綺羅星  [4]


 時計の針は一向に進まない。
 カカシは仕方なしに、冷蔵庫からビールを取り出した。 それにしても、と思う。
 さっきの男は確か、遠征に行っていたうちの一人ではなかったか。それがイルカとどういう関係なのかは、わざわざ聞くまでもなかった。
 恐らくは昔の恋人で…。理由はわからないが、とにかく一度別れた男だろう。
 ふとあの男の手が、イルカの肌を這い回る様を思い出し不愉快な気分になる。一応抵抗らしいものはしていたが、それにしたって不愉快には違いない。自分のことをあんな視線で見る男が、他の誰かにそういう意味で触れるのを許すなんて。
 そこまで考えて、カカシは小さく頭を振る。これじゃまるで、嫉妬してるみたいだ。違うだろう、そんなはずはない。だってイルカはただの、遊び相手みたいなもんだろう。

 イルカだって、どうせ「はたけカカシ」というブランドに目が眩んでいるだけ。中身が空っぽの、こんな自分を見たらきっと態度を変えるだろう。
 今まで誰にどんな称賛を浴びようと、カカシがそれを喜んだことは一度もなかった。

 だって何を誇れと言うのか?
 敵の命を奪う術に長けていることをか?
 抜け目なく立ち回って、生き延びる力をか?
 何の苦労もなく得られる数々の技をか?

 大切な人を守る力だと火影は言ったが、肝心なときには、何の役にも立たなかった。家族同然だった恩師を奪われ、心を許した数少ない友までも失ったとき、カカシは全てを諦めた。そうして、大事な物を何一つ持たずに、ここまで来た。
 空っぽの自分だけが残る。
 何人もの女と、男とも、関係は持ったが、どの人間もカカシに興味の欠片すら与えてくれなかった。ばからしくて、でも人肌は恋しくて。

 そんなある時、突き刺すような視線を背中に感じた。

 振り返ると、すっとその視線は消えた。周りを見渡しても、それらしい人物はいない。その時は何事もなかったように、その事を忘れた。見られる事には慣れている。
 けれどもその後も、受付であの強烈な視線を感じた。
 欲望と言うより渇望を思わせるような、その視線。
 けれどもいつもそれは、背中に感じる視線だった。振り返るとすうっと掻き消える。
 面白いと、いつからか思うようになった。一体どんな人間なのやら。あの掻きむしるような強い想い…、あれは女じゃない。男に違いなかった。
 期待はしない。どうせそれは裏切られる。
 はたけカカシという「名前」を持つ男が欲しいなら、それ相応の見返りを貰わなくては。
 そうやって少しずつ、カカシは男の正体を探っていく。
 アカデミーでも何度か視線を感じた。相変わらず背中にだけ。あんなあからさまな視線を寄越しておいて、それ以外何のアクションもないのが意外だったが。

 まあいいヨ。
 アンタが見てるだけでいいって言うんなら、それはそれでいい。いつか負債は取り立てるけどね。

 そうやって見つけ出したのは、何とも平凡そうな、忍びらしくない男だった。
 口に出して誘ったのは自分から。

 でもアンタはずっと、無言で俺を誘ってたよね?
 


 遅くなりましたと断りながら、イルカがカカシの家にやって来たのは、あれから三時間ほどが経過した昼過ぎだった。
「申し訳ありません。引継ぎ相手が、少し遅れてきたので、ごたごたしてて…」
 いかにも恐縮しきった様子で、まずそう謝られた。
 本当にわかってんのかね、この人…。最初の時と同じ言葉が、カカシの頭を掠める。
「いいよ、アンタが仕事だってのは分ってたから。たださ…」
「は、はい…」
「………」
「あの?」
「や、何でもない。そういえば、アンタ昼飯は?食べずに飛んできたの?」
 言われてイルカは、まだだった事を思い出す。カカシから呼び出された事で、頭がいっぱいですっかり忘れていた。思い出したとたん腹が鳴った。
「ぷっ!くくく…」
 かみ殺したような笑い声が、カカシがからこぼれる。
 こんな風に笑う人だったんだと、イルカは不思議な気がした。だって何しろ、世間でのカカシのイメージと言えば、冷静・冷酷など、およそ人としての温かみに欠ける物が多かったから。
 けれどもその後のカカシの言葉は、イルカには不思議な、なんて程度の範疇を超えていた。
「じゃあまず腹ごしらえしようか。この家には何にもないから、外食になるけど」

 外食と仰いましたか、はたけ上忍?
 …と、そう聞き直したかった。あの写輪眼のカカシが、事もあろうに自分なんかと? 

 それはまずいと、心の奥で声がする。
 カカシと食事をするというのは、まさに夢のような出来事に違いないが。カカシが自分なんかと共に居るのを、誰かに見られたりしたら…。
「でも、はたけ上忍。私なんかと一緒にいるのを、誰かに見られるのは…」
 まずいでしょう、とは言わせて貰えなかった。
「俺がいいって言ってんの。別に誰に見られようが、どんな噂立てられようが、一向に構わな〜いよ」
 今更ね、とカカシは笑った。
 あまり笑わないカカシの笑顔を前に、イルカは硬直した。普段のシニカルな笑いや、バカにしたような冷笑ではない、本当にふわっとこぼれ落ちた笑顔だったから。

 …う、うわっ!すっごい綺麗…っ!!
 こんな笑顔は、きっともう一生拝めないだろうなあ。 
「ほら、さっさと支度して」
 間近で見たカカシの笑顔に感動している間に、当の本人はさっさと行動に移していた。
 昼間っからあの写輪眼のカカシと連れ立って歩いていると、さすがに注目を浴びるだろうと覚悟していたが、街中では誰もが自分の事に忙しいらしく、それ程あかららまな好奇の目は襲ってこなかった。
 そもそも里の人間は、忍びでない一般人も大勢いるのだ。その中で、カカシをカカシと知らない人間の方が多いというのも、イルカには驚きだった。

 …まあ確かに、カカシさんが有名なのは、ビンゴブックに載るほどの忍びだからであって、そのビンゴブック自体一般人には関係のない物だし…。

 そう自分を納得させて、イルカはカカシの後を着いていった。


 食事を終えての帰り道。
「ねえ、アンタ。なんで後ろを歩くの?」
 ふいにカカシが振り向いて言った。
「えっ…!あ、あの…だって、オ…私は中忍ですし…」
「関係ないでショ。アンナコトやった仲なのに?」
 とんでもないっ!
 カカシの言葉に真っ赤になりながら、必死で遠慮する。
 思い上がっった態度を取って、カカシに嫌われるのは嫌だった。もちろん好かれているなんて思っていない。
 でも、少なくとも今はカカシが隣を歩いている。何とも思われてなくても、嫌われている訳ではないだろう。
 このままもう少しだけ、カカシと同じ時間を共有したい。宝石のようなこの時間を、奪われたくなかった。
「ま、いいけどね…」
 ぼそりと呟くと、カカシは興味を無くしたように、それ以後イルカに声を掛けなかった。

 あれ…?
 カカシの態度が妙に気になった。
 別に、特にどうと言う程ではないのだけれども…。
 もしかして、すごく気に掛けてくれたとか?
 冗談めかして言っていたけど、本当に隣を歩くことを許してくれたのだろうか…。
 カカシと親しく口を利いたのは、今日が二日目だから思い違いと言うこともある。前の時はそれどころじゃなかったし…。でも今日は、カカシのいろんな面を見れたと思う。その印象からは、噂されているようなカカシの姿は見えなかった。
 世間で言われているのは、本当のカカシではないのかも知れない。
 創られた虚像。
 そんな言葉が頭に浮ぶ。
 何故かそれが真実だと思えた。
 だって自分もそうだから。決して本当の自分を見せない。昔のトラウマから、臆病になったのは本当。いつだって自分を心から愛してくれて、必要としてくれる誰かをずっと待っていた。
 隠していた弱さとか醜さとか、そんなのを全部知っても、好きだと言ってくれる人が欲しかったのだ。

 知りたいと思う。
 おこがましいのは十分承知しているが。
 ヒイラギから助けて貰って、カカシのいろんな面をみて、もうその想いを誤魔化し切れないところまで来ている。
 イルカはそうっと一歩を踏み出した。

 まだ外は明るかったが、家に着くとカカシは性急にイルカを求めた。
 帰り道でのイルカの行動に、何かしら思うところがあったようだった。

 ほんの少し歩幅を大きくして、カカシに追いついた。
 そうしておずおずと横に並ぶ。カカシはちょっと驚いた目でイルカを見たが、ふいっと顔を背けた。
 やはり図々しかったろうか、とイルカは不安になったがカカシから感じる気配は、決して怒っている風ではない。とりあえず一安心と、肩の力を抜いた。
 結局カカシの家に着くまで、無言のままだった。けれど、その沈黙はとても心地良かった。
 感じられる気配が柔らかいせいだろうか。

 そして、今に至る。
 アンダーは、玄関から続く廊下だの他の部屋だのに分散している。カカシの唇を受けながら、後で片付けるときにきっと気恥ずかしいだろうなと頭の片隅で思う。
 けれどそんな考えは、押し寄せる熱い波に飲みこまれていった。カカシの息遣いを間近に感じながら…。

 何度も何度も揺すぶられて熱を注がれ、絶頂に追いやられて、疲れ果てて眠りに落ちた。意識が途切れる直前に、カカシが何か言った気がした。聞き返そうとして、声が出ないことに気付く。
 ああ、嗄らしたかな…と思ったのが最後だった。


 綺麗に晴れ渡った空には、雲ひとつ無い。
 職員室の窓からその澄み切った青空を眺めては、イルカは溜息を零していた。
「イルカ、お前いい加減にしろよ〜〜」
 隣から恨みがましい声が聞こえて、我に返る。
「え?何?」
「何じゃないだろーがっ!朝から何回溜息吐けば、気が済むんだお前はっ!」
「え…俺そんなに溜息吐いてたか?」
「気付いてねえのかよ…」
 うんざりと言った風に伊吹が呟く。ちっとも気付かなかった。自分の事は、とかく見えにくい。朝から何度も辛気くさく溜息を吐かれては、文句のひとつくらい言いたくなるというものだ。
「悪かった!たいした事じゃないんだ、気を付けるよ」
 イルカにとっては、たいした事でも相手には所詮他人事である。悪かったと思い、素直に謝った。
「いいけどな。お前が元気ないと、子供達も心配するからなあ。気ぃつけろよイルカ先生」
「あ、うん。そうだな…」
 アカデミーではまず、子供達を一番に考えてやらなければ…。そう思い直すものの、やはりカカシが頭のどこかに常に居続けた。

 あの日からカカシの姿を見ない。
 最初は任務でまた里外に出ているのかと思ったが、そうではないのがわかった。だったらいずれ受付で会えるだろう。話せなくても、姿くらいは見たい。
 けれども一向に、カカシの姿を見つけることは出来なかった。

 …避けられているのか?

 いくら鈍いイルカでも、何日も顔すら見ない状態が続けば、そう考えるのが普通だ。カカシだって上忍としての任務には就いている。当然受付を通して任務を選ぶし、報告書もここに提出するはずだ。
 厚かましすぎただろうか。調子に乗りすぎたんだろうか?カカシと共にいられる時間が嬉しくて、気付かないうちにカカシの気に障ったのかも知れない。
「どっちにしろ、カカシさんの気まぐれにすぎなかったのは、わかってたけど…」
 要らない子供だったイルカを、本気で欲しがるはずがないんだ。仮にも、写輪眼のカカシと言われた程の人が。
 諦めるのは慣れている。昔っから…。
 本来なら手の届かないはずの人だったんだ、良かったじゃないか。ほんの一時でも傍にいられたのだから。
「やっと一歩を踏み出せたと思ったのにな…。所詮こうなる運命だったって事だ。手に入る物と入らない物があるのは、世の中の常識なんだから…」
 カカシと共に歩いた道を思い出す。
 あの時確かに、カカシは自分が隣を歩くのを許してくれていた。
「ひとつ願いが叶えば、人間は更にどん欲になるって本当だな…」
 言葉を交わした。顔を覚えて貰って、名前を覚えて貰って、夢のようだがカカシに触れる事も許された。一緒に食事もしたし、笑顔すら拝ませて貰ったのだ。
 これ以上何を望むのか。
 そんな資格など、どこにもない。
 でも。想う事だけは自由だ。想いだけは、昔から変わらずイルカ自身のものだった。

 初めてあの人を見たときから、ちゃんと知っていた。 自分はあの人に惹かれていく。
 きっと恋をするだろう。
 今までと違い、初めて自分から欲しいと思った人だから。
 あの、他人を拒絶した瞳を、ずっと癒やしたかったのだ。いつも、ここじゃない何処かを見つめる瞳。本当は優しい人なのに、それすらも拒絶して。
 本来交わるはずのない二人が出会った事に、意味はあるのだろうか? 


 あまり建設的とも言えない悩みを抱えながら、イルカはアカデミーを出た。今日は家で、抜き打ちテストの答え合わせをやらなくては。
 悩み事を抱えていようが、容赦なく一日は過ぎていく。「ねえ、ちょっと待って。あなたがイルカ先生?」
 正門を出て、ふいに掛けられた声にどきりとする。
 カカシが最初に声を掛けてきたのも、こんな風だった。
「は、はい、そうですが。あの…あなたは…」
 見た事のあるくの一だ。以前カカシさんと話しているのを見かけた事がある。
「夕日紅よ。よろしくイルカ先生」
 名前を聞いて、ああと思い出す。
「こちらこそ宜しくお願いします。それで、何かご用でしょうか?夕日上忍」
 生真面目な受け答えにくすりと笑いを滲ませて、紅でいいわ、とくの一は言った。
「ちょっとね、イルカ先生とお話がしたいと思って。迷惑でなければ、これから付き合ってくれない?」
 上忍の誘いを断れる中忍など存在しないだろう。もちろんイルカとてそうなのだが。手には家で採点するはずのテストの入った鞄がある。
 カカシとの接点のある人が、一体自分に何の話があるんだろう?
「長く掛かりますか?」
 中忍ごときが、上忍に対して言うセリフじゃないが、この際不遜なのは目を瞑って貰いたい。
「そうね、あなたの返答次第なんだけど…。私回りくどいのは嫌いだから、単刀直入に聞くしそこまで時間は取らないかも」
 イルカは小さく肯いて「ご一緒します」と返事した。

 紅がイルカを連れて入ったのは、美味いと評判の甘味処だった。
 …なんだかイメージ違うなあ。
 紅だって女性なんだから、甘い物が好きで何の不思議もないのに。
 紅はさっさと注文を済ませると、イルカに向き直った。
「さてと。こんなところまで引っ張って来ちゃって、ごめんなさいね。それで、さっきも言ったようにズバリ聞くけど。イルカ先生はカカシの奴と付き合っているの?」
 恐らくはカカシの話だろうと、ある程度の心構えはしていたつもりだが、これはあまりにストレートだとイルカは苦笑した。
「いいえ、とんでもない。付き合ってなんかいませんよ…」
 嘘は吐いていない。
 本当のことでもないけれど。
 紅は探るような目つきでイルカを見る。
「じゃあ、どういう関係なわけ?」
 イルカは答えに詰まる。それを自分の口から説明するのは、出来れば勘弁して貰いたい。
「それは…失礼ですが、紅上忍に言うような事ではないと思われますが…」
「ああ、うん。そうね。でも聞きたいわ。実はカカシが最近ちょっと変なのよね。それで…」
「…え?カカシさんが変って…」
「他のヤツラにはわからないと思うけどね。何て言うか随分と雰囲気が柔らかくなって、妙に仕事熱心になったわね」
「……それの、どこが変だと?」
 普通じゃないだろうか、それって。
「イルカ先生だってカカシの噂くらい知ってるでしょう?あいつはね、ずっと自分を許さないで生きてきたから、あんな風に笑う奴じゃなかったのよ」
「自分を許さないで…?」
「そこら辺はプライベートに関わるから、直接カカシに聞いて頂戴。それであいつが変わった理由が、いまいち掴めなかったんだけど、このまえね…」
 カカシとお昼を食べに行った帰り道の二人を、紅の友人が見かけたそうだ。その時のカカシが、彼らの知るカカシとは随分違う雰囲気を纏っていたので、気になっていたらしい。
 …見られていたのか。
 思わず赤面する。
「一緒にいた中忍ってイルカ先生よね?そこで聞きたいわけ。あの後もしかして、カカシの家に行ったかしら?」
 見られていた以上誤魔化しても意味がない。
「はい、行きました。でもはたけ上忍とは、そういう意味での交渉を二度ほど持っただけです」
 紅は満足げに肯いた。
「知ってる?イルカ先生。カカシはね、今まで付き合った誰も、自分の家に連れて行ったことないのよ」
「えっ?」
 一瞬何を言われたのか、わからなかった。
「それだけでも充分、イルカ先生はあいつの特別だわ」
 家に…?誰も?じゃあ、どうして俺は…?
「イルカ先生、カカシの事よろしくね。私たちはあいつに、もっと人間らしく生きて欲しいのよ」
 その言葉には、イルカの知らない昔のカカシを知る者の、深い哀切が滲んでいた。
 イルカはそんな紅に、ほんの少し嫉妬する。
「紅上忍は、はたけ上忍がとてもお好きなんですね」
 紅は大きく目を見開いて、あははと笑う。
「まあね、好きか嫌いかと聞かれたら、もちろん好きよ。
いい奴かどうかは、意見の分かれるところだけど。でもどっちかというと、放っておけないって気持ちのが強いかしらね。一応昔馴染みだし?」
「俺はあの人の、絶望を映したような瞳がとても気になってました。初めて会った時からずっと…。気になったから見ていた。見ていたら、どんどん好きになった。あんな人が俺を欲してくれたらと、夢見るようになった」
 初めて会った時の事を思い出すように、伏し目がちにポツリポツリと語る。
 紅は黙って、イルカの話を聞いてくれた。

 紅と別れた後、イルカは余程カカシの家に行こうかと思った。けれど、やらなければいけない仕事が残っていて、それに避けられている今尋ねていっても、きっと入れてはくれないだろうと断念した。

 きっとそう遠くないうちに、向こうから会いに来る。
 紅の言うとおり、自分がカカシの特別であるならば。