Summertime in Italy

 ROMA

はじめて来たときには、ローマの街のなんていうことのない通りを歩くのがとても気に入ったものだったが、いろいろな街を訪ね歩いているうちにローマの良さを忘れてしまっていた。花の都といえばパリ、水の都といえばヴェネチアと、何々の都という言い方は限りなく存在する。しかし、「永遠の都」という呼び名が似つかわしいのはローマただ一つである。『ローマの休日』のアン王女ではないが、やはりローマだけが持つ魅力というものがそこにはある。

一口にいえば歴史の持つ重みといった身も蓋もない言い方になってしまうのだが、カエサルのローマ以来、共和制、帝政と変化しながらもローマは発展し続けた。ヨーロッパの端から端まで、どこに行ってもローマの為した遺業の跡を見ないで通り過ぎることはできない。「すべての道はローマに通ずる」という格言を知ったのは子どもの頃だったが、それが嘘でも方便でもなく事実そのものであることを実感したのは、モロッコやトルコといった西欧から距離を置いた土地を旅しはじめた頃からだ。

ローマ帝国の版図の広大さを地図を広げて知ることと、辺境の地にあって、そこからローマに至る敷石道を実際に足で踏んでみることのちがいは大きい。文化も宗教も民族もまったく異なる地に突然ローマ風の街が出現する不思議さは、ローマの持つ力を感じさせずにはいない。カトリックがヴァチカンに本山を置いたのもローマの力を知っていたからだ。ムッソリーニもローマの力を頼った。すべての権力者は、歴史の中で如何に華々しく動き回ろうともやがては死ぬ運命からは逃れられない。残るのはただローマばかりである。

ローマの街を歩くことが好きだったとき、そんなことは考えてもいなかった。ただ、体はそれを感じていたのかも知れない。どことなく危なっかしい凹んだ石の敷かれた道や、オレンジがかった黄土色の壁、水の流れ込む下水といった、何の変哲もないありふれた物の中にこそローマの持つ「永遠」が宿っていたことを。

 コロッセオ

旧市街を示す城壁が見えるゴイト通りにあるリストランテで昼食をとった。妻は自分も得意なサルテンボッカということで、本場の味を楽しみにしていたのだが、本来なら仔牛を使うはずのところが、鶏肉を使っていたのでがっかりしてしまった。狂牛病の影響がこんなところにまで出てきているのだろうか。

映画『グラディエーター』以来、アメリカ人観光客の団体がめっきり増えたとかで、以前は並ぶこともなかったコロッセオに入場するため、列に並ばなければならなくなっていた。ワイラーやフェリーニに続いて、リドリー・スコットもまた、ローマ観光に一役買ったわけである。

映画の中で、闘技場の上を天幕で覆うシーンがあった。ドーム天井のはしりのようだが、こちらは日除けである。また、地下から昇降機で登場する場面もあったが、実際に闘技場の地下には、猛獣や剣闘士が出を待つ控え室がある。今は露出しているが、当時はその上に板を張り、流れ出る血を吸わせるために砂を撒いた。その砂(アレーナ)の名から闘技場のことをアリーナと呼ぶようになった。コロッセオの名は、近くにネロの巨像(コロッソ)があったことによる。建築用資材として、切り出されたため、四階の外壁を見るにはフォリ・インペリアル通りに回らねばならない。盛時の姿を知るために映画と併せ観るのもいいかも知れない。

 フォロ・ロマーノ

サングレゴリオ通りをはさんでコロッセオの向かい側に広がるのが、フォロ・ロマーノ。カピトリーノの丘とパラティーノの丘に挟まれた窪地にフォロ(公共広場)ができたのは下水道の整備が進み、湿地の水を抜くことができたからである。これが、紀元前6世紀のころ。現在でもローマの下水道は基本的に当時のものを使用している。「永遠の都」といわれる所以である。

歴代の執政官や皇帝が、人々で賑わうフォロに神殿や裁判所、元老院を置くことにより、ローマの政治経済の中心地となっていった。カエサルがブルータスに暗殺されるのもこの地である。異郷での戦いに勝利した将軍が凱旋パレードを繰り返したのもここ、言うなれば共和制ローマとローマ帝国の歴史が凝集した場所がフォロ・ロマーノなのだ。しかし、帝国に陰りが見え始めると同時に、人々の足が遠のき、中世には堆積物に埋まり、カンポ・ヴァッチーノ(牛の野)という名で呼ばれるほど荒れ果ててしまうことになる。

 アントニヌスとファウスティーナの神殿

フォロ・ロマーノの中心を通るヴィア・サクラ(聖なる道)は、凱旋将軍が行進する、最も重要な道であった。アントニヌスとファウスティーナの神殿は、その通りに面して、今も美しいファサードを残している。雲母大理石で飾られたコリント式の列柱と基壇がほぼ完全な形で残っているのは、11世紀に後ろに見えるサン・ロレンツォ・イン・ミランダ教会が建てられることによって、ファサードが教会に転用され、破壊を免れることになったからである。もともとは141年にアントニヌス帝が亡き妻の死に捧げて建てた神殿で、皇帝自身もここにまつられている。

 元老院とセヴェルス凱旋門

ヴィア・サクラを西に進むと、フォロ・ロマーノの北西の端にあたる元老院の前に出る。共和制ローマの最高政治機関である。最初の元老院焼失後にカエサルが再建を決定、紀元前29年にアウグストゥスが完成させた。7世紀には教会に改修されていたが、1930年に復元された。

大小3つのアーチを見せているのがセプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門で203年に建築された。セヴェルスの子がかの有名なカラカラである。門の上部に、皇帝とカラカラの記述が残っているが、帝の死後、カラカラは弟のゲタを殺し、その名を碑文から削り取ったと言われている。

 カストルとポルスの神殿

セヴェルス凱旋門から道を左にとり、ヴィア・サクラの反対側の道にでた。パラティーノの丘を背景に三本の大理石のコリント式円柱がそびえている。伝説によれば紀元前5世紀の戦いの際、ローマ軍を勝利に導いた二人の戦士がいた。それが、カストルとポルスである。この列柱は二人に捧げられた神殿のファサードの遺構である。

日を遮るもののないフォロ・ロマーノを歩いていると、頭がくらくらしてくる。湿気はないから、日陰に入りさえすれば、暑さはしのげる。しかし、やっと見つけた木陰には先約がいた。みな横になって眼をつぶっている。通りから離れた窪地には車の騒音も入ってこない。誰しも考えることは同じのようだ。あきらめて、ティトゥスの凱旋門の横を通り外に出た。丘の上から振り返ると、倒れたままの石柱の切り口が真夏の陽を受けて眩しく光った。

 トレヴィの泉

トリトーネ通りを少し入ると、狭い小路がゆるい下り勾配を描いて続いている。建築と建築が迫り、その陰になった道は夏の日盛りに歩くにはいい通りだ。しばらくすると、小路の先に光が集まる広場らしきものが見え、人のざわめきが伝わってくる。影から光の中に出たとたん、群衆の描く半円形の中に満々と水を湛えた泉が姿を現した。トレヴィの泉である。

もともとはローマ時代の水道の末端であった。15世紀に再建計画が持ち上がり完成を見たのが1762年。ポーリ宮の壁面に取り付けた凱旋門と海神ネプチューンとトリトンの彫刻が建築と噴水を一体化し、ローマ一華麗な噴水となっている。後ろ向きにコインを投げると再びローマを訪れることができるという言い伝えのせいか、訪れる人が後を絶たず、いつ来てもにぎやかだ。

ローマを描いた映画には必ずと言っていいほど登場しているが、『甘い生活』でアニタ・エクバーグが水浴びをするシーンや『ローマの休日』でグレゴリー・ペックが女学生にカメラを借りようとして苦労するシーンが思い出される。二人の監督のローマを見る眼の温度差がよく出ていておもしろい。

昼間のトレヴィの泉は、まさにワイラーの描いた通りの観光名所。コインを投げるために、水辺に近づくにも空きを待たなければならない。数年前にも投げたが、再びローマを訪れることがかなったわけで、言い伝えの確かさは証明済みである。妻は二人の子の分といって高額のコインを投げていた。自分の分はともかく子どもの方は無理ではないかと思ったが、言わずにおいた。

トレヴィというのは三叉路を意味するTrivioから来ている。ジェラートを食べることを旅の目的の一つにしていた妻は、泉の東の角にアイスクリーム屋を見つけた。店の奥に入ってまず代金を払い、もらったレシートを手に、ショーケースに並ぶ多くの種類の中からお目当てのものを指定するというシステムらしい。妻はアナナス(パイナップル)味を、私は中田スペシャルというのを選んだ。レモンを利かせた爽やかな味だったが、中田選手がパルマに移籍した今となっては、この味もいつかは幻の味ということになるのだろうか。

 スペイン広場

広場と階段の名称は階段右手のスペイン大使館に因むが、古くは、階段上のトリニタ・ディ・モンティ教会の名をとり、トリニタ広場といった。この教会も教会と下の広場をつなぐため18世紀に作られた階段も、その費用を負担したのはフランスである。そのせいかどうか。この界隈には外国人芸術家が多く居を構えたいわばローマのモンパルナスといった宿屋街であった。

教会前のバルコニーからは逆光の中にローマの街が一望の下に見渡せる。近くのアパートの屋上には『ローマの休日』でグレゴリー・ペックが借りていた部屋そっくりの庭付きの部屋が今もそこかしこに残る。階段の下には「パルカッチャ(廃船)の噴水」が設けられ広場のアクセントになっている。水流が弱いため、沈みかけた船から水がこぼれるデザインを採用したというが、立派な彫像を配した他の噴水には見られない親しみがあり、子どもが水を飲む姿が絵になっていた。

噴水の縁に腰掛け、涼をとっていると、階段の途中に花嫁花婿が現れた。ナポリの王宮でも見かけたが、名所を背に記念写真をとるのがこちらの習慣らしい。長く高い階段と、その上のオベリスクや教会は劇場的空間をうまく演出している。花嫁衣装も映えるというものだ。フラッシュの度に人々の賞賛ともひやかしともとれる囃し声が響き、まわりに祝祭的な気分が漂っていた。

アッピア街道沿いの店で、夕食を済ませた後、ライトアップされたローマを見て回った。再開されたと聞いていたのだが、カラカラ浴場の前に野外オペラを告げる広告はなく、藍色の空に外壁がシルエットになって浮かび上がっていた。サンタンジェロ城に続く橋の下にも残念ながらダンスパーティーの灯りはなくて、静かに眠っているようだった。

 ヴァチカン博物館

まだ朝も早いというのに、ピサーニ通りには、ヴァチカン博物館に急ぐ人の群が集まってきていた。階段を上がると長い城壁に沿って、列が続いていた。この壁がヴァチカン市国の国境線である。幸い列はそれほどでもなく、あまり待たずに入ることができた。まるで空港ロビーのような近代設備の入り口から入り、入国審査と手荷物のチェックを受けた後、ピーニャ(松ぼっくり)の中庭に出た。芝生の中央にある球体は、後ろに見えているサン・ピエトロ大聖堂のドーム最頂部にある球と同じ大きさだというから、ドームの大きさが窺い知れようというもの。

 ピオ・クレメンティーノ美術館

ギリシャ・ローマ時代の古代彫刻の傑作を集めた八角形の間には、ラオコーン像の他にも、ヴェルベデーレのアポロン、トルソなどの写真でなら何度も目にしたことのある有名な作品が展示されていた。

コロッセオに近いネロの黄金宮殿跡からこのラオコーン像が発見されたとき、プリニウスが書いているギリシャ時代の傑作かと大騒ぎになった。その後ローマ時代の模刻と分かったが、その激しい運動感や劇的な感情表現は、ミケランジェロをはじめとするルネッサンス期の彫刻家たちにも大きな影響を与えた。ミケランジェロはまた、システィーナ礼拝堂の『最後の審判』を描く際、ヴェルベデーレのトルソを参考にしてキリスト像を描いたといわれている。

 ラファエロの間

階段を上がって二階へ出た後、タペストリーの回廊、地図の回廊を通って、ラファエロの間に入った。あまりにも有名な『アテネの学堂』が目の前にあった。中央の赤い衣を来て右手で天を指し示しているのが、レオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにしたプラトンである。その隣の青い衣を着て地を指さしているのがアリストテレス。モデルは、ミケランジェロだといわれてきた。天を指しているのはプラトンのイデアリスムを、アリストテレスの方はリアリスムを象徴しているのだという。

他の人物もそれぞれを特徴づける姿態や持ち物で特定することができる。また、それらの人物も同時代の有名な芸術家をモデルにしているといわれている。ルネッサンス期に花開いた感のある芸術家たちを百花斉放のギリシャの哲学者たちになぞらえている点に、ラファエロたちルネッサンス人の自負が見て取れる。一点消失の遠近法を用い安定感のある構図の中に配置された人物群は堂々とした風格を感じさせ、ルネッサンス絵画の完成を見る思いがする。

 システィーナ礼拝堂

前に訪れたときはちょうど修復途中で、『最後の審判』の前には足場が組まれ、その前には絵を印刷した幕がかかっていた。悔しい思いをしたものだったが、今回は双眼鏡を用意し、前回の分まで見てやろうと心に決めていた。この部屋だけは撮影が禁止されていた。無視して撮っている人もいたようだが、いい機会なので自分の目で見ておくことにした。堂内は立錐の余地がないほど見学客で一杯で、壁面に設えられた腰掛けも、空くのを待たなくては座れなかった。

くすみのとれた天井画の色は予想以上に鮮やかで、以前に見た画集の色とは似ても似つかない色合いだった。「天地創造」から始まり、「アダムの創造」「楽園追放」と、お馴染みの旧約聖書の題材が天井中央部を飾っている。その周囲には救世主の到来を告げる預言者や異教の巫女が描かれ、ソロモンやダヴィデなどの人物とともに天井を埋め尽くしている。いかにもルネッサンスらしい開放感に満ちた人体造形に明るさが感じられる。

しかし、ずっと真上を見上げているのは疲れる。首が痛くなってきたので、目を壁画に転じた。南側壁面にはモーゼ伝のフレスコ画があった。絵巻物のように右から左へと目を移していくと、同一画面の中に『出エジプト記』の物語を読むことができる。その中にいかにもボッティチェッリ好みの娘の顔があった。ミデアンの祭司エテロの娘である。『スワンの恋』でプルーストがオデットを語る際言及しているのはこの娘らしい。

『最後の審判』は、天井画を描いた25年後に描かれている。普通なら、晩年に至って、古典的な表現に回帰しそうなものだが、天井画と見比べてみれば分かるように、感情表現はより激しく、人体像はよじれ、渦巻くような構図は不安定でさえある。晩年のミケランジェロの眼には世界はこのように見えていたのだろうか。群像の中に自画像をはめ込むことは、多くの画家が試みているが、殉教した聖バルトロマイが手にする剥がれた皮を自身の自画像にするあたり、ミケランジェロの面目躍如たるものがある。

かつて、その裸体画の氾濫が顰蹙を買い、別の画家によって加筆された腰布も、修復に伴い原画に戻されていた。肉体は地上のものである。聖職者がその身を長衣で隠すのは、肉体を厭い、魂の高さを求めたからである。その聖職者達が集う礼拝堂の祭壇画に乱舞する肉体を描くというのは、随分と思いきったことをしたものだ。最もその中で、ミケランジェロ自身は魂の抜け殻たる皮として描かれているのだからこれ以上の皮肉はあるまい。

 サン・ピエトロ大聖堂

博物館から内部の通路を使って、サン・ピエトロ大聖堂の脇に出た。新たなミレニアムの始まりに際して、世界中から訪れる巡礼者用に新しい水飲み場ができていた。手を洗い、少し口に含んでみた。初めて来た時、フォロ・ロマーノの水も飲んでみたが、何ともなかった。一応ミネラルウォーターを買っているが、ローマの水は飲用に耐えると思う。

教会としては世界一大きいサン・ピエトロだが、もともとはカリグラ、ネロ両帝の競技場に隣接する殉教者ペテロの墓の上に、4世紀、コンスタンティヌス帝がバシリカを建てたことに始まる。その後、改修、再建を繰り返し、現在の形になるまで1世紀半の歳月を重ねている。そのため、ミケランジェロが手がけた巨大なクーポラも現在では、正面入り口からは見えなくなってしまっている。しかし、その下に立つと、窓から降り注ぐ光は、金箔を硝子で閉じこめた黄金とラピスラズリの青のモザイクを美しく輝かせ、大聖堂ならではの荘厳さが感じられる。

 ミケランジェロのピエタ

ミケランジェロ23歳の傑作は正面入り口を入ってすぐ右側にガラス越しに見ることができる。「ピエタ」とは聖母マリアが十字架降下直後のイエスの死を悼む場面を表したものである。安定した三角形構図の中に青年イエスと、乙女の如きマリアの組み合わせは写実的な表現の中に理想美を追求したものとしてみごとではあるにしても、ピエタの意味するところである「哀悼」の表現という点においては、ミケランジェロ未完の遺作「ロンダーニのピエタ」に一歩譲るのではないだろうか。

 サン・ピエトロ広場

聖ペテロの銅像の前には列ができていた。信者達の接吻によって足の部分が磨り減っているのを見て信仰というものの力を見たような気がした。怖ろしい力ではあるにしても畏敬の念は起きない。歴代教皇の遺骸を収めたグロッタ(地下聖堂)にしても、所詮は縁なき衆生。なんだか息が詰まるような気がして外に出た。

オベリスクと二つの噴水を中央に配した大きな広場には真昼の太陽が容赦なく照りつけていた。空気が乾燥しているからだろうか喉が渇く。近くの屋台で水を買った。4000リラ(235円)は高いような気がしたが、よく冷えて氷が浮いていた。妻が「こっちの方が氷が多いわ」といって交換しようとしたら、何か言いながら首を横に振るので、よく見たら完全に凍っていた。「飲めない」と言っていたのだ。

列柱の石段に腰掛けて水を飲んだ。雲一つないローマの空の下、広場を訪れる人波はいつまでも絶えることがない。それらを大きく包むように、大列柱が甃の上に静かな影を落としていた。
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