古市

錦絵「伊勢音頭恋寝刃」と
看板「間の山お杉お玉」展
令和7年度 第28回後期特別企画展
2025/10/7 ~ 11/3

令和7年度 第28回後期特別企画展
錦絵「伊勢音頭恋寝刃」と看板「間の山お杉お玉」展

目的

 江戸時代、お伊勢参りの街道沿いに位置した古市は、参宮後の「精進落とし」の場として賑わい、地方にありながら文化や芸能の流行発信地となりました。
 浮世絵版画の一様式である錦絵もその一つで、お伊勢参りの様子や古市の妓楼の絵図が作成され、人気を博しました。寛政8年(1796)に妓楼「油屋」で女郎おこんをめぐり、客の孫福斎が殺傷事件を起こすと、2カ月足らずのうちに歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」として上演され、浮世絵師らはその一場面を錦絵に描いたのです。
 また、古市の間の山では、寛文元年(1661)頃から坂道に小屋掛けをして、三味線や胡弓にのせて唄う芸人が派生しました。中でも女性の大道芸人は、「お杉お玉」ともてはやされ、参宮名物となり明治に至るまで存在していました。
 今回の企画展では、浮世絵師・豊原国周や歌川豊国が描いた「伊勢音頭恋寝刃」の錦絵30点余りに加えブロマイド、劇場上演のパンフレット、チラシ、芝居番付表などと、明治・大正期に渡り「間の山お杉お玉」の興業小屋で実際に使用された大型看板を展示し、古市に花開いた文化や芸能の歴史をお伝えいたします。


場所

 伊勢古市参宮街道資料館 [ 地図 ]
 〒516-0034 三重県伊勢市中之町69
 TEL/FAX 0596-22-8410 TEL


期間及び開館時間

 令和7年10月7日(火)~11月3日(月・祝日)
 午前9時~午後4時半、最終日は午後2時まで
 月曜休館(祝日の時はその翌日)


主な展示物

 錦絵、看板、パネルなど




錦絵とは

 錦絵とは1700年代中頃にはじめられた多色摺木版画のことで、浮世絵版画の一様式です。錦絵はそれまでの古美術品のように、ごく一部の上級階級の人々にのみ貢献するものではなく、その生産から需要にいたるまで一般大衆が主役でありました。このことから「大衆」芸術と表現されています。その最大の魅力は、版画という手段から大量に、かつ安価で多くの人々が同時に楽しむことができる点で、一般大衆に広く、そして深く浸透することになりました。

錦絵の発展

 さて、この錦絵の発展は、先に述べた大量生産に伴う廉価頒布と、庶民に身近な題材が扱われた点が最大の要因ですが、さらに、当時の道路交通の発達が大いに関係しました。旅行ブームも高まり江戸への往来が頻繁になり、お土産ものとして全国各地に持ち帰られたのです。その後、長きに渡り大衆芸術という観点から消極的位置づけがなされ、評価の対象となり得ませんでしたが、第二次世界大戦後、海外における高い評価に後押しされ国内でも認められた芸術の一分野として位置づけられるに至りました。

伊勢に関する錦絵

 伊勢に関する錦絵は、その題材を分類してみると①お伊勢参りの様子、②伊勢古市の妓楼、③歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」の芝居絵、④代表的な名所の四つに大別されます。中でも最も多いのは、古市の妓楼に関するもので、これは妓楼が宣伝用のため自ら作成を行っていたことにも関係しますが、むしろ民衆の関心の高さが需要を押し上げた結果と思われます。写真がなかった当時、民衆が抱く伊勢のイメージは、錦絵によるところが大きかったのではないでしょうか。伊勢のかつての姿を理解するうえで非常に貴重な資料となっています。


第52号 郷土史草 より 世古富保


歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」のこと

概要

 かわら版や人の噂など、情報手段が限られていた江戸時代、歌舞伎芝居は事件や出来事、風俗や風習を人々に伝える重要なメディアでした。1796(寛永8)年、お伊勢参りで名高い伊勢古市の遊郭油屋で、「古市十人斬り」(医師の孫福斎(まごふくいつき)が酒に酔って騒ぎを起こし、仲居ら2人を殺害、7人に重軽傷を負わせた)と呼ばれる事件が実際に起きました。
 寛政8年という、古市遊郭全盛の真只中で起こったこの出来事は、異常な反響をかもし出し参宮客の口伝えにたちまち、そのニュースは京大坂、全国へと伝わりました。大坂歌舞伎狂言の作者近松徳三が、この事件を聞いたのは事件から3日後のことで、徳三は古市妓楼であったことに魅力を感じ一気に筆を執って僅か4日の間に長編(4幕7場)を書き上げたそうです。
 これが歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」という演目となり僅か52日目に大坂道頓堀・角の芝居で初演され生々しいニュース劇として人気を呼び、その後各地で好評を博しました。

浮世絵師(錦絵)プロフール

三代歌川豊国(うたがわとよくに)18点展示

 1786~1864 幕末の浮世絵界を代表する絵師の一人です。初め国貞(くにさだ)の名でデビューし、流行を敏感にとらえた画風で一躍庶民の人気を集めました。その後、弘化元年(1844)に豊国の名を襲名、華やかな役者絵や艶麗な美人画を得意とし、一門を率いて膨大な数の作品を制作しました。
 その弟子筋からは「明治の写楽」と呼ばれた豊原国周(とよはらくにちか1835-1900)や、美人画の名手であった揚州周延(ようしゅうちかのぶ、1838-1912)といった明治時代の浮世絵界のスターたちが排出されています。


豊原国周(とよはらこくしゅう)9点展示

 1835~1900 国周は幕末から明治時代にかけて人気を博した浮世絵師です。とりわけ役者絵を得意として高い評価を得る一方、子供のころから常識に当てはまらない性格で、生涯で妻を40人余りも変え、転居の回数も本人曰く117回。引っ越し好きで知られる「葛飾北斎」に勝ったと豪語し、さらに「宵越しのかねは持たない」とばかりに散財したと伝えられるなど、浮世絵の腕前以上にそのユニークな言動が有名になりました。
 国周は明治33年に66歳で死去。門人は多く擁していたとされますが、活躍が知られているのは揚州周延(ようしゅうちかのぶ)と守川周重(もりかわちかしげ)のみです。


一勇斎国芳(いっちゅうさいくによし)1点展示

 一勇斎国芳は歌川国芳といい、初代豊国の門人で、寛政9年に生まれ文久元年3月65歳で没。15歳で初代歌川豊国(うたがわとよくに)の門人となり、一勇斎(いちゆうさい)、朝桜楼(ちょうおうろう)などと号しました。後に勝川春亭(かつかわしゅんてい)、三代堤等琳(つつみとうりん)などにも学びました。文政10(1827)年頃に描いた「通俗水滸伝豪傑百八人」によって武者絵作者として人気を得て、武者絵の国芳と称されました。


落合芳幾(おちあいよしいく)1点展示

 落合芳幾は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。浮世絵師としてのデビューは遅咲きであったものの、同じ「歌川国芳」(うたがわくによし)門下生の「月岡芳年」(つきおかよしとし)と双璧を成すほどの実力をもつ浮世絵師でした。また、浮世絵師としての活躍の場を多方に広げただけでなく、事業家としての一面も持つマルチな才能を発揮した人物でもあります。落合芳幾は歌川を名乗ってはいませんが、有名浮世絵師の歌川国芳の門下生です。


歌川芳梅(うたがわ よしうめ)1点展示

 文政2年(1819)~明治12年(1879) 江戸時代後期から明治時代にかけての大坂の浮世絵師。
 歌川国芳の門人で大坂堀江の人。本姓は中島、名は藤助。歌川の画姓を称し一鶯斎、夜梅楼と号す。天保12年(1841年)頃から大坂で活動を始め、弘化4年(1847年)、江戸に出て歌川国芳に付いて絵を学び、安政4年(1857年)再び大坂へ戻り、役者絵、風景画、風俗画、草双紙の挿絵を描いた。享年61。中井芳滝、岩井梅雪、一梅斎芳峰、梅乃家梅英、梅春など多くの門弟を育て、大坂における国芳派の祖となっており、この時期の大坂における中心的な浮世絵師の一人であった。二代目長谷川貞信も芳梅から教えを受けている。


歌川(五粽亭)広貞(ごそうてい) ひろさだ)1点展示

 生没年不詳 江戸時代の大坂の浮世絵師。
 歌川国升の門人、大坂の人で布袋町に住む。五粽亭と号し、「蘭畦」、「小西五長」、「貞」の印章を使用する。作からは弘化4年(1847年)以前に広国と称したことが知られる。確認される作画期は弘化4年から文久3年(1863年)にかけてで、中判の役者絵を多数描いている。門人に歌川広兼(照皇亭貞広)がいる。


守川周重(もりかわ ちかしげ)1点展示

 生没年不詳 明治時代の浮世絵師。
 豊原国周の門人。本姓は守川、名は音次郎。歌川の画姓も称す。喜蝶斎、喜蝶楼、一梅斎、一梅楼と号す。作画期は明治2年(1869年)から明治15年(1882年)頃にかけてで、3枚続の役者絵、芝居絵、『絵入新聞』の挿絵や小説挿絵、表紙絵などを描いた。明治10年から翌年のころ南本所石原町十八に住み、後に日本橋浜町一丁目三に住む。


歌川國麿(うたがわくにまろ)1点展示

 生没年不詳 江戸時代末期から明治時代初期にかけての浮世絵師。
 歌川国貞及び4代目歌川豊国の門人。歌川の画姓を称し、初名は房広、後に国麿と称す。一円斎、松蝶楼、喜楽斎、麿丸、麿丸淫人、又平門人麿丸とも称した。俳号は菊翁。作画期は天保後期から明治初年頃にかけてで、幕末期に版本の挿絵や双六絵などを残す。なお嘉永頃を作画期とする絵師の松蝶楼関斎とは同一人ともいわれている。


作者不明 NO22 NO35 2点展示 尚 NO29 NO32・NO33は欠番