響が出てくるなんて考えもしなかった。台風の多さも大雨も、地球温暖化が原因だという説が出ている。地球は勝手に暖かくなっているわけではない。人間の行為がその原因である。天災ならあきらめもつくが、人災となると話は別だ。ばかみたいに化石燃料を燃やす戦争に、反対するどころか、それまで禁じていた武器輸出まで解禁しようという国がある。気分が晴れないのは、また近づきつつある台風のせいばかりではない。

 ジャネット・リー追悼

ジャネット・リーが死んだ。ヒッチコックの『サイコ』に出てくる、あの女優だ。ヒッチコックといえば、とびきりの美人女優を使うことで知られているが、ジャネット・リーは、出てきてすぐに殺されてしまう。当時、スター女優を冒頭で殺してしまうなんてことは考えられなかったから、この映画をはじめて見た観客は、いったいこの後どうなってしまうのか、と驚いたことだろう。よほどインパクトがあったのだろう。このシャワールームでの殺人は他の監督の映画の中で何度も引用されることになる。

ジャネット・リーについては、ジョン・ギャビンと昼下がりの情事を楽しんでいる場面や、シャワーに入るため服を脱いでいるところをアンソニー・パーキンスに覗かれている場面での下着姿の印象が強い。性に関するタブーが今とは比べものにならなかった当時としては大胆な表現だった。二重人格者による殺人という設定を観客に最後まで隠しておきたかったヒッチコックは、ジャネット・リーの下着姿に観客の目を引きつけ、そういう映画だと思わせたかったのだろう。

ジャネット・リーとトニー・カーティスの間に生まれたのが、ジェイミー・リー・カーティス。シュワルツネガーと共演した『トゥルー・ライズ』で、コミカルな演技を披露していたが、メジャーになるまでは、ホラー映画が多かった。美人だが今ひとつ華がなく、恋愛ものには向かなかったのかもしれない。二枚目ながら喜劇的な役柄を得意とした父親の血か、コメディエンヌに徹してから、メジャー級の作品に恵まれるようになった。

二世といえば、同じヒッチコックのヒット作『鳥』の主演女優ティッピ・へドレンの娘が『ワーキング・ガール』で成功を収めたメラニー・グリフィス。彼女も、これでスター女優に登りつめたが、それまではブライアン・デ・パルマ監督の『ボディ・ダブル』でポルノ女優の役などしていた。ブライアン・デ・パルマといえば、ヒッチコック調で名を馳せた監督だが、この映画も、『裏窓』や『めまい』を意識して撮られていた。

『汚名』のイングリッド・バーグマンとロベルト・ロッセリーニ監督の間にできたのが、イザベラ・ロッセリーニ。デヴィッド・リンチの『ブルー・ヴェルベット』での妖艶な主婦の演技は忘れられない。ヒッチコックの愛した美人女優の娘たちは、いずれも一癖も二癖もある監督に気に入られているようだ。ところで、これらの作品に共通しているものがある。「覗き」である。昔から、美人を見る設定として「夜目遠目傘のうち」という言葉があるが、自分は相手から見られずに相手を見るという点で、覗きと共通するのが興味深い。

キャメラのレンズ越しに女優たちを見続けている監督が、覗きというテーマにこだわるのは分かる気がする。しかし、暗闇の中で息をひそめてスクリーンを見続ける観客もまた、共犯者である。いわば映画という表現そのものが公認された覗き行為ではないか。その映画の中で、あえて覗かれる役を演じる女優は映画のミューズと言っていいだろう。美しい女神たちの偉大な先達の一人、ジャネット・リーの冥福を謹んで祈りたい。

 路面電車

フランスの交通会社が、撤退する私鉄の後を受けて、岐阜の路面電車事業に参入するかもしれないというニュースが伝わってきた。撤退する会社もあれば、参入を希望する会社もある。撤退するのが大手私鉄というところも似ている。プロ野球も路面電車も同じだなあと、なんだか偶然の一致に愉快になった。

自動車の普及に伴って、それまで日本各地の都市を走っていた路面電車が次々と廃止されていった。京都の市電も廃止されて、地下鉄が走るようになったが、地下鉄と市電は同じ電車でも比べることができない。地下鉄は点と点を結ぶようなもので、移動中はひたすら車内に閉じ込められている。どこをどう動いたのか、乗客には皆目見当がつかない。

それに比べると、路面電車は線と線を結ぶことで、面を構成する。蜘蛛の巣状に張り巡らされた複雑な路線に乗って街を動けば、ランドマークを頼りに、街の様子を知ることができる。店の在りかや人の流れも手に取るように分かる。たしかに街なかをゆっくりしたスピードで走る路面電車は、交通渋滞を引き起こす原因かもしれない。しかし、自動車第一主義を改めれば、事態は変わってくるだろう。

都市交通の要は、路面電車というコンセンサスができれば、客は戻ってくる。急ぐ人のためには地下鉄も併用すればいい。車高の高いバスよりも、垂直移動の少ない路面電車は、老人や障害のある人にも乗りやすい。排気ガスも出さない電車というのは、自動車がハイブリッドカーから電気自動車への流れを作っている今となれば未来的な乗り物と言えるだろう。

いちばん面白いのは、地方の路面電車に外国資本が乗り出すというところだろう。自動車だって外車があるのだから、路面電車を外資がやっても別段かまわないわけだ。経済のグローバル化というのはこんなところにも出てきているのだな、とあらためて驚いた次第。事態がどう動くか、まだ予断を許さないが、フランスと言えば、公共交通機関でもストライキを行うので有名だ。フランスの会社なら、当然その辺も入ってくるのだろうか。興味津々である。

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