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Home > Library > Essay > 0405

 2004/5/20 青柳

自然淘汰を説いたダーウィンよりも、棲み分け理論の今西錦司学説の方がぴったりくるような、近くに競合する業者のいない気楽な仕事のはずだったが、近頃のように世の中の景気が悪くなると人並みにしわ寄せがきて、机の前にはりついてばかりもいられなくなってきた。

今日も今日とて、台風の近づく強い雨の中を、お得意さんのご機嫌伺いというか、ご用聞きというか、顔つなぎというか、わたしたちもこれで一生懸命仕事をしてるんですということをアピールするために、外回りの仕事が命じられた。

半農半漁の田舎町のこと、圃場整備のすんだ田圃の近くは農道も広く車も通りやすいが、当然のことにそこに人家はなく、住民は車一台がやっとという狭い道が蜘蛛の巣状に通る海辺に面した狭い土地に密集して住んでいる。通りに停車すれば通行の邪魔になる。空き地に車を止めて、雨の中を一軒一軒歩いて回った。

二軒目の家の呼び鈴を鳴らすと、お目当ての若夫婦は留守らしく、奥の方で年寄りらしい声がした。「はいはい。」と、出てきたおじいさん、こちらの顔を見るなり、
「あっ、あんたはこの前の」
そうなのだ。半年前もやはり外回りをしていて、裏手の作業場の前で声をかけられた。ちょうど海苔の作業をしているところで、帰りには、できたての海苔までいただいて帰ったのだった。
「このあいだはどうも。」と、御礼を言うこちらの言葉を引き取り、
「もう、どこかでバカ貝もろうたかな。」
「いえ、まだここで二軒目」というがはやいか、遠慮するこちらの言葉は耳に入らず、「まあ、ええがな」と作業場の方へつれられていく。

作業場ではおばあさんが、黙々と貝の中身を取り出す作業中。こちらを見て、怪訝な顔で、
「どちらさんでしたかなあ。」
「ほら、この前、海苔の……」と、おじいさんが言いかけると、ぱっと、表情が変わり、
「あれえっ、あの時の」と、まるで古くからの知り合いのように話しかける。お会いしてから今日でまだ二度目である。

「まあ、見てみない。この大きな貝を。今年は豊漁でなぁ。昭和37年以来のことや。」
おじいさんが説明している間に、おばあさんは、今剥いたばかりの貝を水洗いして、
「まあ、食べてみない」と、差し出す。醤油も何もない、唯の剥き身の貝である。
「東京へ出すと、寿司ネタの青柳になるのや。生がいちばん美味い。」
いつだったか、青柳で食中毒してたよなあ、と思いながらも口へ入れる。嘘のように柔らかい歯応えと自然な甘みが口中に広がる。
「まあ、持ってきない。」とビニル袋にいっぱい詰めてくれ、保冷剤を添えて渡してくれる。いくら辞退しても、取り合わないので、有り難く頂戴して帰った。

仕事をはじめた若い頃とはちがい、最近では自信もそこそこあり、若い人相手には物言いにも生意気なところも出てきた。それでも、やっていけるのは経験が物を言っているのだろう。ただ、自分より年配の人に対しては別だ。特に、現役で体を使って働いている人に対しては素直に謙虚になる自分に少し前から気づいていた。老夫婦にしてみれば、雨の中、お得意さん周りをしているこちらが不憫に見えたのかもしれない。

フライにしても美味しいと聞いてきたが、妻はバター焼きにした。はじめは、内臓を抜いたり、砂を取り除いたりする手間が大変とぼやき気味だったが、一口食べるや、「これなら、明日ももらってきてもいいわよ。」とのたもうた。生も美味いが、バター焼きも負けてはいない。

雨の中の外回りが、少し楽しくなった。

 2004/5/5 菖蒲湯

風呂の湯に、菖蒲が浮かんでいた。子どもの頃、端午の節句に菖蒲湯につかった記憶がない。間口を狭くして多くの軒数を割り当てた表通りの家には、内風呂を設けているところは少なかった。隣は、物心ついた頃には手広く八百屋を営んでいたが、昔は車を引いていたという先代は、銭湯でよくいっしょになった。

それでも節句になると、菖蒲は飾った。その菖蒲を取りに行くのはいつ頃からか私の仕事になっていた。近くに、昔の伎楼跡があった。尾根伝いに建てられた豪勢な建物は何度かの火事ですでになくなっていたが、広い焼け跡は空き地になっており、子どもたちの遊び場になっていた。長い石段が屋敷跡の裏に残っており、それを下りたところに鬱蒼とした木々に囲まれた池が往事のまま残されていた。

手入れもされず放っておかれた樹木は伸び放題に伸び、もともと谷間のようなところに造られた池は、誰の目にもふれない格好の遊び場だった。初夏には、木漏れ日を浴びて剣のように光る菖蒲の鋭い穂先が池を埋めつくしていた。五日の朝早く、お寺の裏から続く石段を下り、菖蒲を刈りに行くのは心躍る儀式のようなものだった。

何度も火事で焼かれた我が家には、小さい頃には段飾りなどはなく、頼朝と義経の対面を描いた掛け軸だけが伝わっていた。それを壁に掛け、金太郎が鯉を捕ろうとしているところを表した人形を飾るのが、いつもの習慣だった。その横に柏餅と、朝とってきた菖蒲をいけた花瓶をのせると、節句らしい雰囲気になった。

小学校の頃、節句には友だちを呼んで、お菓子を食べたりした記憶がある。あまり余所の家に行った記憶がないから毎年家で開いていた催しだったのかもしれない。ある年の節句に、はじめて段飾りを買ってもらった。今からすればたいしたものではないが、その頃、男の子で五月人形の段飾りなどを持っている子はめずらしかったかもしれない。無論、その年も友だちを呼んだ。

就職してしばらくした頃、小学校の同窓会があった。懐かしい顔が並んで、昔話に花が咲いた。一次会が終わり、ごく親しい者ばかりになったとき、当時よく遊んだ一人が、五月人形の話を持ち出した。見せびらかすために家に呼ばれたようで不愉快だった、というような話だった。いつもにこにことした表情の気のいい男だったが、そんな思いをずっと呑み込んだまま年をとって、やっと口に出したというのか。

どの家も貧しかった時代だ。我が家もようやく借金をして焼け跡に小さな家を建てたばかりだった。貧しかったが、子どもにみじめな思いはさせたくないという親心か、本や玩具に不自由した覚えがない。共稼ぎの母親が、町工場で働く父に負けない給料をもらっていたことも、子どものためにお金が使えた理由だったのかもしれない。

そういうと、贅沢をしていたみたいだが、カメラ好きの担任の影響で、多くの子がカメラを買ってもらっていたが、そんな高価なものは持っていなかった。着る物も兄のお下がりだし自転車も親戚から譲ってもらった中古と、人から妬まれるような暮らしではなかった。それだけに、その年の五月飾りは子ども心にうれしかったのだろう。そのはしゃぎぶりが、友だちには目に余ったにちがいない。

その友だちとは、当時いちばんの仲良しだったが、そういえば、中学生になると遊ばなくなっていった。友だち関係は自然に変化していくのが当たり前だと思っていたが、相手の気持ちに気がつかないようでは、長続きするはずもない。菖蒲湯につかりながら、そんなことを思い出していた。人の心を思いやるのは今も苦手なままである。


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