Summertime in Italy

 RAVENNA

アドリア海に面したラベンナは、ヴェネチアと同じく入り組んだ水路が作り出す「潟」が自然の要塞となって、敵から守られていた。東西ローマ帝国の境界に位置していたため402年からは西ローマ帝国の首都となっていたが、先ず476年に東ゴート、さらには540年に東ローマ帝国の攻撃を受けて陥落する。皮肉なことだが、現在モザイクの街として知られるのは、この時代に花開いたビザンチン芸術の傑作が、今もこの街に多く残るからである。

 サン・ヴィターレ教会

サン・ヴィターレ教会ラベンナは小さい町である。観光に訪れる人がいても、それで町の表情が変わるほどではない。教会に入るときも、ひっそりとしたその佇まいに驚いたほどだ。

中庭を取り巻く回廊には静謐な時間が流れているようだった。学僧が瞑想に耽るためにあるような空間を通り過ぎ、石の階段を下りて、堂内に入った。雪花石膏(アラバスター)の切片でできたステンドグラスから落ちてくる光は曖昧な黄色を帯び堂内は薄暗かった。眼が、暗さになれると、イスタンブルのアヤソフィアに似た八角形の堂内は壁と言わず柱と言わず、どこもかしこも華麗なモザイク画で埋め尽くされていた。これほど見事に残されたモザイク画の氾濫をかつて眼にしたことがなかった。しばらくはただ溜息をついてぼんやり辺りを見回しているだけであった。

 『従者を伴うユスティニアヌス』

皇帝ユスティニアヌスラベンナに残るビザンチン美術の中でも、サン・ヴィターレ教会を飾る『従者を伴うユスティニアヌス』のモザイクは、特に傑作の呼び声が高い。書斎の棚に並ぶ美術書の中にも大きな写真で取り上げられていた。

それは、後陣(アプシス)(祭壇の背後の円蓋のかかった奥所)の側壁上部にあった。中央に皇帝ユスティニアヌスの見覚えのある顔がこちらを見下ろしていた。キリスト教の教会祭壇画でありながら、中心はあくまでも皇帝で、彼の周りに大司教や聖職者達、それに軍隊の兵士達が並んでいるが、これは、国家と教会の統合を象徴するとともに、帝政ローマ時代の王の神格化に倣ったものである。

皇帝は威厳に満ちた表情で、威圧的に見える。後に起こるゴシック美術と比べると、ゴシックが優雅で情緒的な表現を見せるのに対し、ビザンティン美術は、厳粛かつ禁欲的で、抑制された様式美を持っていると言えよう。画面一杯に描かれた集団の持つ凍りついたような威圧感は、そのまま信者や民衆に向けられた視線に他ならない。王と教会権力がいかに強大なものであったかが伝わってくる思いだ。

反対側の壁には、皇帝のそれと対になって、皇妃テオドラのモザイク画があった。こちらには皇妃と従者、侍女たちが同じ様式で描かれていた。女性ということもあり、華麗な装束や室内の調度が厳粛な中にも華やかさを醸しだしていた。

 内陣モザイク画

内陣モザイク画内陣の壁には、古代ローマの様式を思わせる写実的な風景描写を取り入れたモザイク画が残されていた。ビザンティン美術の持つ冷厳な他を圧する迫力の前では、それらはいかにも牧歌的で長閑な雰囲気を漂わせていた。

アーチの内側は、円の中に描かれた使徒と聖者の肖像で縁取られていた。それらの絵と絵の隙間はびっしりと紋様によって埋め尽くされ、空白というものを見つけることができない。色彩と模様による空間の充填は一種の強迫観念を感じさせ、そこにいかにも東ローマ帝国らしいオリエントに通ずるものを見出すことができるようだ。

 ガッラ・プラチディアの霊廟

ガッラ・プラチディアの霊廟堂内を出て、芝生の敷き詰められた明るい庭に出た。敷地の端に赤煉瓦造りの質素な建物が立っていた。張り出した翼部は十字架を象ったものだろう。クーポラの部分が矩形になっているところから見てかなり古い様式のものだと想像した。

それは、教会よりも古く5世紀半ばに建てられたローマ帝国末期の皇帝テオドシウスの娘、プラチディアの霊廟であった。霊廟内部のクーポラはラピスラズリを敷き詰めた蒼穹に黄金の星が燦然と煌めいていた。キリストの贖罪をモチーフにしたモザイク画は、バジリカの華麗なモザイクを見た後ではいかにも質素に感じられた。雪花石膏を硝子代わりに入れた細い窓から入る覚束ない光の中に置かれた石棺の中には、かつてはプラチディアの遺体が安置されていたと伝えられるが、今はないとも言われている。

 ダンテの墓

ダンテの墓故郷フィレンツェから逃亡してきたダンテが『神曲』を書き、そして死んだのがラベンナである。そのフィレンツェが遺体の返還を要求してきたことに対抗して作られたのがこの墓だという。霊廟の中にはウフィッツィ美術館前にもあったダンテの像によく似た像が安置されていた。ドレの描いた『神曲』の挿し絵で見た、独特の耳あての着いた被りもののおかげで、ダンテの像だけはすぐに見分けることができるのだ。

近くにあるモザイクの工房をのぞいた。モザイク工芸を展示販売する店の中に小さなアトリエがあった。譜面台に似た木製の台に原材料になる色石を挟み、鏨に似た道具で適当な厚さに割るところから作業は始まるようだった。よく似ているが、それぞれに明度や彩度の違う石が1センチ四方の大きさに切り分けられ、色番号を書いた箱に整理されているのを見て、ここまでの仕事が大変だと感じた。

実際にそこで作られたモザイク画は、よくできてはいるのだが、どこか、精度が感じられなかった。微妙にちがう石の厚みが表面に凹凸を生じさせている。教会のように高い位置に置けばきっと、同じように見えるのだろうが、近くで見ると、それがいかにも稚拙に見えてしまうのだ。

 ポポロ広場

ポポロ広場ポポロ広場は、地理的にも町の中心に位置する。ダンテの墓から細い路を通ってすぐにこの開けた空間に出ることができる。いつも思うことだが、壁の迫る小路と見晴らしのいい広場との組み合わせが街を呼吸させている気がする。狭い小路ばかりでは息が詰まるし、だだっ広く開けた空間ばかりでは欠伸が出てきてしまうのだ。一歩建物の中に入ると、内部には、また中庭があり樹木が植えられていたりもする。こうした都市空間の有り様は、日本では京都の町屋に通じるものがあるように思う。

コリント式の円柱が印象的なポポロ広場だが、ヴェネチアの支配を受けていたときには、円柱の上にヴェネチアの象徴である黄金の有翼の獅子が飾られていたという。今では、その代わりに別の像が飾られているが、面従腹背というか、他国の支配を受けながらも、本質的なものは見失わずにいるという精神の在り方に逞しさを感じる。

 カンパニリズモ

こういった同郷意識をイタリアでは「カンパニリズモ」というが、セリエAの熱狂を見ても分かるように国家として統一された後もこの国にはそれが根強く残る。この名称は、各コムーネを象徴する鐘突き塔(カンパニーレ)に由来する。ローマ帝国の崩壊以来1400年もの間、都市国家が覇を競った名残りであろうか。イタリアもまた統一された国家が突き進んだ挙げ句、無惨な敗北を喫するという苦い記憶を持つ。それに比べれば、比較することさえできない長い歴史を持つ都市国家に愛着を感じるのは無理のないことかも知れない。

ラベンナのような小さな街を歩いていると、特にそういう土地に対する愛着というものに共感することができる。自分の目で見て回れる範囲なら愛することが自然にできる。それを超えてしまえば、見も知らぬ者同士を束ねるための強引な物語が必要になるだろう。幻想の国家を物語る国史こそ、健全な愛郷精神が国家主義に趨るときに陥る陥穽である。

ラベンナでは学生のために無料自転車駐輪場を方々に設置している。自分も学生だったらこんな街に住んでみたいと思った。狭い道には車の騒音がなく、人は歩いて買い物ができる。古い街は不便なことも多いだろうが、あえてそれを守ることによって、かえって快適な都市生活を送ることができることもある。古い物の中に含まれている智慧をいかに汲むことができるかが問われているのである。
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last update 2001.8.24. since 2000.9.10