Summertime in Italy

 VENEZIA

そして、かれは、じっと見やりながら、陸路をとってヴェニスの停車場に着くというのは、一つの宮殿の裏口からはいるのにひとしい、そして人はまさに、今の自分のごとく、船で、大海を越えて、都市の中での最も現実ばなれのしたこの都市に到達すべきだ、と考えた。
−トオマス・マン作 『ヴェニスに死す』(実吉捷郎訳)−

朝の光が対岸の古びた建築の壁を照らしていた。船は、ジュデッカ運河に入りつつあった。船室にいた妻を呼びに行き、甲板に戻ってみると、右手の岸の向こうにサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼が朝日を浴びて輝いて見えた。細波を浮かべた水の上を、荷を運ぶ艀やヴァポレットと呼ばれる水上バスがいそがしく行き交っている。

ヴェニスに入るにはマンの言うとおり、船で行かなければならない。港を出てしばらくは、空と海の他には何もない。それが、島が近づくにつれ、水平線の上に突然尖塔が仄見え、やがて色鮮やかな建築群が立ち並ぶ大都市がゆらゆらと水の上に浮かび上がってくる。波のまにまに浮き沈みする水上楼閣はヴェニス以外のどこでも眼にすることのできない幻の都市の光景である。

ドゥカーレ宮殿やがて船は大きく舵を切り、サン・マルコ運河に入った。左手に見えてきた大きな円蓋はサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会である。真正面に翼の生えた獅子と聖者らしき像を載せた二本の円柱が見える。その右手に薔薇色に輝いているのがドゥカーレ宮殿、つまり、ここがヴェニスの中心、サン・マルコ広場という訳だ。旅人の逸る心を乗せて船は広場近くの船着き場に着いた。

朝も早いというのに観光客を乗せた船が次々と客を降ろしていた。船着き場から運河沿いに少し歩いた。有名なホテルダニエリの前を抜けると広場は目の前だ。

 サン・マルコ広場

サン・マルコ広場何度も映画でお目にかかった広場である。「リストン」と呼ばれる迷路のような敷石の模様が印象的で、たとえどんなカットであろうと、この模様を見て「あ、サン・マルコ広場だな。」と分かってしまうのだ。

広場の入り口にはさっき船から見えた二本の円柱が門のように立っていた。この円柱から鐘楼までの細長い区画はピアツェッタと呼ばれる小広場で、サン・マルコ寺院の前に広がるピアッツァと二つの広場がL字型につながっているのがサン・マルコ広場である。

ドゥカーレ宮前のカフェはまだ店を開けていないのか、卓子の上に椅子が固めて置かれている。人気のないピアツェッタには、たくさんの鳩が餌を待っていた。ジャン・コクトーがうまいことを言っている。「ここヴェネチアでは、鳩が歩き、獅子が空を飛ぶのだ」と。

言うまでもなく『旅情』でキャサリン・ヘップバーンがロッサノ・ブラッツィを待っていたのはピアッツァにある有名なカフェ・フローリアンの方だろう。しかし、私はピアツェッタのカフェの方が気に入っている。ここの椅子に腰を下ろせば、円柱ごしに運河が見渡せ、ドゥカーレ宮は言うに及ばず、サン・マルコ寺院も鐘楼もムーア人の時計塔までも一望の下に見渡せるのだ。

 パラッツオ・ドゥカーレ

ドゥカーレ宮9世紀に建設されたパラッツオ・ドゥカーレは、ヴェネチアの政治の中心である。それだけにこの中にはティントレットを初めとするヴェネチア派の絵画は言うに及ばず、様々な美術品が展示されている。この総督宮殿を案内してくれたのはマッシモという生粋のヴェネチア人であった。

ミシェル・ピッコリに似たガイドは流暢な日本語を話したが、それだけでなく、日本についてもよく学習を積んでいた。ティントレットの『天国』は、二階大評議室の壁一面を飾る文字通りの大作だったが、同じ部屋に飾られていた歴代総督76人の肖像画を見ながら彼は言ったのだ。「わたしは共和主義者で、帝国は嫌いです。でも、ヴェネチアの帝国、日本帝国より長く保ちました。すみません」と。

イタリアはかつて日本と組んで敗れた国である。しかし、マッシモの口から自分はイタリア人という言葉はついぞ聞かなかった。そのかわり、ヴェネチア人という言葉は何度も聞いた。カンパニリズモである。彼にとってはイタリアの敗戦など他人事なのだろう。偉大なるヴェネチア共和国の歴史の前にあってはつまらぬ挿話の一つくらいに思っているにちがいないのだ。

国家などというものはたかだか近代になってできあがった観念に過ぎない。近代国家成立までに長い歴史を積み上げてきた都市に住む人々にあっては、統一国家などは長い歴史の中の一齣に過ぎないのだということを改めて感じた。それに比べて私を含めて日本人はどうして斯くも易々と日本人という共同幻想を受け入れられるのだろうか。ガイドの皮肉に笑顔で頷く人々を見ながら、つい考え込んでしまった。

 サン・マルコ教会

サン・マルコ教会宮殿の横にもともとは総督の私設礼拝堂として建てられた小さな木造の教会があった。そこにアレキサンドリアから盗んできた聖マルコの遺骸を収めるため、現在の壮麗なビザンティン様式の教会に建て替えられたのがサン・マルコ教会の始まりである。

ちょうど中ではミサが始まっていた。信者以外は入ることができないので遠巻きに外観を眺めるしかなかった。それにしても異様な外観を持った教会である。ロマネスクのようでもあり、ゴシックのようでもある。ルネッサンス風のところもあるが、全体としてはビザンティン風と言えばいいのかも知れない。ファサードの二連五層のアーチが特に目を引く。

 最後の審判

最後の審判下層中央アーチの上部には「最後の審判」を描いたモザイク画が、修復を終えて見事によみがえった。左右4つのアーチには聖マルコ移送のモザイク画が残されている。以前来たとき、ここは木製の壁にすっぽり覆われていたものだ。

厚さ1mmの金箔を挟んだガラス・モザイクは堂内の天井や壁面を覆い尽くしている。美術史的な価値はさておき、経済的には世界で最も高価な教会といえるかも知れない。

下層アーチの上にあるブロンズ製の四頭の馬は十字軍がコンスタンチノープルから略奪してきたもののレプリカである。本物は堂内の博物館にある。上層アーチにはゴシック式の尖塔が配されていて、中央アーチ上には聖マルコと翼を持った獅子の像があった。聖マルコの遺骸といい、馬のブロンズ像といい、やたらに略奪品の多い教会である。地中海の覇者の位置をジェノバと競い合っていた頃の名残だろう。教会もまた国家の威信を示すために建てられていたのだ。

 カンポ

カンポミサの終わるのを並んで待つ気もしないので、ムーア人の時計塔の下からリアルト橋辺りまで歩いてみることにした。この辺りがヴェネチアのメインストリートになる。浅草なら仲見世というところだろうか。メルチェリーア(小間物通り)という呼び名通り、商店街がぎっしり並んでいる。

通りの突き当たりの壁には、リアルト橋という標識が出ているので、それに従っていけば迷うはずがないと聞いたが、小運河に架かる橋をを二つほど渡ったところで早速迷った。通りを一つ間違えただけなのに、それまで観光客で賑わっていたのが嘘のように誰もいないカンポ(小広場)に迷い込んでしまったのだ。

広場の真ん中には,お定まりの水汲み用の井戸があった。カンポは市民の憩いの場でもある。子どもたちがサッカーをしたり、おかみさん達が井戸端会議に興じたりする。カッレ(小路)からカンポへ、また次のカッレへと、このまま、どこまでも迷い続けていたい気も少しばかりしたのだが、昼時のカンポに人影はなく、広場の真ん中にぽつんと立っていても仕方がない。もと来た道を戻ることにした。

 リアルト橋

リアルト橋人通りの多い小路に出たので、なんとなく流れにのって歩いていくと、土産物を売る店が道の真ん中にできていた。橋に続く通りに出たのだ。橋の上の回廊には宝飾品や皮革製品、土産物を売る店が軒を並べていた。ただでさえ狭い橋の上に人が立ち止まるので落ち着いて見ていられるものではない。タイトルバックに揚げた写真を一枚取り終え、橋のたもとに戻った。

橋を渡り終えた所で運河の方に小路を入った。そこまでは、観光客が来ないのか、若い男が大きな犬を水浴びさせていた。暑い日だった。体の半分まで水に浸かった犬はご機嫌な様子でいつまでたっても水から出ようとしない。橋の反対側には、カフェが店を出し、観光客がたむろしているというのに、近くに市場があったはずだが、真っ昼間とあって全く人の気配がなかった。

 仮面

仮面今回のイタリア旅行ではカーニバルに使う仮面をぜひ買って帰りたいというのが妻のプランだった。仮面なら、ヴェネチアに決まっている。今までは、どこで見ても買わずに来た。ここではゆっくり選ばせてあげたいと思った。いくつかの店を見た結果、リアルト橋近くの店の仮面が気に入ったらしい。シンプルだが、よく見ていると誘い込まれるような表情をしている。乱歩の小説に出てきそうな仮面だ。

 ゴンドラ

ゴンドラ今度は迷わずに、サン・マルコ広場に戻ってきた。昼食は烏賊墨のパスタと、ヴェネト産の白ワイン。ハウスワインを注文したつもりだったのに出てきたのはまたもや1リットルのボトルワインだった。よく冷えていて美味しそうだったので、ま、いいかと思った。案の定、喉越しが爽やかで、ついつい飲み過ぎてしまった。

少し手持ちのリラが少なくなってきたので、近くの店で両替をした。レートはよくもないが、それほど悪くもないというところだった。昼からは、楽しみにしていたゴンドラに乗る。サン・マルコ広場を突っ切って、大運河の岸にあるゴンドラ乗り場に出た。

サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会乗り場には、たくさんの人が並んでいた。カンカン帽に赤か青のボーダーシャツというのがゴンドーリエ(漕ぎ手)の制服だ。櫂を上手に操っては、桟橋の両側に船をつけ、次々と客を乗せていく。黒く塗られたゴンドラは細長く、一見すると安定が悪そうだが、乗ってみるとそうでもない。赤いクッションの敷かれた席に身を沈めると、滑るようにゴンドラは大運河の真ん中に出ていった。

ヴェネチアでは運河こそが道である。どの建物も運河に面している方がファサードだ。サン・マルコ運河とジュデッカ運河の分岐点、サルーテ岬に立つサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会も、大運河の方を向いて立っている。有名な建築を正面から見るにはゴンドラをチャーターして、ヴェネチアの中心を裏返しのS字になって流れる大運河に漕ぎ出すに限るのだ。

ジュスティアン・モロシーニ宮殿日は高いのだが、運河を渡る風は涼しかった。目の前に広がる水には細かな波の一つ一つに太陽が反射して、きらきらした光を投げ返していた。岸から見るのと、ゴンドラの中から見るのでは運河沿いの建物は全く違って見える。有名な建築や広場のように、建物と運河の間にスペースがあるところは別だが、普通の所は、水の中から直接建物が建っているように見えるのだ。言い換えれば、建物の下部が水中に没しているように見える。長く見ていると目眩に襲われそうな気がしてくる。
小運河
やがて、ゴンドラは小運河に入ってゆく。建物と建物の間に通る裏道のような細い水路である。大運河には、モーターボートやヴァポレットがたてるエンジン音が絶えず聞こえていた。それが、小運河に入った途端、ぱたりと聞こえなくなった。船端を叩く水音が櫂の音に混じって聞こえるだけの水路は、不思議なほど静まり返っていた。時折、風に乗ってアコーディオンの伴奏にのせて朗々と歌う声が流れてくる。どこかのゴンドラに楽隊が乗っているのだろう。聞き慣れた民謡が曲がり角を曲がるたびに、近づいたり遠ざかったりして、いつまでもついてきていた。

水路からはかすかな腐敗臭が漂ってくる。澱んだ水にはヴェネチアの化粧を剥がした素顔が映っていた。窓に干された洗濯物やヴァルコニーに置かれた花からは、この街で暮らす人の生活の匂いがした。火災にあって、現在復旧工事中のフェニーチェ劇場の前を通り、ゴンドラはサン・マルコに帰ってきた。

最近では、ウディ・アレンが、ヴェネチアを舞台に映画を撮っていた。ゴンドラを通すために迫り上げ気味に架けられた橋や、運河に沿ったカンポをさりげなく活かして小粋な作品に仕上げていた。ヴェネチアなら、どこを撮っても映画になる。実際に訪れるとがっかりしてしまうような観光地の多い中、ここだけはいつ来ても期待を裏切らない。

しかし、そのヴェネチアも水没の危機が叫ばれている。対岸に誘致した工業地帯が地下水を汲み上げすぎたために地盤沈下を招いたのが直接の原因らしい。もともと潟の中に木の杭を何本も打ち込んで作った街である。建物の重さ自体を軽くするために、開口部をたくさん設けたのが、ヴェネチアン・ゴシックと呼ばれる優雅な様式を生んだのだ。先人の知恵に学びながら、いつまでもその華麗な姿をアドリア海の上に浮かべていてほしいものだ。

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