HOME | INFO | LIBRARY | JOURNEY | NIKE | WEEKEND | UPDATE | BBS | BLOG | LINK
 LIBRARY / REVIEW | COLUMN | ESSAY | WORDS | NOTES UPDATING
Home > Library > Column >0401

 Wednesday January 28th 流行性感冒

妻が風邪をひいた。38度を超える熱が出て、頭痛がするという。仕事に出かけなければいけないので、医者に行けるかと聞くと、車に乗らないですむ近所の医者に行くという。たしかに、旧街道沿いに古くから開けた街のいいところは、気の利いた店などはないが、少し歩けば、肉、米、魚は言うに及ばず、美容院から歯医者、居酒屋、薬屋とバスの一停車区間の間に何でも揃うところだ。

当然、20メートルも行けば、歯医者の向かい、薬屋の二階に耳鼻咽喉科から内科、皮膚科となんでも屋のような医者が一軒ある。あるにはあるが、ふだんはあまり利用することはない。病状が思わしくないときは、総合病院に頼ることが多いし、風邪くらいなら、少し遠くなるが、以前からお世話になっているかかりつけの医者がある。ただ、車ならすぐだが、気分の悪いときに歩いて行くには少し辛い距離だ。

昼休みに入ったメールには、やはり、その医者に行ったことと、インフルエンザのA型であったことが記されてあった。帰宅すると、妻は起きていた。なんでも、よく効く薬があって、それを飲んだら、かなり楽になったそうで、思ったより元気そうだった。妻の話によると、インフルエンザかもしれないという妻の言葉を聞いて、先生は半信半疑で「では検査をしてみますか」と尋ねたそうだ。「流行っているの知らなかったみたい。」と、妻は笑いをこらえながら言った。

実は、その医者に行くのは、花粉症の時と決めている。あの季節は、どの医院も患者が急増して、待ち時間がかかる。その点そこは、すぐ診てもらえるからだ。診断も何もいらない。去年と同じ症状だというと、処方箋を書いてくれる。あっという間である。今回も、妻は、まったく待たなかったそうだ。

もう一ついいことは、患者がいなければ、万が一インフルエンザでなかったとき、医者に行ったために感染する危険性のないことである。待合室がクリーンであることは、市中一と言っても過言ではない。素人にも分かる程度の病状で、やはり医者に診てもらう必要があるときには、こういう医院がいちばんだろう。近くて早く診てもらえるのが何より。何も名医である必要はない。ホームドクターは、『白い巨塔』とはちがうのだから。

 Friday January 23rd 自殺行為

昨日の雪のあとがフロントグラスを汚しているのに気づいたのは、朝日が真正面から射す大通りに入ったところだった。小さな斑点が気になって、ウインドウォッシャー液を出すボタンを押したとたん、フロントグラスが凍り付いた。前がまったく見えない。昨日ほどの寒さでないから油断していたが、朝は、まだ氷点下。水など出せば凍り付くのは当然である。

あわててワイパーを動かしても、ゼリー状になった氷がかえって全面に広がるばかり。わずかに縞模様状態になって残る可視エリアから正面を覗き込みながら運転を続けた。朝の通勤時である。突然、どこにでも止まれるという状態ではない。エアコンを強にしてデフォッガーをかけることで、何とか氷は溶け出したが、小さな汚れひとつのために命を落とすところだった。

大寒からまだ三日。北日本は大荒れだという。この間の雪もそうだが、ちょっと積もると、ふだん雪など降らない地方では、かなり深刻な事態になる。慣れない雪でハンドルを取られ、あちこちで車が止まってしまうのだ。しかし、のど元過ぎれば何とやらで、寒かったことなどすぐ忘れてふだん通りの生活に戻ってしまう。列島全体をおおう寒気団のことなど天気予報で耳にしてはいても、自分の身の回りに変化がなければ、存在しないにひとしい。

イラクへの派遣が急ピッチですすんでいる。大きな時間軸で見たとき、今は歴史の転換点なのではないか。頭のどこかで、この事態の異常さにアラームが鳴っているのを知りながら、毎日は何もなかったように過ぎてゆく。ずっと後になって、あのとき、なぜ何もしなかったのだろうと、後悔する日が来るにちがいないという確信のようなものがある。

アメリカに追随して派兵を急ぐのは、フロントグラスの汚れに驚いて、あわててウオッシャー液をまき散らすようなものだ。時をまちがえては、せっかくの行為もかえって危険度が増す場合がある。どんな時も冷静に広い視野から状況を見極める必要がある。動き出した車を止めるのは意外に難しい。長い間、ペーパードライバーだったのなら尚更である。この国の舵取りをする人の自分の運転技術への過信が気になる昨今である。

 Tuesday January 20th トリビア

仕事のことで、役所に出向いた。新しく施行される法だか条令だかの説明会ということで、関係諸機関というとおおげさか、まあ、同業者の顔がそろっていた。開始時間ちょうどに玄関に着いたので、会議室まで上がる時間を差し引いても、一分と遅れていないはずだったが、会ははじまっており、席は前の方しか空いてなかった。

法律のことだから、当然話の面白かろうはずはない。要点は配られたレジュメにあるのだから帰ってからの報告はそれを見ればいい。そんなわけで、ノートをとるふりをして、思いついたことなどを書き散らしていた。ちゃんとノートできない癖は、学生時代から変わらない。体の自由を奪われているときこそ、頭は活発に動くので、話が面白ければ別だが、そうでなければ、勝手にいろんなことを考えてしまうのである。

二、三人が交代したが、最後に出てきた、眼鏡をかけた鹿島茂といった風貌の講師の話が面白かった。「原則ですから、当然といえば、当然の話だと思われるでしょうが、これが、なかなかはまるのです。」と、前置きしながら、法律の持つ杓子定規な点を解説してみせる手際に、「あれ、どこかで聞いたことがあるぞ、この口調」と思い出した。

TVではじまった頃見て、後はネタに困っている様子が見て取れて、それっきりになってしまったが、「トリビアの泉」という番組である。トリビアというのは、トリヴィアリズム(些末主義)からの造語だろうが、実にどうでもいいことに関する造詣の深さというか、蘊蓄の披瀝ぶりが笑えるのだ。講師はおそらく、そのあたりをヒントに台本を書いたのだろう。

お役所仕事というのは、ある意味、実に些末なことの繰り返しである。何かを開発したりするチームにでも配属されたらめっけものだが、そうでもなければ、毎日がルーティーンワークの連続のはず。そんな中で、つまらぬ法律の条文を逆手にとって、トリヴィア風に解説してみせた講師のセンスに感心した。話が終わったとき拍手してしまいそうになったくらいだ。仕事は自分で面白くしなければいけないのだ、と教えられた一日だった。

 Saturday January 17th 

雪は天からのたよりだという意味のことを言ったのは中谷宇吉郎だったかしら。博士とは別の意味でだが、今朝の雪には、そのようなことを考えさせられた。前日の朝、この春以来毎日顔を合わせていた年少の知人の訃報を聞いたばかりだったからだ。病状が急変したとのことだったが、年明けてからの再会を楽しみにしていただけに事態をのみこむのに時間がかかった。

思えば、その若さに似つかわしくないほど、感情の揺れを表さない娘だった。冷たいのではない。その逆で、誰にも優しかった。いつも静かに笑みを浮かべ、黙々と自分のなすべきことに集中していた。周囲のできごとに気をとられ、時には感情的になる自分としては、はるかに若いその娘は鑑であった。なぜ、彼女が、という問いに答えなど見つかるはずもないことに気づかせてくれたのが、朝の雪だった。

常に死すべき運命の下にありながら、ふだんはそのことを忘れ、つまらぬ事に無駄な時間を費やしているのが、我々俗人である。昨夜あれほど、人の死というものについて思い悩んでいながら、今朝の雪を目にして思うことは、慣れない雪道を運転して寺に行くのにハンドルを取られないかということだ。そのあまりに世俗的な自分に鼻白む思いがした。

死と正対して生きることの意義はよく理解できるが、ふつう、人はそのようには生きられない。毎日の生活を生きるということは、そういうことなのだ。雪が降れば、足元の心配をし、亡くなった人のことばかりいつまでもくよくよと思い悩んではいられない。情けないことだが、今日の日を何とかしのいでいくのがやっとなのだ。

ざわざわとした日々の音を、まとまりのない町の輪郭をそっとその白い衣でつつみこみながら、しずかに降る雪は、それでいいのだ、といっているように感じられた。そして、それは思いなしだか、なくなったひとが、最後に私に示してくれたいつもの優しさであるかのように感じられたのだった。

 Wednesday January 14th NEWS

狂牛病、という言葉は過激すぎるとかで、今はBSEと呼ぶらしいが、安い米国産の牛肉が輸入できなくなって、牛丼単品メニューでやっていた店はたいへんらしい。鶏肉を使った丼物で急場をしのごうと、新メニューを開発したとたん、鳥インフルエンザが発見された。すぐに、人間に感染するということもないらしいが風評被害は避けられないだろう。関係者は天を仰いでいるのではないだろうか。

一方、新聞紙面を賑わす記事に事欠かなくて、イラク関係の記事がとんと掲載されなくなった。まさか、抵抗運動が、BSEや鳥インフルエンザと関係しているとは考えられないから、話題性という点から、トップ記事を譲っているだけで、情勢にたいした変化はないにちがいない。世間の動向をいいことに、防衛庁は、記者会見を削減したり、報道管制を実施しようと目論んでいる。いつか来た道というのはこういう道のことをいうのだ。「大本営発表」を、またぞろやろうというのか。

そう思っているところへ、他国と共同して兵器開発も可能という発表が出てくるからおどろく。いつのまに用意していたのか、鬼の居ぬ間に洗濯をしようと、懸案事項を矢継ぎ早に発表してくる。BSEが、時期を選んで発生したとは思いたくないが、SARSといい、インフルエンザといい、実にいいタイミングで発生する。耳目をひくNEWSのかげで、着々と進行しているプログラムの方が不気味である。

 Saturday January 10th 禁断の果実

三連休である。少し前までは15日が成人式で、着つけぬ振り袖を着て、短い頸を襟巻きでかくした娘らが街を闊歩していたものだ。いつの間にか、法律が変わっていて、1月の第2月曜がその日になった。口を開けば伝統、伝統と言っているくせに、休日の変更についてはいっこうに伝統なんか気にしないのがこの国の為政者たちだ。

もっとも、国民の休日のほとんどが、天皇家に纏わる祭日だったのだから、新憲法の下で、新しく国をはじめるにあたって、名前だけではなく日も変えてしまえばよかったのだ。根本的な改変を避けて、名義変更でことを済ませておいたあたりに、この国のいい加減さがよく出ている。まちがえてはいけない。いい加減がよくないと言っているのではない。何をいい加減にするかが問題だと言っているのである。

今はないが、家の裏庭に柿の木が一本生えていた。子どもの頃に食べて渋かったので、なぜ渋柿なんか植えたのだと祖母に尋ねたら、柿の木はもともと渋柿で、接ぎ木をして甘い柿にするのだと教えてくれた。我が家の柿は、火事で何度か焼かれた後、再び枝を伸ばしてきた古強者である。甘い柿の方が焼け、根を残した渋柿がそしらぬ顔をして実をつけていたのだ。大火や戦災をくぐって生きのびる根はしたたかである。

戦後、接ぎ木された平和憲法も、朝鮮戦争に始まる相継ぐ戦火に、あちらの枝を焼かれ、こちらの幹を折られ、見るも無惨な様相を呈している。イラクへの自衛隊の派遣が最後の息の根を止めないと誰が言えるだろうか。憲法を禁断の果実にして判断を回避してきた司法の罪は重い。囓ることを禁じられた木の実がいつまで甘い実をつけていたかは神のみぞ知ることであろう。

 Thursday January 8th 天啓 

見わたすかぎり、まわりは干上がった田圃ばかり。風を遮るものは、木の一本すら生えていない。そこへ、向こうに見える山で湿り気というものを搾り取られてきたのか、からっからに乾いた風が情け容赦なく吹きつけてくる。襟を立て、ポケットに両の手を突っ込んでも、顔だけは吹きっさらしの風の中に出したままだ。目からは涙が、鼻からは水が出てくるのを止められない。よんどころない事情で、この田圃の畦道をたどっているわけだが、はじめはただただ辛いだけだったのが、しだいに爽快感さえ覚えるに至る気分の推移というものが解せぬ。寒いというより痛いといった方が正確な形容だが、その痛さも、だんだん感じなくなってくる。風は強いが、日は射している。強い風に雲は吹き飛ばされ、乾いた空気は太陽の光を真っ直ぐに透す。振り仰ぐと目が開いていられないほどの眩さだ。何だか変だが、眩暈を覚えるような奇妙な高揚感に包み込まれる。寒雀が、大の大人さえ体を折って歩く風の中を群れなして飛び回っている。鶺鴒もいつもの波打つような飛型を崩さない。宮沢賢治は、野原を歩きながら、突然奇声を発して飛び上がったと、当時の教え子が語っている。その気持ちが少し分かった気がした。

 Tuesday January 6th 地震

突然ぐらっと来た。次に小刻みな震動がつづき、天井に異音が、ちょうど高架下にいて電車が通り過ぎる間に耳にするような、ガタガタという音が聞こえた。実際、入る前に見た鉄道の記憶が残っていたからだろう。地上五階にある博物館が、高架鉄道の下にあるような錯覚を覚えたのだ。前々から、地震を気にしていた妻は、すぐに「地震よ」と、怯えたような声で囁いた。なぜ囁いたかと言えば、ちょうど「ブッダの生涯とガンダーラをめぐる人びと」という、展覧会場にいたからだ。画家の平山郁夫が収集したガンダーラ美術中心にしたコレクションの展覧会が開催されていて、当時のインドの王族貴族をモデルにしたと言われる仏陀の頭像を見ていたときだった。揺れはしばらくつづき、どうやら地震にまちがいないと思ったときには、ここが建てられて間もない博物館であることを思い出した。この日の催し物は開館十周年を記念する展覧会だったのだ。昨今、地震が相継ぐ。十年前に建築されているのなら、耐震性は以前に比べずっと強化されているはずだ。なにしろ、ここは博物館である。世界でも貴重とされるコレクションを展示することが想定されているはずだから。揺れは間もなくおさまった。あらためてガラスケースの中に置かれている地震計の目盛りを見てみたのだが、止まっていた。あれは、こういうときに記録するためのものではないのだろうか。家に帰ってから調べてみると、震源地は熊野灘、マグニチュードは5.2。少しずつ地震が近づいてきているのが不気味である。

 Monday January 5th 育ち

電車に乗ったはずの息子から電話がかかってきた。乗る電車をまちがえて、いま別の駅にいるらしい。乗り換えの電車まで30分くらいあるので連絡してきたという。さっき駅まで送ったとき、満席で特急券が買えなかったので30分後に出る次の指定席を買ったはずだ。乗りまちがえなら他の人が座っているはず。話を聞くと、こうだった。「じいさんがすわっとったんさな。まあ、年寄りやから仕方がないなと思って隣にすわったんやけど、そのじいさんが『八木に着いたら教えてくれ』と言うんさ。『八木になんか行かへんけどなあ』と思ったけど、しばらくしたら、大阪行きに乗ったことに気がついた。」気がついたときには電車は分岐点を過ぎてしまっていたというわけだ。出がけに買った小説を300頁も読んだと、何か得意げな話しぶり。暮れに行った行きつけの床屋は、小さい頃から兄弟をよく見知っている。兄はよく言えば育ちの良さを感じる、弟の方はちゃっかりしているということだったが、これは弟の方。自分の席に他人がいるのに、「年寄りのことだから」と、すませているあたり、弟の方も兄に負けずに「お育ち」のいい方らしい。二人とも、生き馬の目を抜こうかという都会でひとり暮らしをしている。「大丈夫なんだろうか」と、正月早々心配になってしまった。

 Saturday January 3rd 清親描く

「美味いものだよ南瓜のほうとう」という地口があるが、妻が大学時代に山梨に住んでいてこの郷土料理を覚えてきた。子どもたちが小さいころには、八ヶ岳にある貸別荘を基地にして、夏冬となくスキーに、山遊びにと甲州にはよく通ったものだ。その度に必ず食べたほうとうを子どもたちはよく覚えていて、久し振りに寒さを感じる今夜は、ほうとうがいいと言い出した。お節料理もほぼ食べきったので、ちょうどいいのだが、南瓜を切らしている。松のとれぬうちといいたいところだが、何かとせっかちなこの頃では、正月気分もそうは長くつづかない。せめて三が日くらいは、正月気分でいたいというので、昼にワインを飲んでしまった。運転ができないから、歩いて食材の調達に出かけた。何、散歩代わりである。さすがに惣菜類の並ぶコーナーはいつもとちがって閑散としていたが、市は開いているらしい。めずらしく鮟肝が手に入った。以前は時々見かけたが、最近ではスーパーに並ぶ前にどこかへ消えていたので、こんな上物に出会うのは幸運というべきか。店から出ると、すっかり日は落ちて、銀鼠地の空を背景に、月がのぼっていた。ルネサンス様式の博物館の上に月の架かる様子を見て、清親描く開化の浮世絵のようだなと思った。ほろ酔いで、日の暮れ方、酒の肴を手に人気のない道を歩いていると時代を忘れる。ちょっといい気分である。

 Thursday January 1st 初詣

なんともあたたかな一日だった。散歩がてら妻を誘って近くの神社に出かけた。歩いて数分というところにある小さな産土神である。今の家は自分で建てたものだが、その前は、今、母が住んでいる家に暮らしていた。もともと、ここが実家なのだが、生まれたのは隣家の類焼で家を焼かれた後、住んでいた借家である。その家から少し行ったところにある神社は、小さいころの遊び場所でもあった。岩戸の前で愉快な舞を舞って、天照大神を誘い出した女神を祭神とするその神社は、芸能の神様だということだが、年に一度の祭の日以外、あまり訪れる人もいない、いたってひっそりとした神社である。賽銭を投げ、型通りに手を合わした。特に信仰心があるわけでもない。気まぐれに来てみたまでのこと。足を伸ばせば、この尾根を登りつめて急坂を下ったところに、大きな神社がある。近郷近在は言うに及ばず、全国からの初詣客でにぎわうところだ。正月気分を味わうにはそちらの方がいいのだろうが、人の多さにまいってしまう。最近はもっぱら近くの神社ですませることにしている。柏手がひっそり閑とした神域に響く。昨日に続く今日の日に何の変わったことがあるはずもないのに、わざわざ足を運ばせるものの正体は分からず仕舞いである。




pagetop >
Copyright©2004.Abraxas.All rights reserved. since 2000.9.10