電話は鳴り続けている。しかしイルカは取ろうとしない。するとセットしてあった留守電が機能し始めた。
「……………」
 しばらく無言が続く。もしかして悪戯電話か、とカカシが訝しんだ頃、小さなしかし生々しい息づかいが確かに聞こえてきた。
(…これって……)
 イルカを見ると真っ青な顔で電話を凝視していた。
 この電話を恐れていたのか?しかしあの時イルカは部屋に入りすらしなかった。毎日かかって来るにしても、部屋に入る前ではそれを知る事は出来ないだろうに。
「これ、決まった時間に毎日かかってくるの?」
 話しかけられてイルカはやっとこの部屋に一人きりでない事を思い出した。気味の悪い留守電を知られたのはばつが悪いが、一人でない事が少し心強い。
「いえ…、時間は色々ですが…。それに毎日という訳でもありません」
「アンタが部屋に戻るのを躊躇してたのはこれのせいだったって訳?」
「ええ、まあ…」
 煮え切らない返事は、まだ何かある事を意味していた。
 イルカは腹を決めた。どこか憎めない風のこの男に相談するのも良いだろう。果たして信じて貰えるかどうかは分からないが、何もしないよりはいい。 ただ、少なくとも笑ったりはしないだろう、という変な確信があった。イルカはクローゼットに放り込んである袋を取り出すとカカシに差し出した。
「これは…?」
 逆さまにして中身を落とす。バラバラと散らばったのは白い封筒。それがざっと見ても十数通はあるだろう。さっきの電話を考えれば、 これらの封筒が何を意味するのかカカシはよく知っていた。直接手を触れないように注意しながら、ハンカチで封筒をつまみ上げる。
「中身は、どんな事が?」
「何も…」
「何も?」
「白紙なんです、全部」
「……全部?これが全部、白紙なのか?」
 無言電話に白紙の手紙。返ってそれが不気味だ。
「これ、一応調べた方がいいから預かっていいかな?」
「ええ、構いません。そのまま処分して下されば有り難いです。俺にはまだ出来ませんから」
 カカシは頷いて、しかしその言葉の使い方に首を傾げた。まだ処分出来ない、とはどういう事だろうと。
「話を聞いて貰えますか?信じられないような話ですが…」
「相談してみてって言ったでショ。信じる信じないはアンタが決める事じゃない、俺が判断する事だからね」

 最初は視線だった。どこにいても必ずその視線が身に絡みつくのを感じるのだ。気のせいかも、と思った時もあったが常に貼り付いてくるその視線がどうしても 気になった。それで耐えられなくなった時引っ越しをした。今までとは逆の方向だったのだが、そこでも視線は追いかけてきた。家を出て会社に入るまで。 毎日ではないがそんな日が続いた。
「その次にあの郵便物が舞い込みました」
「あの白紙の…。あれに意味はあるの?」
「さあ、俺には何とも…。気付いたかと思いますが、あれには」
「うん、切手が貼ってないよね。つまり犯人が直接アンタんちに届けに来ているって訳だよね」
 カカシの言葉にイルカは素直に頷く。
「その次があの無言電話って訳か…」
「…ええ」
「あの電話は毎日?」
「ほぼ、そうですね…。酷い時には一日に何回も」
 それは部屋に帰りたくもないだろう。
 その時再び電話が鳴った。先程と同じように留守電が作動し始める。イルカは青い顔でそれをじっと見守った。
「まだここに引っ越してそれほど日が経っていないというのに…、またどこか別のところを探さないといけませんね」
 そう寂しそうに呟くのだった。
「そんなに何度も引っ越しを?警察に届けた事はないの?」
「それは…」
 ここで躊躇していてはこの男を部屋に上げた意味がない。決心したからこそ招き入れたのだ。
 イルカはそっと男に向けて手を伸ばす。カカシはその動作を意味も分からずただ見ていた。
「淡いブルー、凄く綺麗ですね…。でも奥にはもっと濃い気配がある。暗い青、黒、紅も…元刑事でしたっけ、もしかして大事な人を亡くされたりしましたか…?」
「……な、なんで…」
 過去の事などカカシは自分からは誰にも話した事はない。ライドウは勿論知っているだろうが、彼が勝手にそんな事を漏らすとも思っていない。では一体どうして?
「まさか…」
 自分に触れているイルカの手を凝視した。そんなバカな、と切ってしまう訳にはいかない。
「こうやって触れていると分かるんです。人の考えとか、その人の中にある物とかが流れ込んでくる。最も全部をきちんと言葉で理解できるわけではないけど…強い思い、 喜怒哀楽とか好意や悪意なんかはわかります。俺の場合は色で感じるんですけど」
「超能力みたいなもん?」
「多分そうなんでしょう…、だからあの手紙には触れられません。俺の場合触れなければ分からないから、自然と人との接触を避けてしまいがちなんですが、 それでも悪意は触らなくても何となく分かってしまうから厄介です」
「ああ、それで…」
 あのドアの前でのイルカの行動が、そう言う理由があったのならすんなりと理解出来る。
「ドアの前での事も、その悪意みたいなのを読み取ったせいか…」
「そうです…、ああいうのに触れてしまうと気力が萎えてしまって何をする気も起こりませんし、ストレスも溜まります。そのせいで何度も病院に厄介になりました」
 食べ物にも気を遣うようになったが、今直面している悪意の前ではそれも意味がない。そもそも食欲が湧かないのだから。
「なるほどね、こりゃあマジで厄介なストーカーだあね。そいつはアンタの事なら一から十まで知っているって事だ」
「ス、ストーカー…?」
「そ。付きまといに手紙…つっても白紙だから手紙って訳でもないけど、それに無言電話。これって嫌がらせって言うよりストーカーでショ。 どこでアンタを見初めたのか分からないけどすっごい悪質なストーカーだよ」
 カカシは腕を組んでしばらくの間考え込んだ。とりあえず、この環境からイルカを助け出さねばならない。敵をやっつけるにしても、 まずはイルカの精神面を助けるのが先決だった。
「よし!アンタ、俺ンちにいらっしゃいよ」
「………は?」
「だから、俺のとこにおいでって言ってんの。まずは環境を変えないとね。こいつはアンタにかなり執着してる。このままここで、 耐えて生活していくなんてアンタには無理でショ。でも引っ越ししたってまたこいつはアンタをすぐに探し当てる。いたちごっこだ。いつか疲れて…いや、 今だってアンタは相当疲れてる。諦めたら絡め取られて終わりだよ」
 終わり、と呟いてイルカはぶるっと身を震わせた。
「まずは身を隠せ。アンタの居場所を特定させないようにするんだ」
「だって…身を隠せって言っても仕事はあるし…」
「とりあえず部屋に帰らないだけでも敵の焦りを呼ぶ事は出来るよ」

 そんな風にしてイルカは2軒隣のカカシの部屋に身を寄せる事になった。近い場所だけに、必要最低限の手荷物だけさっと用意して移動する事にした。 必要な物があればすぐに取りに行ける距離というのもイルカがその話を乗る事切っ掛けになった。なによりも、もう一人で耐えるのは限界だったのだ。




 カカシとの同居は正直心地よかった。カカシは思ったよりもマメで、朝も夜もしっかりと食事を作ってくれた。
「おはようございます」
 起きるとすでにコーヒーが淹れてあり、顔を洗い終わる頃には食事が出てくる毎日だ。
(凄くいい奥さん貰ったみたいだなあ…)
 同居を決めてすぐ、カカシはイルカに有休を取るよう進めた。2日も休めば週末だ。それでイルカは休みの間部屋から一歩も出ないで過ごした。 実際にはその時すでにカカシの部屋に来ていたのだが、敵はそんな事は知らない。カーテンを閉め切ったままの部屋にいるかが閉じこもっていると思ったようだ。 月曜までの四日間で、留守電の録音は一杯になっていた。
「こりゃあ凄いね、一体何分おきにかけてるんだか…。一応中身を検分するよ。あんたは聞かなくていいから俺に任せて。取り外し出来るマイクロカセットだから、 犯人が特定出来るような何かが録音されてたら警察に出す事も出来るしね」
 しかしこれは自分の事だ。カカシにだけ任せるというもは申し訳ない。イルカも一緒に留守録を聞く事にした。カカシはいい顔をしなかったが駄目だとも言わなかった。
 最初の方は今まで通り無言電話が続いた。しかし途中から様相が変わる。無言だったそれが、息の荒さが目立つようになりうなり声がそれに混じり、 最後の一日にはイルカの名前を呟くようになった。
「……っ!」
 四日間の間姿を見せないイルカに苛立った証拠だ。
「大丈夫?」
「平気です、ただ声を聞いたのは初めてだったからちょっと…」
「無理しなくていいよ。止めないで悪かった」
「そんな…」
 自分で決めたのだ、カカシが悪い訳ではない。
「もしこのままあんたの居場所が分からなければ、もっと攻撃的になるだろうな」
 そのカカシの言葉通り、翌日から出勤したイルカは以前より更に鋭い視線に気が付いた。マンションを見張られているとは言え、正面玄関の他に裏口もある。 いつもと時間をずらして裏口からでタイルかは、どうやら出掛けるところを見つからずに済んだようだ。しかし会社を出る時にはいつも感じるあの視線がしっかりと 絡みついてきた。なのでカカシに言われた通り、真っ直ぐ帰らずにホテルを経由して戻ったのだ。大きなホテルのはいくつかで入り口がある。 それを上手く使ってタクシーに乗り込むよう指示されていた。
 そうやって無事その日は過ごした。留守電は相変わらず一杯まで録音されている。一度イルカを見失ってからはなりふり構わなくなったようだ。
『…どこにいるんだ、どこに隠れている…?…イルカ…』
『イルカ、必ず捜し出すぞ…。お前は俺のモノだ…』
『戻ってこい、イルカ…』
 部屋にも来たようで、どうやって入ったのか分からないが室内がぐちゃぐちゃにされていた。ここまで来たら警察に届けた方がいいのだがイルカはなかなか決心が 付かなかった。徐々に凶暴性を増してきているようだ。イルカがこのマンションを離れていないというのも、そのうちにばれるだろう。 一人で居る時にそうなってしまっては護る事も出来ない。
「明日からは送り迎えもする事にする。いよいよ第二段階に入った感じだしね」
「え、でもそんな迷惑は…」
「気にしなくってい〜いよ。どうせ暇だしね」
 そう言えば有休を取った間もカカシはイルカの傍にいた。勤めているはずがない、しかし在宅で仕事をしているようにも見えない。
「あの、お仕事は…?」
「ん?今は別に。ちょっと休暇中ってね」
「き、休暇…?」
「俺の事、気になる?」
「…え」
 気になると言えば気になるのか。一応手を煩わせている身としては。しかし恐らくカカシが言ったのは別の意味だろう。
「ああ、そういう顔してる方がいいよね、アンタは。いつも眉間にしわがよってる顔か真っ青で今にも倒れそうな顔だもんねえ」
「…何言ってるんですか」
「ま、俺の事は気にしなくていいから。しばらくはあんたのボディガードが俺の仕事ね」
「はあ?」
 結局有耶無耶になってしまった。イルカも重ねて尋ねる気はないようでその話はそのまま立ち消えになった。
(だけど送り迎えって女子供じゃあるまいし…)
 あの目立つ男付で仕事に出掛けると思うと、別の意味でイルカは溜息を吐くのだった。