MOROCCO

 FES

「望郷」という映画があった。その中に出てきたカスバの情景は、迷宮の名にふさわしい幻惑に満ちた空間であった。子どもの頃、とある石鹸会社の提供で、午後三時頃から、欧米の映画を放映する番組があった。学校が終わって家に帰る頃、ちょうどその番組は流れていた。もちろんモノクロームで、今と違って、そのころの洋画はフランス映画が中心であった。「にんじん」や「汚れなき悪戯」といった、子どもにも共感できる作品ばかりではなかった。けれど、分かろうが分かるまいが、目はブラウン管の前に釘付けにされていた。印刷媒体が今ほど身の回りに溢れてはいなかったから、目に触れる異郷の風景は乾いた土が水をしみこませるように心の中にしみこんでいった。ペペ・ル・モコの名は、やはり父から聞いたような記憶がある。若い頃東京で暮らしていた父にとって、北アフリカにいながら遙か遠くの巴里に心を釘付けされたペペの思いは人ごとではなかったのかもしれない。しかし、画面に映るのは、巴里の映像ではなかった。猥雑で蠱惑的な迷路のような街カスバ、それは、子どもの心を引きつけて離さない魅惑に満ちた世界であった。現実の世界というのは、いつも突然目の前に現れるものではない。その前に予告編ともいえるものとの出会いがある。ディートリッヒとクーパーによる映画がなかったら、「モロッコ」の名前が、世界中に無数にある土地の名の中から意識の前面に浮かび上がってくることはなかったし、「望郷」を知らなかったらカスバの存在も知らなかった。善悪の区別を知らず、光と闇の二元論的世界に住んでいない子どもの頃に心の中に住み着いてしまったものは、その後の人生を導く旅程表のようなものかもしれない。

 フェズ・エル・バリ

 ダール・エルマフゼン



ホテルの前からバスに乗り、フェズ・ジュディド(新しい町)と、フェズ・エル・バリ(古い町)の境界までつれていってもらう。今日は一日フェズ・エル・バリにあるメディナ(市場地区)を歩き回る予定だ。ダール・エルマフゼン(スルタンの居城)の前で降りた。ここからは歩きだ。新しい街と古い街との境には高い城壁が連なっていた。

 城壁



城壁のこちら側は広い道路が通り、車がひっきりなしに走っているが、城壁の向こう側、古い街には、バスはおろかタクシーさえ入ることはできない。道幅が狭く階段や急な坂道が続くフェズ・エル・バリでは、今でも自動車に頼らない生活が続いているのだ。

 メディナ

 ブー・ジェルード門



フェズ・エル・バリ地区には西の入り口から入った。馬蹄形のアーチの周りに浮き彫りされた装飾に目を引きつけられた。近づいていくときにはフェズを表す青い色で、その文様は描かれている。唐草文様の一種なのだろうが、原生動物が蠢くような混沌とした図柄である。それでいて、じっと見ているとある種のリズムが感じられるのはやはり秩序があるのだろう。カオスモス(秩序だった混沌)とでもいえばいいのだろうか。不思議な感覚におそわれる。門をくぐると、今度はそれが、ムハンマドを象徴する緑色で描かれている。門の近くには、まだまだ観光客相手の店があったり、建物の作りもヨーロッパに近いものがあったりして、新しい町と古い町とのつなぎ目の役割を果たしているようだ。それが、メディナの中に入って行くにつれ、道幅が狭くなり、壁が迫ってくる。

 驢馬



その狭い通りの入り口近くには食料品を扱う店が集まっていた。香辛料の原料と思われる赤や黄色をした色鮮やかな小さな実が籠や袋の口まで山盛りに詰められて、店先に溢れていた。屋根のある通りではターバンを巻いた男が、生きている鶏を売っていた。その向かいの肉屋では牛刀で牛の頭部を捌いていた。車が入れないので、荷物を背中いっぱい積んだ驢馬がひっきりなしに行き交う。御者のかける「アタンシオン」の声が苛立ちを帯びて次第に大きくなる。それでも驢馬は黙って、従順に引かれていく。大きな瞳が疲れているのか幾分細めに開けられている。その目に諦念が現れているように見えるのはこちらの勝手な思い入れだろうが、何か切なくなってしまう。

 路地



食料品市場を通り抜けると、しばらくはひっそりとした壁と壁にはさまれた路が続く。壁と壁が迫っているのにも理由がある。暑いモロッコでは、どうにかして太陽の直射を避けたい。路が狭ければそこからのぞける青空も狭いのは道理だ。太陽が真上にさえ来なければ、どちらかの壁が陰を作ってくれる。湿気がないから日陰でさえあれば涼しいのだ。通りに面した壁には窓が少ない。町が城壁に囲まれているように一軒一軒の家も外壁によって外部の喧噪から遮断されている。老人は盲目であった。じっと扉の前に座り込んで、通りの物音に耳を澄まして聞き入っていた。通りのあちこちに入り口に腰を下ろした老人の姿が目に着いた。石像のようにじっと動かない老人たちと対照的に小さな子どもたちは走り回っていた。大人は仕事をしているのだろう。静かな通りには年寄りと子どもの姿しかなかった。狭い路地裏を抜けると、また、にぎやかな通りに出た。生活雑貨や、土産物を売る商店が軒を並べていた。一階部分が店舗、上層部が住居と機能を分離させた都市型の街作りがなされている。だから、極度に密集し、人口が集中しながらも、この町は千二百年のあいだ機能し続けてこられたのだ。王宮の扉の細工をしたという職人の店で銀細工を見せてもらった。歩きづめなので、ちょうどいい休憩になる。水を飲み、手洗いを済ませると元気が戻った。

 アタリン神学校

商店街に続く通りは道幅も広く人の往来も多かった。街の文教地区なのだろうか、神学校やモスクが集まっていた。アタリン神学校は古い歴史を持つ神学校である。柱の下部や二階バルコニーの手摺り部分に木部がそのままの生地を見せているのがめずらしい。色鮮やかなアラベスク模様に幻惑され通しだったので、この白と茶の配色には心慰められる思いがした。手摺り部分の構成もどこか法隆寺の卍崩しの高欄を思わせる意匠が用いられていて懐かしかった。








 カラウィンモスク

カラウィンモスクは、古い街の中でも最も古い建物で、859年にカイラワーンの亡命者ル・フェリの娘ファティマによって建てられた、と説明されても、この国の歴史にそこまで詳しくないのでよくは分からない。それよりも、このモスクは大学の役割も果たしていたので、世界最古の大学ということになるという説明の方が興味深かった。ヨーロッパ最古のボローニャ大学が11世紀に始まるわけだからそれより二百年ほど早いことになる。








 子どもたち



イスラム教の祖ムハンマドは文盲であったという。そのためコーランは暗誦するのが基本となっている。実際に通りを歩いていると、コーランを練習する子どもたちの声が聞こえてくる。学校に入る前の子どもたち、日本でいえば幼稚園児が通りの一画にある家に集まって、コーランを習っていた。独特の旋律は音楽に近いと思った。

 ダッバギーン



赤いバケツを重そうに手に提げた少年が共同水汲み場から水を運んできた。石段の多いこの界隈では余所にも増して重労働だが、水汲みは子どもの仕事らしく、どの子も真剣に仕事を果たしていた。およそ店らしくない建物の入り口にジャケットやベストが無造作に吊されていた。よく見れば、そんな店が集まってきていた。モロッコ皮の財布というものを見たことがあるだろうか。皮の色は様々だが金箔を捺した縁取りが洒落ている、あれだ。ダッバギーンというのは鞣し革染色場のことである。階段の多い入り組んだ小路を登っていったところにそれはあった。外の明るさに慣れた目には建物の中は昼でも暗い。手探りで、壁づたいに階段を上がっていく。その階段の暗いこと、長いこと、迷路の中を連れ回されているような気がしだしたころ光が見えた。  

 ミントの葉

 

屋上に上がると、丘にそって上に上にと登っていくメディナの町並みが一望できた。家と家が屋根づたいに繋がり、その下を遂道のように道が通っているのが手にとるように見える。映画で見たのとそっくりな風景に、しばし感慨に耽っていると、強烈な匂いが漂ってきた。足下には薬品に晒されて白くなった何枚ともしれぬ獣皮が屋根の上に並べられ、天日に干されていた。遙か下方には皮を浸けておく瓶状の穴がいくつも並んでいた。メディナで迷われるとやっかいなのか、今日はアブドゥのほかにもう一人ガイドが付いていた。ジュラバを着た初老の男性である。その彼が小さな草花を何本か手に持って、配って歩いていた。配り終わると、一枚の葉をちぎり、掌の上で軽く揉むと鼻に詰めて見せた。鼻の近くに持ってくると薄荷の匂いがした。街を歩いていると、通りの椅子に腰を下ろした男達が、昼間からなにやら飲んでいるのに出くわすことがある。メンテ(ミント茶)といって、酒の飲めないイスラムの国モロッコではなくてはならない飲み物である。ミントの葉を鼻に詰めるよりも、匂いを我慢する方がましである。ミントの葉は、そのまま手に持って歩くことにした。

 染料を入れた甕


 

工場の反対側の壁際には、鞣した皮を染色する染料を入れた甕が並んでいた。建物の壁は一年とか二年おきに白い塗料を塗り直すのだそうだが、人目につかぬ上の方は塗り残すのだろうか、そこだけ色の塗ってない壁を見つけた。なんだか映画のセットの裏側に入り込んだような気がしておかしかった。

 モロッコの人々



昼食のためのレストランに向かって歩いていると、道端に座り込んだ人や店の前に立っている人から「こんにちは」とか「さよなら」とか、片言の日本語で声をかけられた。物売りがかける「三つで千円」とかいうのとは違って、それらの声には媚びがない。にっこりした顔で声をかけられると返事をせずにいられない。これは、ヨーロッパの街を歩くときとは大きく違う。人なつっこいのだ。忙しくないからかもしれない。まだ、人というものに絶望していないからかもしれない。モロッコの人たちは、ヨーロッパ人と同じセム語系の人種である。ネグロイドの人とも混血し、髪や瞳の色は黒くなったが、子どもの中には明るい色をした髪の子も多い。その子もそうだった。どうかすると、遅れがちになる妻の前に立って道案内をしてくれていた。辻々で顔見知りから飲み物をもらったりしながら、最後まで着いてきた。何かお礼をしたかったけど、お金では失礼になる気もして、悩みながらも結局渡せなかった。何か日本の小物など、持っていけばよかったと後から思った。

 アラビアンナイトの世界


メディナから一歩外に出ると、人々の顔や建物の形は変わらないのに、何か夢からさめたような気がした。丘の上から見下ろした古い町からは、人と人が話す声も驢馬の蹄鉄の音も響いては来ない。街角の店から流れるベルベル族の歌声も、子どもたちの唱えるコーランも流れてこない。町はまるで千年前から眠りについたままであるかのように静かにそこに横たわっていた。けれど、ひとたび、その門をくぐれば、街は千年の眠りから覚め、羊の肉を焼く匂いやミント茶の香りが立ちのぼり、色とりどりの長衣を纏った女たちが静かに行き交う中を物売りの声がかき分けるように響く、アラビアン・ナイトそのままの世界が現出するだろう。モロッコを旅するものは空間を動くだけではない。時間をもまた旅するのである。ギリシァ・ローマの遺跡とは違う、生きた人間が生活する旧世界を旅することができるのである。

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