■ 特別じゃない関係 7 ■





 酒酒屋を出て、暗い道を足早に通り過ぎる。向かう先はどうやらカカシの家のようだ。カカシは一言も言葉を漏らさない。 それでイルカも、何かを言うのを躊躇ったままカカシの後に着いていくのだった。
 掴まれた腕からカカシの体温が伝わってくる。ぎゅっと握りしめられたその力から、カカシが怒っているのが分った。 逃げてばかりいたせいだろうか。だけど、カカシと向き合うのは辛すぎたのだから、しょうがない。
 見慣れたカカシの家が見えてきた。この家に通っていたのは、それほど前の話ではないのに、もの凄く懐かしい。
「入って、イルカ先生」
 やっとカカシが声を出してくれたので、イルカは幾分気持ちを和らげた。
「はい、お邪魔します…」
 どの部屋にも自分とカカシ、二人の思い出が詰まっていて、感情の波がつんと胸に迫った。 いつも二人で向き合ってご飯を食べた場所にカカシは腰を下ろした。
「……あのね、イルカ先生。俺、ずっと考えてたんですけど」
「あ、はい」
 俯いていた顔を上げると、目の前にあるカカシの瞳に自分の姿が映っているのが分った。ああ、額当てをはずしているのか。 左右で違うその瞳を、イルカはいつも綺麗だと思っていた。
「任務が立て続けに入っちゃって、アンタとまともに話が出来なくて焦りました。…カナギが帰ってきたからアンタの役目は終わったって、 あの時言ったよね。確かに最初からそういう話だったけど、俺は途中からそんなのすっかり忘れてた」
「カカシさん…」
 この人は何を言おうとしているのか…。
「俺はずっと昔から感情ってものがぶっ壊れてて、例えば好きって気持ちもよくわからなかった。そう言われて付き合っても、 結局誰とも長続きしないのはそのせいだろうと分ってたけど、別に不自由とも思わなかったし。それでズルズルとそのままやって来れた。 だけどね、イルカ先生。アンタと出会って俺は初めて好きという気持ちを理解した気がするんですよ」
 だめだ。このまま喋らせてしまったら、きっと後悔する…。
 しかし止めようとするイルカを遮るようにカカシは喋り続けた。
「いや、好きって思えるようになったのはつい最近で、多分最初はこの人の傍がいいとか、そういうあやふやな感情でしかなかったけど」
「待って下さい、カカシさん。それ以上は聞きたくないです…」
 勇気を振り絞って言ったセリフも、カカシに一蹴された。
「だめ、聞いて。アンタには聞く義務があるよ。アンタの傍なら楽に息が出来るのに気付いてから、俺は生きるのも楽になった。 今まで適当にこなしてきた全ての事にも、ちゃんと前向きに対処出来るようになった。そうやって過ごしていく内に、 俺の中でアンタの存在がどんどん大きくなっていったんだよ」
 もう傍にいるのが当たり前になってた。離れるとか終わりだとか、そんなの全く頭の中から消えていた。
「俺に感情を与えたのはイルカ先生だもん。だから、ずっと傍にいて欲しい…。俺が一緒に生きたいのはイルカ先生だけなんだ」

 胸が苦しい。
 だって、本当のところ、好きになったのはイルカの方が先だったのだ。ずっと好きで、でも絶対叶うことのない恋心に苦しんでいたのは、 イルカの方だったのだから。
 ポロポロと涙が頬を伝う。カカシは声も出さずに泣くイルカの手をそっと握った。
「温かいよね、イルカ先生の手は。たくさんの愛情を持った人の手だ。子供に向けるその愛情を俺にもちょうだい?アンタの傍にいさせてよ。 俺を好きになって…」
 とっくに。そんなの、とっくに好きなんだよ。そう言いたかった。だけど、言えない自分をイルカは知っていた。 あの夜のカナギをどうしても忘れられない。
 自分を見つめるカカシの顔を、イルカは正面から受け止めようやく口を開いた。
「ありがとう、ございます。カカシさん…」
「イルカ先生、じゃあ…」
「だけど、俺はカカシさんと一緒には居られません。カナギは俺の大事な親友です。あんなに一生懸命でいじらしい彼女を見たのは 初めてでした。俺は、親友として彼女の恋を応援する立場でいたい。だからカカシさんと一緒には居られません…」
 ぱあっと輝いた顔は、一瞬の後に死を宣告された囚人のように打ちのめされた。
「だって、でも…。じゃあ、俺の気持ちは?アンタが俺を振ったって、俺はカナギの元には帰らないよ? どっちにしたってカナギとは別れることになるのに…」
 それは仕方がないだろう。元々それはカナギとカカシ、二人の間の話だ。
「それにイルカ先生。カナギの事は言うけど、自分の気持ちは一言も言ってくれないよね。イルカ先生は俺のことすきなの? それとも、嫌いなの?どっち?」

 酷いことを聞く男だ。いっそ嫌いと言えたなら。

「カカシさん、あなたとカナギの間のことは、俺には何も言う資格はありません。あなたがどうしようと構いません。 でも俺はあなたとは付き合えない。分って下さい、カナギが大切なんです。裏切れない…っ」
 これ以上カカシと一緒にいれば、口にするはずのなかった事まで話してしまうかもしれない。自分の気持ちを、 心の中だけで留めておくことが難しくなっている。目の前にカカシがいて、自分を好きだという声を耳にして、 それでイルカが絶えられるのはきっと後僅かな時間だろう。
「すみません、これで失礼します」
 そう言ってイルカはカカシの家を出た。上忍が本気で追えばきっと捕まっていただろう。けれどカカシは追って来ず、 イルカはようやく息をつけるところまで来ると、再びそっと涙を流した。
「カカシさんカカシさんカカシさん、カカシさん…カカシさ…」



 イルカの後を追うことは出来なかった。あの人が凄く無理をしているのが分ったから。今自分が追いかけても、イルカを追い詰めるだけだ。
「くそ…っ!」
 今までの自分の行動が、結果的に自分とイルカの足枷になっている。
「諦めないからね、イルカ先生。アンタがいないと、もう俺は…」
 とにかくまずカナギに会おう。色々と話さなくてはならないことがある。そうして納得して許して貰えたら。
「そうしたらイルカ先生を堂々と迎えに行ける」







 昨夜泣いた目が思いっきり腫れて、翌日のアカデミー内では色々な憶測を呼んだ。カカシに連れ去られたのを目撃した仲間からは、 遠回しに体調の心配までされた。ずっとカカシとは親しく付き合ってきたから、その分とんでもない噂も多かった。 聞くつもりはなくても、悪い噂ほどよく聞こえるものだ。
「なあイルカ。本当に大丈夫なのか?お前、はたけ上忍と何があったんだよ」
「悪いなカズキ、迷惑掛けて」
「何言ってんだよ!迷惑なんかじゃねえだろ。とにかくお前、今イッパイイッパイだろ?今日は帰ったらゆっくり休め。 変な噂なんか無視しちまえよ?」
 友人の言葉にイルカはやっと安心したような笑顔を見せた。
「ああ、ありがとう。カズキ」
 不調とは言っても子供達に悟られないように注意は怠らなかった。その分余計な神経を使い、イルカは家に帰ると倒れるように眠った。
 翌朝の目覚めは悪くなかった。少しだけ頭が重かったが、それも前日とは比べ物にならない程度だ。
「自分で選んだんだから…。割り切らなきゃ」
 洗面所で目の腫れがないのを確かめて、顔を洗って準備を整えた。大丈夫、まだ笑える、と自分に言い聞かせながら。

「おはよ、イルカ。んん、今日は大分マシだな」
「おはよう、カズキ。心配掛けたな」
「全くだ。今度奢って貰わなきゃ」
「奢るよ。ただし酒酒屋あたりでな」
「ま、仕方ないわな。俺ら薄給の中忍教師だもんなあ」
 アカデミーの廊下を笑いながら教室に向かう。今はまだ辛いけど、きっと時が経てばこの辛さも薄れる。
「あのさ…、言おうかどうしようか迷ったけど。やっぱり黙ってんのも嫌なんで言うけど。はたけ上忍、里外の任務に出るらしいぞ」
「…えっ!?」
 あまりに唐突な話にイルカは一瞬言葉を失った。そりゃあカカシだって木の葉の誇る上忍だ。里外の任務にだって、 当然就くことはあるだろう。しかし今この時にそんな任務に就くというのは、明らかに今回のことを意図したものだろう。
 もしかして自分のせいでカカシは里外の任務に出るのだろうか?自意識過剰だと思わないでもなかったが、 一端そう思い始めるとどうしてもそこから離れられなくなる。
(どうしよう…っ、カカシさんに会わなくちゃ!それで…)
 それで、どうしようと言うのか。
 カカシを拒んだのは他でもないイルカ自身だ。そのせいでカカシが里外任務を希望したとしても、それも引っくるめてイルカが 望んだ事になる。そこまで考えていなかったなんて、単なる言い訳だ。
(だって、カナギを悲しませたくなかったんだ…。だけどそれも俺の自己満足に過ぎなかったのか?)
 ぐるぐる考えすぎた挙句に、結局一歩も動けないままイルカはその日を過ごした。勢いのまま行動していれば何とかなっただろうに、 聞いたその日にうだうだしたせいで、もう動くに動けなくなっていた。
「馬鹿だ、俺…」
「それで要するに、お前とはたけ上忍は付き合ってたわけか?」
 酒酒屋の一角。暗くなりがちなイルカを、カズキがここまで引っ張ってきたのだ。
「そういう噂もあるみたいだけど、全然違うよ。俺はカカシさんの世話をしてただけで。それもあの人の恋人に頼まれて、 そういう事になっただけ」
「ふうん?でもさ、傍から見てるとはたけ上忍の本命って、お前にしか見えなかったけどな。告白とかされなかったわけ?」
 された。そしてその恋人を理由に逃げたのはイルカだ。あの時のカカシがどれだけ勇気を振り絞ったか、自分が動けなかった事を顧みて よく分った。
「俺が馬鹿だったせいで、カカシさんもカナギもどっちも傷付けたんだ…」
 はあ、と何度か吐いた溜息をもう一度吐いて、ぐいっと杯を呷った。

 ぱしゃり…と冷たい何かが頭の上から振りかけられた。つんと香る匂いで、それが今まで飲んでいた酒だと分った。
「え…」
「イ、イルカ…っ!」
 ぽたぽたと滴り落ちる雫を感じながら視線を上げると、そこに「顔を合わせられない」と思っていた一人がイルカを睨みつけていた。

「悪いと思ってるなら、イルカがすることは一つでしょう?最後まで私に言わせる気なら、親友の地位も捨ててやるから」



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