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 2004/3/31 大山崎山荘

昨日とうってかわった陽気に開花を待ちわびていた蕾がほころび、沿道の桜はすっかり花開いていた。朝方の強い風もお昼頃にはおさまり、道行く人の顔も楽しげに輝いていた。奈良に来ると寄る行きつけの店で食事を摂り、木津川沿いの道を一路京都に向かった。今日の目的地は、京都郊外大山崎。物見遊山の日帰り旅行というところだろう。

秀吉が光秀と戦ったことで知られる山崎の地に、関西の実業家が建てた英国風の山荘が遺っていた。大正時代に建てられた山荘は夏目漱石をはじめ多くの著名人が訪れたというが、保存状態が悪く、荒廃していたのを住民その他の要望を聞いた京都府が、アサヒビールに持ちかけ、企業メセナの一環として、美術館として復元再開にこぎ着けたのは、十年ほど前のことだった。

前々から一度行きたいと思っていたのだが、京都市街からは少し離れていて、足を伸ばす機会がなかった。たまたま、大阪に行く予定ができたので、そのついでにと思っていたところ、用事の方は相手の都合が悪くて流れ、美術館行きだけが残ってしまった。天気も好いので車で出かけたのだが、京都はやはり遠かった。朝早くに家を出たのに、大山崎に着いた頃は昼を過ぎていた。

町営駐車場に車を止め、急な坂道を歩き出した。上るに連れ、眼下に広がる景色に目を奪われた。桂川の堤防には桜並木がどこまでも続き、その向こうには桜を裾模様にした男山が春の陽ざしを浴びて居眠りでもしているような長閑な田園風景が広がっていた。山荘は天王山の山麓、傾斜地を生かして造られた庭園の中にあった。本館は二階建てで、切石をふんだんに使った重厚な一階部分と太い梁や柱と矢筈に組んだ煉瓦が特徴的な二階部分で構成された重厚な中にも素朴な外観が英国の田園趣味をよく伝えていた。

白木蓮の大樹が枝を伸ばした玄関先から中に入った。吹き抜けを生かした玄関ホールは黒光りする鏡板に囲まれ、訪問者が暖をとったのだろう、隅に暖炉が切られていた。その奥の部屋は、濱田庄司とバーナード・リーチの展示室で、益子の濱田と、英国のスリップ・ウェアをモチーフにしたリーチの大皿が仲良く並んでいた。部屋の四方には、中央アジア出土の騎馬像を線刻した石柱が欄間代わりに意匠として用いられているなど、贅を凝らした作りとなっていた。

二階は富本憲吉や河合寛次郎の展示室と喫茶室になっており、特に南に面したテラスからの眺めは絶景の一語に尽きる。北側にも露台が設けられていて、これは池を挿んで山側の英国風庭園の眺望を楽しむようになっていた。かつては蘭の栽培を手がけ、新種の交配にも成功したという温室が眼下に見えた。

安藤忠雄設計による新館は、眺望に配慮して地下に造られていた。安藤らしいコンクリート打ちっ放しの美術館は、二重の円で構成され、内側の円の上部がトップライトで自然光を採り入れるよう工夫されていた。ただ、内側には充分な採光があるものの、狭くて、絵との距離が取れず、外側は広いが暗く、せっかくのモネの睡蓮の大作も、光を奪われてくすんで見えたのが残念だった。モネの睡蓮を常設展示しているオランジェリー美術館がパリにあり、そちらも円形をしているが、絵を見せるという機能の点で、一歩も二歩も本家に軍配が上がる。

見事な調度品の中で見る、「民藝」というのは、なかなか悪くないが、小さな新館での企画展は作品の質は別としても数が限られ、わざわざ訪れた者としてはちょっと不満が残る。二階の喫茶室で、お茶を楽しんだり、庭を散歩したりすることも含めての美術館体験と考えればいいのかも知れない。ただ、そのことが、客を饒舌にするのか、中年女性グループの話し声が気になって仕方がなかった。元気のないこの国の中で唯一の例外は中年女性かも知れない。元気なのはいいが一応美術館である。鑑賞する側にも守るべきマナーがあろう。場所柄をわきまえぬ客に、いちばん驚いているのは大正生まれの山荘自体ではなかったかと苦笑したのであった。

 2004/3/10 秘伝

その店は、駅前の繁華な通りにあった。とうの昔に消えてしまったような安食堂の店構えながら、いつ行っても、何人かの客が入っていた。ノスタルジックな雰囲気は、何もわざとそうしているのではないようで、ビニール製のテーブルクロスから突き出したパイプ製の机の脚といい、パイプ椅子といい、開店当時から変わっていないのではないかと思われた。

夏にはかき氷や三色アイスといったメニューもあった。駅前にあるため、海沿いに開けた隣町の海水浴場からの帰りなどに立ち寄ることがあったが、日に灼けて火照った体にアイスクリームやかき氷がしみ込んでいくようだったのを覚えている。小さな矩形のタイルを市松に敷き詰めた床はところどころ剥げかけ、褪色した色硝子から入る陽が、物憂げに室内に流れ込むような夏の日だった。

季節にかかわらず、年中供されるのは、薄茶色の皮の中に漉し餡を包み込んだ「ぱんじゅう」という菓子である。店で食べるより持ち帰り客が多いことも、店を新しくしない理由だったのかもしれない。煮染めたような幟が店の前にいつも立っていた。他に、今川焼風の「まんぷくまん」という菓子もあったが、だいたいはその二つだけで商売している小さな店であった。

客足が絶えないのが不思議なような古ぼけた店だったが、昔から変わらない味が固定客をしっかりつかんでいたのだろう。その店が、とうとう店をたたんだ。何でも、あんこの味を決めるのは店主の老婆だったのだが、秘伝の製法を若い者に伝える暇もなく死んでしまったという。残された店の者がいろいろ工夫しても、昔の味は出せず、とうとう店をたたまざるを得なくなったとのことだ。

それが、最近になって、町のあちこちに「ぱんじゅう」という名前の幟を見かけるようになった。ただ、本家は、「七越ぱんじゅう」であったが、それらの幟には「小倉」だの「蜂蜜」だのの別の名が「ぱんじゅう」の前に冠してある。おそらくパンと饅頭を掛け合わせてできたと思われる名前は全国のどこにでもあって、商標登録ができなかったのであろう。

仕事で近くを通りかかった同僚が、早速買ってきてくれたので、みんなで味見をした。少し小ぶりだが、見かけはそっくりだ。味の方は、黒砂糖の味が強く、昔のものとはちがう、というのが大方の声であった。たしかに、味もちがうが、木の香も新しい店で買うのと、あの煤ぼけた店で買うのとのちがいもあるのではないか、と思った。客は、菓子といっしょに、自分の幼い日の思い出も買っていたにちがいないのだ。


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