MOROCCO


 VOLUBILIS

バスはラバトを出てフェズへ向かったが、その途中メクネスという町を通った。谷をはさんで対置する位置にある「ベルビュー(良い眺め)」という名のレストランで昼食をとった。テラスからは、メクネスの町を囲繞する赤褐色の壁の向こうに家々の屋根やモスクのミナレットが見えた。店の名はここから来ているのだと納得した。本来なら鳩の肉を使うところだが、その代わりに鶏肉を使った「タジン」という料理を食べた。モロッコでは有名な料理である。肉やトマト、玉葱、人参などの野菜を煮込んだシチューの一種と考えてもらえばいいだろう。鳩の肉も食べてみたいものだとは思ったが、これはこれでたいそう美味しかった。タジンに限らず、モロッコの料理も美味しかった。妻は独特の香りに少しとまどってはいたが。

 ムーレイ・イドリス



ムーレイ・イドリスの町は、789年にモロッコ最初のイスラム王朝であるイドリス朝が興ったところである。町に入ってみたくても、門から中に入れるのはイスラム教徒だけに限られている。残念だが、遠くから眺めるだけだった。この町から少し行ったところにローマ時代の遺跡が残るヴォルビリスがあるという。後で訪れることになるが、古い時代に建てられたモスクや大聖堂は、かつてのローマ帝国の遺跡から、その大理石の柱や礎石を借用してできているものが多い。都市に近いところにあった遺跡は、資材置き場と化したのでもあろう。そういう意味では、遺跡が残っているヴォルビリスは辺境の町であったのかもしれない。

 ヴォルビリスの遺跡



車は、少しずつ坂道を上っていった。辺りは灌木の茂みが続いていた。ようやくとまったところは、周りをなだらかな山に囲まれた一画だった。そこに瀟洒な管理棟があり、そこから石畳の坂道が続いていた。遺跡まで、ここからは歩いていかなければならないらしい。シディ・アリのボトルを片手に覚悟を決めて歩くことにした。坂道を上りつめると、遺跡が遠くに見えてきた。ローマ風の円柱や回廊が小高い丘の稜線に立ち並び、その向こうに真昼の空が透けて見えた。

 裁判所跡




近づくにつれ、かなりの規模の街が営まれていたことが分かってきた。ローマ時代そのままの形で残っているものは稀で、発掘された後で復元されたものが多いが、原型を忍ぶことはできる。ここが、裁判所の跡、ここは回廊と訪ね歩く裡に、小さいながらも街としての機能を果たしていたローマ帝国の辺境の街の在りし日の姿が浮かび上がってくる。白茶けた土の色を見せる通路の傍らには、ローマ時代のモザイクタイルが今も残り、神話や動物をモチーフとしたそれらの図柄は、今もなお往時の色を留めていた。

 カメラマン ビンボー氏



世界中どこに行っても日本語のできるガイドがいる時代になったが、モロッコでは、まだまだ日本語のできるガイドは多くないようだった。ところが、ヴォルビリスには、自称ビンボーという日本語のできる観光客専門のカメラマンがいた。カフタンを着た二人連れは、格好の被写体と見えて、頼みもしないのにやたらシャッターを押していたが、そのうち、名前までつけてくれた。ハッサンとレイラというのがそれである。案の定、夕食後、ホテルに現れて、写真の披露をしてくれた。ハッサンとレイラの写真は束になるほどあった。これを買っていたらたまったものじゃない。第一見ての通り写真は自分でも撮っている。それは、彼も承知のはずである。少しかわいそうな気はしたが注文はしなかった。何人かの人が買っていたようだったから損失補填はできたのではないだろうか。

 ローマによる統治



これほどの街が、ローマを遠く離れた北アフリカに作られたのは、ローマが基本的に直接統治という方針を採用していたからである。その土地に赴く貴族や軍人たちのために、その土地はローマ風に作られねばならなかった。公会堂や神殿が、ローマにあるのと同じように造られたのである。しかし、ローマは、その版図を広げすぎた。直接統治が不可能になり、間接統治に頼らなければならなくなると同時にローマの勢力は衰退していくことになった。街から遠く離れたこの土地は、その後誰からも振り向きもされず崩壊するに任されたのだろう。それが、却ってかつてのローマの街の姿をを今に留めているのは歴史の皮肉というものでもあろうか。誰も住む者もいない街には、時折訪れる人のために荷を運ぶ驢馬の鳴らす鈴の音だけが響いていた。

 
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