機械仕掛けの鼓動 3


カカシの顔がゆっくりと近付いてくるのを、イルカは不思議な思いで見守っていた。
(かっこいいなあ…。本来の顔もすんごく綺麗だけど、どんな顔でもこの人はカッコイイよな…)
呑気にそんな事を考えてしまう程、間近に迫ったカカシの顔はイルカに感銘を与えた。それが更に近付いて、ふわりと唇が何かに覆われた。
(ええと…?)
ちゅ…と音を立ててそれはすぐに離れていった。
ぼ〜っとしたまま動けないイルカに、カカシは再び唇を近づけていく。
(これって、キス…?俺、カカシさんにキスされてるのか?でも、どうして…?)
小さく何度か啄んだ後は、まるで貪るような口付けに変わった。カカシの舌がイルカの口腔内を這い回り、 舐め尽くす間もイルカは動けなかった。
「んん…っ、ふ…ぁ…」
ようやく口付けから解放されたイルカは潤んだ目でカカシを見上げる。
カカシはというと、少し困った顔をして「スミマセン」と謝った。
「あー、こんな事するつもりじゃなかったんだけど…。ちょっとタガが外れました」

アンタがあんまり可愛い声で俺を呼ぶから。
うっかり「任務中」だという意識が吹っ飛んだ。はたけカカシともあろう者が。
もっと気を引き締めていかないとね。ま、どんな敵が来たって、俺の相手じゃないけ〜どね。

心の中でこっそり不遜な考えを抱く。
「ま、これでちょっとは夫婦らしくなったかな?今日はあちらでゆっくり休んで下さい。俺はしばらく様子を見てます」
「あ、は、はい…。あの、おやすみなさい…」
「はい、おやすみ」
パタンと襖を閉じて用意された布団にゴロリと横になる。そうしてようやく、先程の出来事を冷静に振り返るだけの余裕が出来た。
(さっきの…舌入ってたよな…)
そう思った瞬間、かああっと全身が一気に熱を持ったかのように熱くなる。うそみたいだ、とイルカは思った。
この旅程もカカシとのこんな芝居じみた道中も、それにさっきのキスも。全部夢だったりして…。でもこの動悸は本物だし、 すごく息苦しくて胸が張り裂けそうなのも夢じゃない。だからカカシさんも本物で…それで…。
あんな風に触れたせいでイルカは自分の気持ちをはっきり自覚してしまった。どう転んでも手の届かない人への叶わない恋。 まさか、天の里への任務にこんなとんでもないおまけがくっついてくるとは。


「参ったなあ…」
それにしてもカカシはどういうつもりでキスなんかしたんだろう?面と向かって聞けないのがもどかしい。だけど謝ったって事は、 きっと成り行きとかそういう事だったのかな。
単に夫婦の芝居が上手くいくように、雰囲気を作ったとか?
だからってキスはしないだろう。しかもあんな…。思い出すたびに赤面してしまうような、あんなキスは。
あれはどう考えてもからかうためにするものじゃない。あれじゃあ、まるで…。
そんなと事をぐるぐる考えているうちに、イルカの意識はいつの間にか眠りに引き込まれていった。


「何か色々考えてたみたいだけど、ようやく眠ったみたいだな」
イルカの気配が変わったのを感じて、カカシも幾分ほっとした。うっかりふらふらと誘われてしまった。
本人にそんな気は全くないのだろうけれども。でもあれは無意識なだけに強烈だった。
「あーんな可愛い顔して可愛い声で名前を呼ばれたら、男として黙ってられないよねえ…」
イルカにしてみれば、自分で呼べといったくせに何を言うと怒られそうな言い種だ。
「あの時もなんて可愛い人なんだろうと思ったけど…」
容姿がとかではなく、イルカの行為そのものが本当に可愛いと思ったのだ。照れながら手に乗せてくれたアメは、 あの後すぐにカカシの口の中に消えた。ほんのり甘酸っぱい味がして、それがあの人のイメージになった。

暗部を止めても結局中々会えずに、半分ヤサグレ掛けていた。仕事はひっきりなしだし、会いたい人には会えないし。 でも里の中を探そうとは思わなかった。何しろ自分は変なところで有名だ。そんな自分が探していると噂でも流れたら、 困ってしまうかも知れない。迷惑は掛けたくなかった。だけども会いたくて、そのジレンマでいい加減ぶち切れそうになって 無理矢理休暇をもぎ取ったのだ。
その休暇の前にと押しつけられた任務で、その本人と会おうとは。
カカシは運命の皮肉をヒシヒシと感じるのだった。
イルカにしてみれば、いつもの受付所での風景のほんの一コマでしかないはずの出会い。 しかしカカシにとっては自らの生き様を変えるにも等しい、運命の出会いだった。もちろんそれまでも、 任務で死ぬなんて思いもしなかったけれど。イルカを知って、更に強く思うことがあった。生きて、必ず生きて里に帰る。 その為に必要なら、徹底的に敵を排除する。
そうやってあの暗闇を生き抜いて、やっとあの人と同じ光の世界に戻ってきた。
だから、今ここでこうしているのが奇蹟に思える。
愛しい愛しいイルカ。ちょっと強引だったけど、敵の目を欺くためってのは本当だし。
だってこんなチャンス滅多にないし思う存分活用しなきゃ。

無理矢理女体変化させちゃったけど、これで大手を振ってイチャイチャ出来る。任務の為って事なら、あの人も渋々でも 言うことを聞いてくれるから。
こんな美味しい任務を割り振ってくれた火影に、カカシは心の中で盛大に感謝した。
そんなカカシの内心を知らずにイルカはすっかり夢の中だった。


さて、そんな翌日。
宿を出ると二人は照り葉に向けて出発した。何事もなければ3日後には着くはずである。距離が相当離れたためか、 カカシの操る影分身も形を保てずに霧散したようだった。もし敵が影分身について行っていれば、騙されたとようやく思い知った事だろう。
照り葉を抜けて隣国に入れば道程の三分の一は過ぎることになる。
まだまだ気は抜けないが、距離が縮まる分イルカの気分も幾分軽くなった。ちらりと横を歩くカカシに視線をやる。
カカシも少しはほっとしているのだろうか?昨夜の事には微塵も触れずに、今朝もいつも通りの柔和な笑顔をイルカに見せてくれていたが…。
「どうかした、イルカ?もしかして疲れたの?」
あまりにもカカシの横顔を見ていたせいか、そんな風にカカシが声を掛けてきた。
「えっ!あ、違…そうじゃなくて…」
「じゃあ、何?」
わかってるくせに…とカカシを睨むと、にやにやとした顔でこちらを見ているカカシと目があった。
ああ、この人楽しんでるなあ…。俺の反応って、そんな面白いかな。
「別に…。その、照り葉で何を調達するのかなあって…ちょっと気になったもんで」
本当は昨夜のこととか、この先のこととか、気になっていたのは別のことだったけれども。
正直にそう言うのは悔しくてはぐらかしてしまった。
「照り葉は忍びにとっては忍具の巧みとしての名が高いけど、一般には飾り細工の村として名が通ってるんですよ。聞いたことない? 豪商の奥方やお嬢さんどころか、一国の姫君にまで望まれる程らしいですよ」
そういえば、同僚の女性教師達が話している中にそんな噂があったような…。
「そこでそれなりの飾り細工をいくつか購入するんですよ。それを持って雲の国に入る。目的は大名家の姫君に対する貢ぎ物、その献上です。 それを隠れ蓑にして天の里に入るって寸法です」
なるほど。それで照り葉なのか。色々と考えているんだな。
「お、私たちが職人になりすますわけですか?」
「いいえ〜。仕事について聞かれても答えられないとまずいでショ。だから俺たちは単なる商売人ということにします。 手に入れた細工をより高く買ってくれる相手を探している、というね」
コクリとイルカは肯くことで同意を示した。

そうして何とか二人は照り葉に着いた。イルカは照り葉に来るのは初めてだったので、それはもうあちこちを嬉しげに見て回っていた。 カカシはというと、逆に何度も足を運んだ過去がある。しかしそれらの全ては忍具の買い付けだったから、 こんな風に照り葉の他の店をゆっくり見て回るのはやはり初めてのことだった。
二人はお上りさんよろしく、はしゃぎながら全ての店を熱心に見て回った。イルカが楽しければカカシも嬉しい。
そんな二人は、まぎれもなく仲の大変宜しい夫婦にしか見えず、追っ手が居ても恐らくは気づかれずにいたに違いない。
照り葉に買い物に来ている一般の人々ですら、そのほほえましさに微笑したくらいだ。
「うわあ、これすっごい綺麗ですね〜。カカシさん、ほら、見て下さいよ!この細工!!すごい細かくて丁寧です」
「奥さん、いい目してるね!この細工はうちの店でも人気のある奴なんだよ」
「お、奥さん…」
店の売り子に「奥さん」と呼ばれて、自分の立場をうっかり忘れていた事を思い出した。と同時に今の自分とカカシが、 どんな風に見えるかも意識して、かあっと頬を染めた。
「ふうん、確かにいいねえ。ね、これよりもう少し大きくて、細工が豪華なのはない?あったら貰うよ」
「気前がいいね、旦那さん!じゃあ、これなんかどうだい?ここまでしっかり細部にまで手が入ってるのは滅多にないよ!」
「うん、いいね。じゃあこれをひとつ貰おうか」
「毎度ありっ!!」
そんな遣り取りをぼうっと赤い顔をして見守っていたイルカだったが、支払金額を聞いて目が飛び出した。
「え、え、ちょっと…、カカシさんっ!」
「いいから黙ってなさいよ」
そのイルカにとっては脅威とも言える代金を平然と支払って、カカシは店を出た。イルカも慌ててそれに倣う。
「待って下さい、カカシさん!なんですか、あのばかげた代金は!そりゃあすごい綺麗な細工でしたけど、あの値段は嘘でしょう?」
「何言ってんです。あの大きさであの細工なら、あんなもんでショ。どっちかというと良心的ですよ。 照り葉はこの手のことでは一流と言われてるんだから、あれの倍したってここの細工だって言うなら買う人はいますよ」
平然と言ってのけるカカシに、イルカは住む世界の違いをひしひしと感じたのだった。
それにしても、世の中には金の有り余っている人間が沢山いるんだな。照り葉のイルカの印象はそれに尽きた。
そうやって他の店でも似たような遣り取りをして、カカシは趣向を凝らした贅沢な飾り細工を何点も仕入れた。 その度にイルカの目玉は何度も飛び出しかけたが、最後の方になるとそれにも慣れたようで、素直に細工の美しさに目を奪われていた。

照り葉に宿泊施設はない。
それ故に遠方から買い物に来た人々を目当てに、照り葉のすぐ側に宿場町が開かれた。
とは言えあくまで質実剛健な照り葉の職人達に配慮して、その宿場町は良心的で質の良い店が多かった。
宿にしても同様である。イルカたちが泊まった宿も、真新しく綺麗で宿の者もみな親切だった。
食事付きでこのお値段なら破格といえるだろう。ゆっくりと風呂に浸かって疲れを落とした後、カカシはイルカを呼んで昼間手に入れた飾り細工を並べて見せた。
「改めて並べると豪華ですね〜」
「まあね。とにかく作者らや特徴やらを覚えて下さい。アンタなら簡単でショ」
「はあ、まあ…。でもどうして?」
「商売人である俺たちが商品の説明を出来なかったら大変でしょう?作ったのは別の人間でも、仕事の一環として自分が扱う物を知っておく必要があるんですよ。これは照り葉の職人たちから説明して貰った物の覚え書きです」
そう言ってカカシは何枚かのメモをイルカに渡した。
なるほど一理ある。
「俺も覚えますけど、アンタの方が確実だしね」
「わかりました。じゃあ、ちょっとすみません…」
メモを受け取るとそれをぶつぶつと口の中で読み始めた。
『記録者』が物を覚える様というのを見るのはカカシも初めてだ。どんな風に覚えるのだろうと興味深げに眺めていると、ふっとイルカが顔を上げた。
「有り難うございました。これ、お返ししますね」
「……まさか、もう覚えちゃったの?」
呆然とするカカシににっこり笑いながら、だって情報量としては凄く少ないですから、と応えた。
なるほど、術の開発に最初から立ち会いそれらの逐一を覚えている者にしてみれば、メモ書きの4,5枚を覚えるくらいわけないのも当然だ。カカシは改めて『記録者』と呼ばれる者の、類い希な能力に感心するのだった。

暗部なんかに籍を置いて、人を殺すだけの俺とはすごい違いだよねえ…。
そんな自分がイルカの隣に相応しくないのは、分っているのだけれども。
それでも一緒にいればいるだけ、この人を好きになる。諦めるなんて出来ないくらいに。
「明日になれば隣国に入ります。大丈夫だとは思うけど、十分注意して下さいね。ま、何かあっても俺がアンタを守りますけど」
「わかりました。宜しくお願いしますね」
にこりと笑いかけるイルカにカカシは役得とばかりにキスをした。





「イルカ。イールカ!もうそろそろ休まない?朝からずっと歩きづめで疲れたでショ?」
「………」
「イルカ。イルカさ〜ん」
後ろから話しかけるカカシに見向きもせずに、イルカは峠の山道を歩き続けた。
実際には女ではないし、しかも忍びなのだから当然なのだが、見た目はただの小柄な女にしか見えない現在。
大の男を置いていく勢いで歩き続ける女と、その後を情けなさそうに追いかける男の二人連れは妙に目立った。
「あ、ほら。丁度良いところに茶屋があるし。ね?」
前を行くイルカの腕をカカシが捕らえる。じろりと睨め付けながらもイルカはカカシの提案を受け入れた。
「お姉さん、お茶と団子二人分ね」
さっさと注文を済ませてカカシはイルカの機嫌を直すことに専念した。
「ええと。まだ怒ってる?ごめんね?ちょっといい気になりすぎました」
ちょっと可哀相なくらいカカシは消沈していた。

昨日の夜のことだ。疲れを落として、照り葉で買い付けた商品についての知識を付けて。翌日の注意を受けたところでカカシにキスをされたのは。
そんな雰囲気は微塵もなかったので、余りにも突然で驚いて逃げるように布団に入ってしまった。
あの後カカシは何を思っただろう?ちょっとした冗談なのに、とイルカの行動を呆れただろうか?だけど本当に驚いたのだ。そうして、どうして良いのか分らなくなって逃げてしまった。
今もどうして良いのかわからないままだ。イルカにとって、カカシの真意は闇の中なのだから。


イルカは朝から口を利いてくれない。こんな事なら悪戯心を出してイルカにキスなんかするんじゃなかった。夫婦の真似事をしているとは言っても、任務にかこつけて自分が勝手に言い出した事だ。
確かに必要な策だったけれどもイルカには拒否権はないのだから、それがどんなに理不尽でもイルカは従わざるをえない。
笑ってくれていたから、最初はそこまで嫌だとは思ってなかったとしても…今はどうだろうか?

そんな風に自己嫌悪に陥っているカカシを横目で見ながら、イルカはまた全然別の事を考えていた。

カカシは一体何を考えているんだろう。自分のことをどう思っているのだろうか?
そりゃあ前にもキスはされたけど。あれは、なんていうか任務の一環みたいなものだったし…。
ちゃんと夫婦としての心構えの出来てない俺に、カカシさんが気を遣ってくれただけ。
任務に必要だったからしてくれただけ…。そこまで考えてイルカは胸にぽっかりと穴が空いたような寂寥感を覚えた。
こんなのは変だ。カカシさんに悪い。でも…。
昨夜のは違う。あれはただ単なる悪戯だ。面白そうだからしてみた、そんな感じだろう。
ひどく悲しい。心がないキスはとても辛い。

「怒って、ないです…。そうじゃなくて…」
「え?」
ただ辛かっただけなのだ。言葉が出ないくらい。
そしてこんな自分と対照的な、いつもと変わらないカカシが。