綺羅星  [3]


 翌日にはカカシは里を出て任務先に赴いた。会わずに済んだことに、イルカはほっと胸を撫下ろした。 あの行為が愛情からの物だなんて、イルカは思っていない。単なる好奇心ですらないかもしれない。
 だから自分の心を傷つけないように、準備をしたかったのだ。再びカカシと会った時、何もなかったような行動を取るであろうカカシに 対して。
 はあ…とひとつ深く息を吐いて、イルカは受付所に向かった。
 あれからすでに十日。
 もうすぐカカシが帰ってくる。待ち遠しいような、その日が来て欲しくないような、複雑な心境だった。
 受付所はいつもより幾分ざわついていた。ガラリと戸を開けると、何人かの上忍が目に飛び込んできた。
「あれ…?」
「よお、イルカ。遅かったな」
「どうしたんだ、これ?何かあったっけ、こんなに上忍やら特別上忍がいるなんて…」
 入口から離れたところに、一段と大きな集団がある。「ほら、彩の国に派遣されてた援護部隊あったろ?あの人達が無事ご帰還ってね」
「ああ、あの…!そうか、帰ってきたんだ…」


 彩の国は二つの大国に挟まれた小国だ。けれどもそのどちらの国も及ばない程の地下資源を有していた。それゆえ両大国は言うまでもなく、 その他の国も虎視眈々とその資源を手にするべく狙いを定めていた。
 戦端が切って落とされたのは、三年ほど前だったろうか。何とか抵抗を試みたものの、やはり大国と小国の差は歴然としていた。 それでもここまで持ちこたえたのは、その有り余る地下資源に因るところが大きかった。 彩の国から援護部隊の要請が木の葉にもたらされたのは、その頃だった。
「二年くらいだっけ、派遣されてたの。よく帰って来れたよなあ…」
 相当激しい戦闘もあったと聞く。
「おいおい、言葉に気を付けろよタツミ。相手は上忍様だぜ」
「顔つきが違ってるからな。歴戦の勇者も相当きつかったらしい」
 同僚達が囁き合う。
 それで上忍や特別上忍が多いのか、とイルカは納得した。派遣されていたのは、上忍が中心になったメンバーだった。 その帰還を知って駆けつけたと言うところか。
 大切な人を失う辛さをイルカはよく知っていたから、派遣部隊の誰も命を落とすことなく帰還出来た事を、心から喜んだ。

「イルカ…?」
 席に着こうと踵を返したところで、誰かががイルカの名前を呼んだ。記憶は薄れていても、身体はその声の響きを覚えていた。
「ああ、やっぱりイルカじゃねぇか」
 帰還した忍びらしく、薄汚れた服を纏っている。相変わらず体格はいいが、任務の厳しさからか記憶より少し痩せたようだった。 イルカは震える声で男の名前を口にした。
「ヒイラギ上忍…」
 ざわざわとした部屋の音が一瞬消えた気がした。まさかこんなところで、再会が待っていようとは。
 何も言えずに顔色を失ったイルカに、男は親しげに近付いていく。
「久し振りだなあ、ここで何やってんだよ?え?」
 気さくに話しかける上忍に、イルカの同僚も驚いた目でイルカを見た。こんな風に話しかけられたら、逃げることも出来ない。
「ご、ご無沙汰しておりますヒイラギ上忍。任務からの無事のご帰還、お喜び申し上げます」
 失礼に当たらないように、控えめにけれども丁寧に挨拶をする。それに応えて男は懐かしそうに目を細める。
「ああ、そういやお前教師になりたいとか言ってたっけ。それで受付兼任って事か。ま、夢が叶ったって訳だ…」
 一言二言言葉を交わしてから、男はイルカにだけ聞こえるように囁いた。
「近いうちに世話になるかもしれねぇから、宜しくな」


 ヒイラギとの出会いは、五年前のとある任務先。その頃ヒイラギは特別上忍で、イルカは中忍に成り立てだった。 良くある話で、要するに上司の欲求不満の解消に使われたのだ。まだ子供だったイルカはその時に、無理矢理身体を繋ぐ事を覚えさせられた。
 任務が終わっても、ヒイラギはイルカを手放そうとはせずに手元に置いた。どんな気まぐれだか知らないが、 そのまま身体の関係を続けたのだ。他人の感情に聡いヒイラギは、イルカが愛情に飢えていることをわかっていた。 言葉巧みに愛をほのめかして、イルカを縛り続けた。

 あまり愉快な記憶じゃない。
 もう忘れたと思っていたのに、今頃になって夢の残骸のように現れるとは。夢は夢でも、悪夢の類だろう。 イルカは他人に気付かれないように顔を歪ませる。
 それでも最初に、誰かに必要とされる喜びをイルカに与えたのは確かにあの男だった。
「イルカお前、あの上忍と知り合いなのか?」
 好奇心も顕わな同僚の瞳に苦笑する。上忍と中忍が親しげな口を利いているのは、やはり木の葉でも珍しいのだ。
「ああ、ちょっと…。以前任務で一緒させて貰った事があってな…」
 気を付けなければ。まさか里内で、人目を引くような強引な真似はしないだろうが。

 その日は何事もなく過ぎていった。翌日はずっとアカデミーでの仕事があったし、受付のシフトには入っていなかった。
 長期の遠征からの帰還者達には、それなりの休暇が与えられているはずである。わざわざその休暇を潰してまで、 イルカにちょっかいを掛けに来るつもりはないのかもしれない。それならそれで有り難い。三日目は朝からのシフトで、イルカは受付にいた。
「あっと、いけない。これ渡すの忘れてた!」
 見ると、任務依頼書に添えられた簡単な資料らしい。
「下忍用のDランクか…。さっきのシヅキ上忍だろう?俺渡してくるよ」
「悪い、イルカ!」
 朝の受付は結構忙しい。大半は下忍を担当する上忍師への任務配布だ。上忍ともなれば任務も自分で選べるが、 下忍の間は受付で適当に振り分けられた任務をこなすのが一般的だった。
「シヅキ上忍!申し訳ありません、これっ…」
 上忍を呼び止めて、渡し損ねた添付書類を差し出す。
「大変失礼を致しました」
「ああ、いいよいいよそんなに恐縮しなくても。子供達を鍛えるのが目的だからね」
 アカデミー教師であるイルカは、上忍師とは多少の面識がある。自分のかつての教え子達の、現上司であるから当然だ。 シヅキとももちろん既知である。人当たりの良い話やすい女性で、教師として信頼に足る人物だと思っていた。
「子供達、頑張ってるよイルカ先生。今度会ったら褒めてやってよ」
「はい!もちろんです!これからもアイツラの事宜しくお願いしますね!」
 では失礼します、と挨拶を交わしてイルカは受付所に向かった。校舎の影から手が伸びてイルカを捕らえたのは、 シヅキが完全に見えなくなった直後だった。
「うわっ…!」
 イルカが身動きが取れないように、背後から抱き寄せる。油断していたせいで、あっさり捕まってしまった。
 気配を殺していたせいもある。相手は上忍だ。中忍程度を誤魔化すくらい、なんとでもなる。
「…っ、ヒイラギ上忍…」
 男は唇を歪めて、かつてと同じように笑った。
「本当に久し振りだな。もうあれから三年か…」
「放して頂けませんか、ヒイラギ上忍。私はまだ仕事中なんです」
 努めて冷静にイルカは対応する。
「なんだよ、他人行儀な喋り方するんじゃねぇよ。昔散々可愛がってやったろうが」
 カッと頭に血が上る。それは本当の事だけれど、今更な話だった。
「…そう、昔の話ですよ。そんな事を蒸し返されても困ります」
「まあそう怒るなよ。お前いま付き合ってる奴いないんだって?どうだ、また俺と寄りを戻さねぇか?やっぱり俺にはお前しかいねぇんだよ…」
 かつてイルカが逆らえなかった声が、とんでもない事を言い出す。
「はあ?何を仰ってるんですか!とんでもない、お断りですっ!放して下さい!」
 拘束を解こうとして、イルカは男の腕の中で暴れた。
 男はイルカが求められることに弱い事を知っている。
 だから、ほんの少しイルカの心を擽るような言葉を囁いてやれば、再びこの手の戻ると高をくくっていたのだ。
 それでもカカシとのあの一夜がなければ、イルカは男の思惑に屈したかもしれなかった。ただ見ているだけの存在は、 自分を痛めつけはしないけれど、決して暖めもしない。
 カカシと触れ合うことで、本人も気付かない程度の心境の変化が訪れていた。
「なんだとっ!人が下出にでりゃ、いい気になりやがってっ!何様のつもりだよイルカ!お前は黙って脚を広げてりゃいいんだよっ!」
 ガツンと耳の傍で音がした。
 ああ、殴られたんだと思ったとたん、痛みが走った。
 倒れそうになる身体を上手く支えて、ヒイラギは強引にイルカに口付けた。
「……っ、んぅ…!」
 角度を変えてしつこく吸われる。息苦しくて、呼吸のために僅かに開いた唇に、ぐいっと舌を差し入れられた。

 ………いやだっ!

 流れる唾液に注意すら払わず、イルカはヒイラギを押しやろうと力を込める。しかし相手は上忍、そうそう思い通りには行かず、 さらに深く口付けられる。いつの間にやらベストのジッパーが下げられて、男の手がアンダーの下に滑り込む。
「………っ!!」
「相変わらず、触り心地のいい肌だな」
「はなし…っ!いやだ、止めて下さい!こんなところでっ!やめ…っ!」
 胸を撫でる男の手のひらが気持ち悪い。
「あれ以来だが、そんなに残るような酷い傷は増えてねえな。まあ、アカデミーで子供相手にぬくぬくやってりゃ、当然か」
 気持ち悪い…っ!
「カ…さ…、ぃやっ、カカ…シさ…」
 この里にいない上忍の名前を呼んだって、どうしようもない事はわかっているけど。
「カカシ…?まさか、あの写輪眼のカカシのことか?」
「……っ!」
 カカシを呼んだ声に、ヒイラギが反応を返す。ビクリとイルカの身体が震えた。
「お前…カカシと関係があるのか?」
「違います…、そんなんじゃ…」
 どんなに口で否定しても、イルカの態度がそれを肯定していた。
 関係なんて、たった一度だけ肌を合わせただけなのに。
「へえ?それじゃあこのままお前とヤりゃあ、写輪眼に一泡吹かせられるかな」
 俯き加減だったイルカが、慌ててヒイラギを見据える。 …なんて男だ。
「冗談じゃないっ!そんな事のために、いいなりになる気はありません!さあ、放して下さい!」
 睨みつけるイルカに男は唇を噛みしめる。昔は従順だったのに、と。怒りのあまり再び手を振り上げた。

「ちょっと、何やってんのアンタ。あんまりバカな真似してると殺すよ?」
 振り上げた腕を取られてねじ曲げられると、ヒイラギは低く呻いた。あからさまな悲鳴を上げないところは、腐っても上忍と言うところか。
「し、写輪眼…」
「はたけ上忍…」
 ヒイラギとイルカが、揃ってカカシの名を口にする。
「この人俺の知り合いなんだけど、アンタいったい何の用?そもそも上忍が目下の者に暴力振るうって、どういうつもり?」
 静かな声が、返ってその怒りを表わしていた。ヒイラギはしどろもどろに言い訳をすると、後ろも見ずに走り去った。

 安堵と情けなさでイルカはズルズルと崩れ落ちる。
 昔だって、あまり思いやりのない男だった。無理矢理関係を作って、欲しがるものをたまに与えるだけの都合の良い相手としか イルカを見てなかった。それでもたまに与えられる愛情や信頼は、確かにイルカを慰めたのだ。
 三年前いきなり、要らなくなった物を捨てるみたいに投げ出されて。その後、そんな自分に優しくしてくれる人に、 何人も出会ったけれども。あの男はずっと突き刺さった棘のように、イルカを痛め続けていたのだ。

 座り込んで声もたてずに泣くイルカの腕を、カカシはぐいっと引っ張り上げる。のろのろと顔を上げるイルカに、 カカシは冷たく言いはなった。
「まったく。何やってんのアンタも。あんな男に好き勝手させて。みっともないから泣くの止めれば?」
「………」
 それでも何の反応もしないイルカに、カカシは焦れたように舌打ちをする。乱暴な手つきで涙を拭うと、そのままイルカを引っ張って歩き出した。
 どうしてカカシさんが…と、ショックから半ば覚めきっていない意識の奥で考える。それも二人がアカデミーの門から出るまでの間だったが。
「え?あ…ちょっと。はたけ上忍、待って下さ…。あの、その、俺…仕事が…」
 そうだ、受付を出てからかなりの時間が経っているはずである。たかが添付書類を渡しに行くだけなら、とっくに戻っていないとまずい。
「仕事ってどっちの?アカデミー、それとも受付?」
「う、受付ですけど…」
 どうしてアカデミーの事を知っているのかと不思議に思ったが、まさかそんな事を聞けるはずもない。
「じゃあ行って良いよ。そのかわり終わったらうちに来て。場所は覚えてる?」
 もちろん覚えてはいるけれども。
「覚えてないの?」
 返事をしないイルカに、呆れたようなカカシの声が被さった。
「い、いえっ、覚えてます!終わり次第伺いますので!」
 カカシは何か言いたげにしていたが、結局余計な事は何も言わずに去っていった。
 その姿を見送った後イルカは、大きく溜息を吐いて受付に戻るべく、とぼとぼとアカデミーの中庭を歩いていった。

 あんな人が…。
 自分を欲しがってくれたなら。
 本当の意味で、欲しがってくれたのなら。
 どんなに良かっただろうか。

 ありもしない夢を見るのは、バカだとわかっている。
 いつだって現実は自分を傷つけるのだ。
 それでも、ほんの少しの間だけ…。