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Thursday 25th March 秘密結社

アメリカの次期大統領候補二人は同じ穴の狢だった。

ハマスの指導者ヤシン氏の殺害について、アメリカだけが煮え切らないコメントを出すことについて書こうと考えていたら、早朝(深夜)のケーブルTVらしい、おもしろいニュースが流されていたので、少し変わった話題だが紹介しよう。

アメリカのブッシュ現大統領と次期大統領の座を争うケリー氏は、ヴェトナム戦争に従軍し、その後反戦運動に関わった経歴を持つという触れ込みで、人気が急上昇しているが、実は、アメリカのアイヴィーリーグの名門イエール大学在学中、極少数エリートだけが入会を許される秘密結社「スカルアンドボーン(髑髏と骨)」に所属していたことが明らかになったという話である。

秘密結社というと何か大袈裟に聞こえるが、東部の名門大学ならどこにでもある社交クラブで、校内に歴とした一棟を持っているという点では秘密でも何でもない。問題は、メンバー以外にはその実体を漏らすことが許されない徹底した守秘義務があるということで、その規律の厳しさは、秘密結社と言うに相応しいものがある。

実は、この「スカルアンドボーン」をモデルにした映画がある。その名も『スカル』という題名で、名門大学の社交クラブに入った学生がその実体に驚き内部告発を考えたために殺人事件に巻き込まれるというミステリ仕立てのB級映画だったように記憶している。ただ、いかにもありそうな話に興味が湧いたが、その時はフィクションだと思っていた。

ところが、ここにきて、あれがフィクションでも何でもなく、ほぼ事実に近い組織であることが分かってきた。おもしろいのは、ごく少数の優秀な学生だけが入会を許されると聞いていた結社のメンバーの一員として、現大統領のブッシュ氏の名も上がっていることである。おそらく父や祖父の力添えがあってのことだろうが、たいして優秀でもない学生だったブッシュの名があることで、逆にこの組織の実体が明らかになってきた。

組織の構成員は、会員が世に出るための支援を惜しまないという相互扶助の精神を持ち、アメリカのエスタブリッシュメントの多くが会員であるという報告もなされている。特にこの結社の力がCIAの創設に関わっていたことなどから、アメリカ社会を牛耳っている裏組織としての役割がクローズアップされてきている。

アメリカ人国民は次期大統領選出にあたって、同じ秘密結社のメンバーのうちどちらかを選ぶしかないわけで、選択肢の狭さがあらためて問題になってきている。なお、この組織、海賊旗めいた骸骨と骨の組み合わせを旗印にしているだけではなく、ドイツの秘密結社をモデルにしていて、ヒトラーの遺品などを所蔵しているとも伝えられている。いつの時代の話かと思ってしまいそうだが、いかにもネットの話題めいたこんな話が表のメディアで話題になるほど時代は混迷を極めているということか。

 Saturday 20th March テロとサムライ

台湾の陳総統と副総統が銃撃されて重体というニュースが伝わってきた。スペイン同様、選挙戦終盤に入ってからのテロは、政治的な思惑の濃いことを窺わせる。マドリードの列車同時爆破テロは与党の失脚を招き、野党指導者はイラクからの撤兵を発表した。アラブ系の新聞社には、スペインをテロの標的から外すという声明が寄せられたそうである。情報は世界を駆けめぐり、事態は刻々と移り変わる。

大昔からテロはあった。しかし、その有効性を見せつけ、その後に続くテロ行為を生んだという点では9.11のテロを超えるものはないだろう。いや、もしアメリカがあの時点で、別の選択をしていれば、事態は変わっていたのかもしれない。暴力に対して、より強大な暴力を以て立ち向かう「かかってこい」という姿勢をとりさえしなければ。

テロに屈することはできない。そこまではいい。しかし、相手の不正の前には、自己のすべてが正当化される訳でもない。何故、テロを生んだのかという分析を行い、自国中心主義を改め、国際協調路線に立ち返りながら、テロ行為の非道さを訴え、犯行に及んだ組織を孤立させ、追いつめてゆくという方法もあった。しかし、アメリカはそうはしなかった。一方的な力を誇示し続けることで、より孤立化を深めていった。テロを蔓延させたことについては、アメリカにも責任がある。

アメリカに追随した国々にも、同じ非難が当てはまる。国によって様々な思惑があり、一概には言えぬが、自国の経済その他の利害が絡んでいただろうことは容易に推測される。ポーランドの大統領が、大量破壊兵器の存在について「アメリカに騙されていた」という談話を発表したそうだが、アメリカ寄りに動いた国は、イラク復興事業関連の受注に期待していたのだろう。それが、ほとんど米政府関連企業に発注されたことから、ここに来て一挙にアメリカ離れが加速することになった。

先の新聞には、テロの標的の筆頭に日本の名が上がっていた。日本政府は自衛隊派遣について表面的には人道支援を強調するが、川口外相が同志社大学で講演した記録には、中東の石油の利権が一番に挙げられていた。本音と建て前の使い分けは、この国では暗黙の了解事項だが、世界には通用しない。自衛隊法を知る外国人が何人いるだろうか。米国に追従する軍隊と見るのが常識だろう。

『ラストサムライ』のアカデミー賞ノミネート以来、日本を語るのに武士道に言及されることが多くなったが、「武士はくわねど高楊枝」という言葉もある。痩せ我慢をしてでも、「義」を重んじ、「礼節」を知る国として、世界には紹介されたいと思う。それが「士道」というものであろう。「士」が身内への情愛故に金銭に執着する行為を美化する映画もあるようだが、その陰で、百姓の子は間引かれ、川を流されていく。

先日亡くなった網野氏によれば、「百姓(ひゃくせい)」とは農民だけを指すのではなく文字通り多くの職という意味だそうだ。日本を「サムライ」の国だとは思わないが、民衆の代表者が国政を担当している国だとも思えない。せめては、国を預かる人たちには「サムライ」の志を忘れずに、腰の据わった政治を行ってもらいたいものだ。そうでなければ、百姓の子孫は、死んでも浮かばれない。

 Monday 15th March 想像力の問題

スペインの総選挙で、予想を覆して野党が勝利を収めたというニュースが伝わってきた。野党の公約として、国連主導でないイラク派兵への反対、軍の撤退を挙げていたという。本来なら、そうあるべきだと思うところだが、素直に喜べない。というのも、鉄道同時爆破テロに関与していたのがモロッコ人5人であり、スペイン政府もETA犯行説を撤回し、アルカイダの犯行であることを認めるような雲行きだからだ。

アルカイダの犯行声明にはアメリカに同調してイラクに派兵する国に対する警告としてのテロだということが明記されていた。民衆は、その意味を察知し、イラクからの撤退を公約としてあげる野党の方を選択したというふうに受けとめられても仕方のない結果である。気持ちとしてはよく分かるのだが、それは、まずいのではないか、という気がするのだ。

テロリズムに走る気持ちは理解できないでもないが、テロには賛成できない。人の心を恐怖で操るという方法は、テロであれ、ファシズムであれ、賛成できない。女性や若者までが自爆テロをするところにまで追い込まれるような社会の在り方に対しては、否と言うが、その社会をひっくり返すためにテロを行うのでは、あまりに救いがない。暴力によって生まれた社会は必然的に暴力を胚胎する。それは歴史が証明している。

スペイン国民が、国連主導のイラク復興を求めることには何ら異論はないが、それならば、何故、今になってか。200名の命の犠牲があって、はじめて気づいたというわけか。これはよそごとではない。アルカイダの言う米国に同調する国の一つとして、日本も名前が挙がっているからだ。すでに警告は発せられていた。それでもテロに対して強圧的に対抗していくというのが、米国に同調する国の選択だったはずである。

スペインにおいても、8割から9割の国民が、主戦論には反対だったらしい。しかし、現実に戦端が開かれて以来その声は鎮静化していたという。それが、ここに至って再び盛り返したのは、テロの現実の方が、異国の戦争より現実的であったからだろう。現実に死者を見るまでそれが分からないというのが、想像力の減衰を表している。テロのつけいる隙間がそこにあるのだ。

事ここに至るまでに、悲劇を回避する方法はいくらでもあったはずだ。しかし、それまでは、政治的な駆け引きや経済その他の思惑が先行して本質的な問題にまで想像力を働かせることができなかった。ところが、いざ、火の粉が我が身に降りかかってきたとなれば、あわてて方針を転換するというのでは、犠牲者が報われないのではないか。何も撤退をするなと言いたい訳ではない。ただ、テロに屈した形でそれを行うのと、自らの意志で行うのでは同じ行為も重さがちがうと言いたいのだ。

たしかに200人の死の持つ意味は重い。しかし、イラクにあってはすでにその何倍かの死者の数を数えている。それがすべて独裁者に荷担する人々であったとはよもや誰も思うまい。人の命の重さに国籍は関係ない。かつて、澁澤龍彦は「遠人愛の勧め」を説いた。隣人と同じように遠くにある人を愛するためには、何にも増して想像力が必要になるだろう。そして、それは容易いことではない。

 Saturday 12th March テロ

マドリッドの列車同時爆破テロによる犠牲者の数は200名近い。犯行は「バスク祖国と自由」(ETA)によるものと考えられているが、現場近くに停めてあった車からアルカイダの犯行声明と見られる文書も見つかっており、事態はまだまだ予断を許さない。

スペイン政府の要請を受けて、国連安全保障理事会はETAを非難する決議を全会一致で可決したということだが、それで安全が保証されると考える人は誰もいないだろう。テロが起きるたびに、「許せない行為だ」と怒りの声があがるが、そもそも、テロが何故起きるのかということを問わなければ、問題は解決するはずがない。

今回のテロの犯人と目されている「バスク祖国と自由」(ETA)というのは、バスク地方のスパインからの分離独立を求めて武装闘争を続ける非合法組織である。もともとバスク地方というのは、スペインにあって、独自の文化を保持する地方で、言語も風習も我々がスペインと言われて思い浮かべる国民性からはかなり遠い。

同じスペインにあってマドリッドと肩を並べる都市であるバルセロナもまた、カタルーニア語を公用語とするなど、独自の文化を誇示し続ける。イタリアでも、南イタリアの諸都市に対して、ミラノなどの北イタリアの諸都市は、分離独立を言い立てるなど、世界のどの国を見ても一枚岩の国家などありはしない。

国民国家という共同体の在り方自体に賞味期限が来ているのだ。かつては、一つの言語を使用する「国民」によって構成される統一国家こそが、ジグソーパズルのピースを構成していたが、その縛りが事態にそぐわなくなってきている。資本も情報も国境を越えて流動し続ける現代にあって、イタリア語やスペイン語によって括られる「国民国家」に「幻想としての共同体」を見ることが困難になりつつあるのだ。

ヨーロッパのように緩やかな国家連合の形を模索する試みと同時に、言語や習俗を共有するもっと小さな単位の共同体を欲する声も強い。しかし、宗教や民族の純粋性に拠って共同体を作ろうとする試みは、排除の論理が強く働いて、異なる宗教や民族との共生を困難にする。

世界は今、かつてないほどに硬直化しつつある。グローバルスタンダードなどという考え方が大手を振ってまかり通れば、その基準を認められない者は、自暴自棄な行動に走りたくもなろう。テロは許されるものではない。しかし、テロに走る者を生む非寛容な世界もまた許されないのではなかろうか。今、世界に求められているのは「寛容」さである。

 Wednesday3rd March 体を合わせる

丹波地方の養鶏場で起きた鳥インフルエンザによるものと見られる鶏の大量死は、近隣の養鶏場で飼われている鶏の中に同様の事態が起きるという最悪のシナリオとなった。大津市は学校給食から鶏肉のメニューを撤廃するという決定を発表したが、滋賀県は、過剰反応だとして見直しを勧告しているという。

大量死が起きた養鶏場では、職員は早くから事態を把握していたことが、今になって分かってきた。いつものことである。滋賀県と大津市の場合でも同じだが、問題が起きたとき、現場の反応は早い。日々、時々刻々と起きている事態に直面している末端の組織ほど危機感は強いからだ。

それが、一つ上に上がれば、危機感は薄れ、もう一つ上の(この場合、国だが)ご機嫌を窺う意識の方が強くなる。そこで、組織的隠蔽が行われ、事態は手がつけられないほど手遅れの状態になってから公にされるというのは、旧軍の時代から続くこの国の人々の持つ心性(メンタリティー)の悪弊である。

旧軍では、補給物資もままならず、軍服一つにしてもサイズの合ったものが支給されるとは限らなかった。そこで、「体に服を合わせるのでなく、服に体を合わせよ」という噴飯ものの命令が大手を振ってまかり通ったのだが、敗戦を招き寄せたいちばんの原因は、事態を直視しないこの非合理な体質にあった。

日本人も、現実の不合理に気づかないわけではない。気づいてはいるが、それに異を唱えれば周囲から浮き上がり、居心地が悪くなる。長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰のことわざ通り、事態に目をつむり、それを現実として受け入れるように自分に言いきかす。そして、それが原因で事態が悪化しても、はじめからこういう事態になる定めだったのだと自己弁護するわけだ。

体に合う服を着てこそ動きも自由で能率も上がるのは分かっていても、支給された服という非合理を現実と受けとめ、自分の体(これこそ現実なのだが)の方をそれに合わせようとする体質は、旧軍が崩壊した後でもずっと命脈を保ち続け、わたしたち日本人の心性と化した感がある。

かくいう私も、偶然手に入れたラルフ・ローレンのチノのサイズが合わなくなり、替わりを求めたが、なかなか手に入らないので、仕方なく服に体を合わせようと腹筋をはじめたことがあった。当然、長くは続かなかった。目の前にある現実を直視し、幻想に振り回されないようにすることは、それほど困難なことなのである。



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