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Home > Library > Column > 0412

 型の効用

今年の忘年会は、幹事の提案でボウリングがセットされていた。集合場所のボウリング場はがらがら。学校帰りか、制服姿の高校生が数人遊んでいるばかり。まあ、平日の夕方ならこんなものなのかもしれない。ここで2ゲームしてからでないと晩餐にありつけないらしい。こんなことなら昼をしっかりとっておけばよかった、と後悔したが後の祭りだ。

ボウリングという遊びには縁がない。若い頃一度ブームになったが、このボウリング場もその頃造られたものだ。その後何度か小さなブームがあったが、自分から足を運ぶことはなかった。付き合いで一、二度やったことはあるが、ルールもよく知らない。どうして、忘年会にボウリングと思ったのだった。

しかし、いざ始まってみると、なるほど幹事が忘年会にと考えるはずだ。ついこの間足やら腰やらを痛めて仕事を休んだ人や、日頃どこかしらが痛いと訴え、整体治療やカイロプラクティックに通っている人たちが喜々としてゲームに参加しているではないか。しかも、皆それなりにフォームが決まっている。きっと、若い頃かなりやっていたにちがいない。いや、ひょっとしたら今でも時々来ているのかもしれない。

こういう時だ。自分が世間の一般的な平面から滑り落ちているのを感じるのは。若い子が、ストライクを出してはしゃぐのは分かる。しかし、いい歳をした人たちが、若やいだはしゃぎ声を出して騒いでいるのは、何とも不思議だ。どうも、無理矢理はしゃいでいるのではなさそうだ。心底楽しそうに笑っている。どうやら、変なのはこちらの方らしい。

あまり浮いてもと思うので、顔には出さないように努めたが、ゲームが終わるまでの時間は長かった。ことはボウリングに限らない。どうも遊びというものが苦手らしい。謎解きゲームは嫌いではないから、苦手意識は体を使ってする遊びに限られる。子どもの頃は人並みに独楽回しや鬼ごっこを楽しんでいた記憶がある。だとすれば、思春期を境に何かが変わったにちがいない。

高校時代に思い切ってサッカーのクラブに入ってみたことがある。夏休み中の練習も欠かさず通って二年生になりながら、放課後になると起きる神経性胃炎に悩まされ、結局これからというところでユニホームを返した。サッカーならサッカーにのめり込める仲間が羨ましくも見え、脱落者としての自分が後ろめたくもあったが、放課後の練習から解放されると、ぴたっと胃は痛まなくなった。若者らしい勝手な思いこみがその後の自分を形づくることもある。自分はどうやら人と集まって何かを楽しめるタイプではなさそうだ、というのがその頃の自己規定だったとしても、それは長くあとを引いて現在の自分につながっている。

ホットになれなければ、ゲームはつまらない。クールでいるためには、人以上に習熟していなければならない。運動がそれほど得意でない者にとって、何かがうまくできるようになるまでの練習には、練習それ自体が楽しいと思えるような気持ちが必要なのだろう。体を意の儘に操ることができればさぞ楽しいだろうとは思うものの、そのレベルに到達するまでの過程を思うと、その前に気持ちが冷めてしまう。他にやることがあるような気がするからだ。

かといって、それが何なのかはその当時も分からなかったし、今になってもやはりよくは分からない。ただ、場違いな場所にいるという違和感だけがある。できれば、そういう場所から離れていたいと思うし、事実そうしてきた。しかし、世の中のしがらみというものもあって、年に何回かは自分の意志とは別に人と行動を共にしなければならない時がある。忘年会もその一つである。

思うに、世の中にある型というものは、それなりの役目がある。型通りというのは、つまらないかもしれないが、型であるからには必要十分条件が満たされ、過不足がない。個人の思い入れがない分、別の個人にとっては抵抗が少なかろう。料亭の大広間か何かでコの字型に座り、次々と運ばれてくる料理を前に酒を飲む、という宴会の型はステレオタイプかもしれない。だが、長い間かかってできてきた型というものには、つまらないものにもそれなりの知の総和があるものだ。静かに座って好きな物だけを食べ、あとは別のことを考えていても誰にも迷惑がかからない。仕事上の付き合いでやる宴会なら、それくらいですましておくのが無難ではないだろうか。

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車に乗って何気なく顎に手をやり、髭を剃るのを忘れたことに気がついた。よく運転しながら髭を剃っている人を見かけるが、今までそんなことをしたことがないので、車の中には電気剃刀はない。家に戻るのも面倒なので、そのまま行くことにした。もともと、それほど髭が濃い方ではない。かといって薄い方でもないのだが、日曜の朝、起きたのが遅かったので、髭はあまり伸びていない。うまくいけば気づかれずにすむくらいだろう。バックミラーに映る自分の顔を見て、そう思うことにした。

ショックだったのは、髭をそり忘れたのが、これがはじめてではないことだ。数日前にもやはり忘れた。その日はただ、ぼんやりしてただけだと思っていたのだが、今日は、朝から髭を剃らなくちゃいけないぞと、自分の顔を鏡で見ながらそう確認したはずだった。それなのに、歯を磨き終わった時にはすっかり忘れてしまっていたのだ。朝の忙しい時間にかち合っても化粧や洗顔ができるように、洗面所は広くして、大型の鏡が入れてある。髭剃りの置いてある方で妻が化粧をしていたことは考慮に入れてもいい。それにしても、である。

自由業ではない。人に会う仕事だけに一応それなりの身だしなみを要求される。今まで、どんな気分の悪い日でも髭を剃らずに出勤したことはなかった。それが、一週間の間に二回も忘れるというのは、はっきり言って非常事態である。そういえば、先日も大事な書類を置き忘れてひそかに探し回ったことがあった。同僚が気づいて保管してくれてあったので事なきを得たが、こういうことも今までなら考えられなかったことだ。

歳をとったということだろうか。自分では、そんな気がまったくしないのに、事実は容赦なくその事態を認めるよう迫ってくる。体力的には問題ない。重い物を持ってもすぐに筋肉に反応がある。忘れた頃に痛み出したりはしない。ただ、無理はきかなくなった。終日多くの人に会わなければならない日が続いたりすると、夕食後ソファで居眠りをしている自分に気がついて驚く。

仕事に対しても、経験を積んだ分だけ万事そつなくこなすことができる。おかげさまでクライアントから苦情が来ることもあまりない。人と比べれば、同じ勤務時間内で処理できる仕事の量は多い方だと思う。しかし、以前に比べると新しい方法を試したり、難しいと思われることに挑戦したりすることがなくなったのもたしかである。そればかりではない。考えもしなかったことだが、仕事を辞める日のことを考えはじめている自分がいる。

仕事に関しては、時代や社会状況も関係がないわけではない。高度経済成長期は昔語りだとしても、バブルがはじけるまでは、日本の社会も前向きに開かれていたような気がする。それが、どうだ。景気が悪くなると同時に人気(じんき)は荒れ、政治は反動化し、止まるところを知らない。毎朝、新聞を見るたびに気が重くなる。政治は三流でも経済は、と言われた財界の不祥事続きは、他人事ではない。一寸の虫にも五分の魂というが、末端にいる者にとって、自分のやっていることが、何程かは社会のためになっていると思えばこそ力も尽くしようがある。やる気を殺ぐようなことばかり上でやられていては正直、職場にいても楽しくない。

ふだんは愉快に過ごしているつもりでも、心の奥のどこかに鬱屈した塊のようなものが潜んでいて、最後の最後でなし崩し的に日々の営みを色褪せさせている。そんな気がするのだ。自殺者が増えていることについて感想を聞かれた首相は「そんなことまで私の責任だというのか」と気色ばんだと伝え聞く。一国の首相が責任を負わずして、誰がいったい責任をとると言うのだろう。

髭の剃り忘れが、単なる歳による老化現象なら、それはそれで仕方がないことである。誰でも歳をとれば、そうなるのだから甘んじて受ける覚悟はある。ただ、日々募るばかりの憂鬱は、果たして無関係なのだろうか。たまの休日、車に乗って出かける時には膝掛けや地図は忘れても、髭を剃り忘れたりはしない。待ち受けているものが自分の前にあり、それに向けて発進してゆく時、人は自分を粗略に扱ったりはしないものだ。あれこれと準備怠りなく手配し、その手応えを感じることのできるような仕事がしたい。そういう仕事を評価してくれる場所で働きたい。そう思っている人は多いはず。それが、できないから、明日に展望が開けないから、自分で扉を閉じてしまう人が跡を絶たないのだ。

大きな世界と自分とは無関係ではない。一切衆生病む故に我も亦病むのである。そういえば、入院した時、髭は伸ばしたままだった。状況は楽観を許さない。病状は悪化を辿るばかりのような気がする。世界を変えることなどできはしないけれど、髭くらいは剃れる。せめて明日は、こざっぱりした顔で出かけるとしよう。

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