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Home > Library > Essay >0504

 送別会

会場になったレストランは明治期に建てられた古い逓信施設の内部を改装して仏蘭西料理店にしたもので、当時の西洋建築らしく高い天井から吊り下げられた照明器具から落ちてくる光はいかにも暗く、なんだか駅の待合室で乗り継ぎの列車を待っているような感じがするのだった。

送られる人が三人、用意されたテーブルは三つで、それぞれのグループが一人を囲むように設定されていた。席は例によってくじ引きで、定年を待たずに退職を決めた年長の同僚と同じテーブルになった。退職金やら年金やらが目減りしたり、もらえる時期が引き伸ばされたりという時代だから早々と退職を決めた当人は晴れ晴れとしている。景気のよい時期は、送られる方が淋しげに見えたものだが、皮肉にも当節では悪い環境で酷使される我が身を悲嘆してか職場に残される者の方がわびしげに見える。

上司の挨拶は簡単だった。挨拶は短いにこしたことはないが、三十年にも及ぶ職歴に対してその功を称え、労をねぎらう言葉が足りない。いささかわざとらしい風習ではあるが、上司が部下をどう見ていたかが試される場であって、その言葉に発奮して自分もと思う者もいるはず。この上司の下で働きたいと思わせてこそ、人を使う立場の面白味もあるだろうに、何ともあっけない挨拶には鼻白む思いがした。

パーティーなら立ち歩けるから、他の二人の人と歓談もできるのだが、コース料理となれば、勝手に席を立つわけにもいかない。同席の四人が話すばかりでは、会話が限られてしまう。退職後の話にしても仕事を辞めたばかりでは今までとたいした変わりばえもしない。自然と話は世間話に流れてしまって、送別の宴らしい華やかさやその裏にある翳りが漂うことがない。何のことはないふだんの食事会の延長になってしまっている。

幹事が若い人で、それなりの心遣いをしてのこの場の設定だったのだろうが、長年やってきた送別会が懐かしくなってしまった。自分が幹事だったら格式はあるが地味な旅館の離れくらいを借りて執り行っただろう。にぎやかに歓談しながらも時折り訪れる静けさの中に、別れの寂しさが忍び寄るような演出がほしいところだ。何と言っても、退職者にとって、こういう席はこれが最後である。後々思い出すよすがになる語らいがほしいものだ。

コの字型にそれぞれが座り、ゆっくりと送る側、送られる側の挨拶を聞き、前途を祝した乾杯の後ようやく箸を持つ。ひとしきり歓談しながら、食事を進め、頃合いを見て上司から席を立ち上座に座った主賓の前に座る。それを合図に職場の面々が次々と交代で座を占め、杯を重ねながら過ぎたことどもを語り合う。去ってゆく人を中心として宴が華やかに繰り広げられるのだ。

囲碁に定石があるように、どんなものにも決まった型というものがある。古臭く変わりばえのしないやり方だが、旧来の宴会には着慣れた上着のように肩が張ることなく身動きがとれる心地よさがある。それに比べ、給仕が注ぎに来るまでグラスは空いたまま、勝手に席を立つことも話すこともままならない似非西洋風の宴席の気詰まりなことはどうだ。まだしも本来の晩餐のように大卓で皆が顔を見合わせて座れたら、誰とでも話す自由が保障されたものを。

花粉症のせいで体調が悪く、二次会は失礼することにした。別のテーブルだった二人にお別れの挨拶をしに行った。今の職場に同時に赴任した女性から「貴方は今のままで変わらずにいてください」と言われ、思わず胸が詰まった。勝手気儘な言動を陰ながら支持してくれていたらしい。膳を挟んで対座していたら、もっといろいろ話もできたのにという憾みが残った。


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