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 2004/4/25 室生寺

クリックするとギャラリーページへとべます時々、思い出したように食べたくなる物がある。どうしても、というわけではないが、どこで何を食べてもかまわない休日の午餐ともなれば、食べたい物を食べに行くのに誰に遠慮がいるものか。天気もよし、ドライブがてら、ひとっ走りするまでのことだ。桜の季節は終わったが、沿道には躑躅、藤と今を盛りに咲いている。石楠花にはまだ少し早いかもしれないが、室生の里を訪ねてみることにした。

室生寺門前に架かる朱塗りの太鼓橋のたもとに、一軒の料理旅館がある。山間の寺のこと、食事を摂るところといって選べるほど多くの店があるはずもない。何年も前に偶然立ち寄ったその店の山菜主体の精進料理に舌鼓を打ったのだった。特にすり下ろした山芋は絶品で、そのまま食べてよし、ご飯にかけてよし、芥川の『芋粥』ではないが、もう一椀食べたいと思わせるほどである。

ちょうど、いちばん忙しい時間帯が過ぎたところか、川の見える窓際の席が空いていた。運ばれてきたのは、煮合わせ、筍の木の芽あえ、胡麻豆腐、蒟蒻の芥子和え、しめじの酢の物、田楽、白和え、それに山芋月見といった、この付近の山でとれる山菜ばかり。車でなければ、是非般若湯を添えたいところだが、そこは我慢。

実は、参道にも土産用に山芋が並んでいる。以前、料理店の人に「これはあの参道に並んでいる山芋と同じ物ですか」と訊ねたら、ふふふと笑って、「あれでは、こんな粘り気は出ませんよ」と、軽くいなされてしまった。その時は、その答えに意気消沈して、買わずに帰ったのだが、今回は物は試し、買って帰ることにした。妻は、この頃、こういうところに来ると、山椒だの何だのと物色する楽しみを覚えたらしい。

若い頃は、肉主体の料理が多かったが、さすがに近頃では脂気の少ない物がほしくなってきた。そのせいだろう。山間の里でないと手に入りにくそうな食材を見ると、今度何かの料理に使おうと考えているらしい。今日も茄子の田楽で何かヒントをつかんだのか、「今度試してみよう」と呟いていた。

連休前の日曜日ということもあってか、小さな寺は善男善女であふれていた。老若男女と書きたいところだが、男女ではあってもほとんど老ばかり。中にちらほら若いカップルが混じるぐらい。そんな中で、男の子が、講堂の奥に並んだ仏様のお顔を確かめるように覗き込みながら「どこやったかいなあ、頭の上に顔がようけついてるのがあるやろ。あっ、いちばん左のやつや。あれが十一面観音ていうんや。」と、連れの女の子に説明していた。せっかくの休日をこんな山の中の寺で過ごそうという殊勝な心がけのカップルには是非長続きしてもらいたいものだ。

この前の嵐で杉の古木の下敷きになって壊れた五重塔も、修復されて以前の姿に戻っていた。檜皮葺の屋根にあった苔こそ消えたが、どういう修復の仕様をしたものか丹塗りの柱の色は往事と少しも変わらぬように見えた。ただ、心なしか、屋根の反りが直線的になったように思えるのと、切り捨てられた倒木が無残な切り口を見せて放置されているのが、他人事ながら気になった。

室生寺といえば石楠花が有名だが、見頃には少し早いのだろう、こんもりと丸く繁った木のところどころに白い花の塊が散らばっていた。近づいてみると縮れた花弁の縁がほんのりと紅く染まって、華奢に見えて意外に贅を凝らしたつくりをしている。紅白色合いの異なる二種の花があり、紅い方は、まだ蕾のものも多かった。一つの蕾に見える紡錘形が少しずつほころび、幾つもの花の塊をつくっている。花が開くとそれまで周りに広がっていた蝋質で肉厚の葉が傘を窄めるように下に下がり花を際立たせる。自然の営みの見事さにはいつもながら教えられることが多い。

さすがに奥の院まで上ると少々息が切れる。ただ、この石段、以前はもっと高かったような気がした。妻にそう言うと「前は、もっと一気にのぼったからよ。」と、言われた。なるほど、若い頃はむやみに気張って、一気呵成に登り切ることが自慢でもあった。今回は、少し開けたところでは必ず一休みしてのぼってきた。無理をしないという生き方が無意識のレベルにまで浸透しているということか。汗もかかず、膝も笑わず、優雅に山を下りながら、日々こうありたいものだと思ったことであった。

 2004/04/21 春の海

早めに昼食をすませて帰ってくると、他の者はまだ誰も帰ってきていなかった。窓際に立って外を見ていると、雲ひとつない空の下、初夏を思わせる日の光は燦々と降りそそぎ、外界はいつになく明るい。部屋にひとりぽかんと座っているのもばからしくなってきた。ひとり戻ってきたのを幸いに、電話番を任せ、午後の会議までの間、外に出ることにした。

南向きの窓からは見えなかったが、外に出れば海岸はすぐそこだ。昼飯時のせいか、通りはひっそり閑として、眩い太陽光の下、海に続く道では白黒の斑の猫が昼寝をしていた。傍を通ろうとすると面倒臭そうにのっそりと起きあがり、道端の植え込みの中に隠れてこちらを窺っている。よく見ると、もう一匹、日陰に寝ころんでいた。たしかに猫も日陰に入りたくなる陽気だ。

堤防から浜に下りると、季節はずれの海岸には誰もいない。この海にも、もう少したてば、水上バイクやその他のマリンスポーツに興じる若者が集まってくる。急に暑くなったから、海辺まで出てきたが、いつもは、まだ風が冷たい。人っ子ひとりいない海岸には、河口近くに、ユリカモメの一群が羽をやすめていた。

蕪村の句ではないが、波頭一つたてず、繰り返し打ち寄せる波が、もう少しで濡らしにかかろうかという波打ち際ぎりぎりのところに、青灰色の翼をたたんで背を丸めるようにうずくまる十数羽の鳥の沈思黙考。その群れから少し離れて、一回り小ぶりの鳥が、二羽、こちらは水掻きの濡れるのには委細かまわず、時折泡立つ波の中に嘴を差し入れては、餌を啄んでいる。まるで、小さな子が波と戯れているかのように、羽を広げたり、顔を上げたりする様が愛くるしい。頭の部分から目にかけて黒く見えるあれはコアジサシだろうか。

波に洗われて、真っ白になった流木に腰かけて水平線の方に目をやった。少し離れた南の海では赤潮が発生したと聞いたが、湾曲した入り江で遮られたこちらは、別の水域なのだろう、微妙に異なる群青や藍色に染め分けられた水の色はあくまでも青かった。

かつては海亀が産卵に帰ってきたという海岸も防波堤が完備するにつれ、砂の粒子が粗くなり、遠浅で有名だった海岸も、今ではずいぶん後退してしまった。滅多に水に浸かることのない堤防沿いは草が生え、ハマダイコンやカラスノエンドウが可憐な花を咲かせている。打ち上げられた海草類が日に蒸されてたてるのか強い磯の香りが風に運ばれて漂ってきた。知らぬ間に時間が過ぎていた。人も犬もいない海にはいつまでも波が、退いては寄せている。


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