次の日からカカシは言葉通り会社への行き帰りにイルカを護るように付き添った。背はそれ程変わらない二人だったが、何故か必死で歩いているイルカはのんびり歩くカカシを引き離せない。あんまりべったりとくっつかれているとさすがに恥ずかしいので、少し距離を取ろうとするのにカカシはいとも容易くその努力を無に返した。
「………カカシさん、もうちょっと離れて歩いて貰えませんか?」
 それでなくても目立つ男なのだ。イルカは注目されることに慣れていない。というか、力のこともあって目立ちたくはないのにカカシが傍にいるだけで嫌でも目立ってしまうのだ。
「なーんで?ボディーガードなんだから離れてたら意味ないでショ」
「だからってここまでべったり…」
「ちゃあんと意味があんのよ。アンタにいかにもなボディーガードがくっついてるって一目で分かるでしょ?それが抑止力になるわけ。襲おうとしても襲えない、そう思わせるだけでいい」
「…そういう、もんですか?」
「そ。アンタは気にしないで護られてればいい」
 カカシはそう言ってニヤリと笑う。
「もちろん手を繋いで歩くのも有効な訳。どう、繋ぐ?」
「け、結構です…っ!」
 そんな風に軽口を叩いている間に電車は会社の最寄り駅に滑り込んでいく。一番のピークよりは少しずれているが、電車は相変わらず満員だ。イルカはなるべく人に触れてしまわないように気を遣うのだが、今日ばかりはカカシのガードのお陰で気持ちが楽だった。
「足下に気を付けて」
 まるで女性相手にエスコートするみたいに細やかな心遣いを見せるカカシに、イルカはふっと溜息を吐いた。有り難いけれどちょっとばかり行き過ぎじゃないだろうか、と。無意識にポケットに手を入れてはっとする。
(これは…っ!)
 自宅のドアにこれでもかと塗りたくられたどす黒い”想い”。それがポケット付近にべったりとくっついていた。
 誰にも見えない、感じないそれ。ただイルカだけが気付くことの出来るそれに、心底ぞっとした。いるのだ、ここに。この電車、この車両にあの男が。イルカは慌てて辺りを見回す。しかし相手の顔を知らない以上見分けが付くはずもなかった。
「どうしたの、キョロキョロして」
「カ、カカシさん…」
 僅かに震える声にカカシが表情を改めた。
「どうした?」
「いました、あの男が…!」
 小声でたった今気付いたことをカカシに説明した。するとカカシは少し考えて、ああと頷くのだった。電車に乗る前のホームでさりげなくイルカの上着に触った男が居たのだ。
「一瞬ホームから突き落とすつもりかと思ったけど、そのまますぐに行っちゃったからね」
 この電車に乗ったかどうかは分からないが、少なくともカカシの目に付く範囲には居なかったと言う。
「じゃあこれはそのホームで…?」
「うん、多分ね。この満員の電車でアンタに近付こうと移動するのは結構大変だし、もしそんな奴が居たら俺は気付くから」
 言われてみればそうかも、とイルカも納得した。
「でもどうしてホームでその男を捕まえなかったんですか?」
「そいつが犯人かどうか、その時ははっきりしなかったし。それにね、傍を離れないってのが護衛の鉄則だからね」
「でも…」
「ほら、さっさと歩いて。後ろが詰まってるでショ。改札行くよ」
 カカシはイルカの肩を抱くようにして強引にその場から連れ去る。
「護る相手の安全が第一、それ以外は全部二の次。わかった?だから帰りも必ず連絡しなさいよね」
 迎えに来るから。
 何もなければイルカもそこまでしなくてもと思っただろう。だがあんな事があった以上カカシの言うことには大人しく従うつもりだった。



 イルカを送り届けてからカカシは従兄弟に電話を掛けた。
『ストーカー?おいおい、何に巻き込まれてんだあ?』
「冗談じゃないよ。ちゃんと証拠もある」
『誰も嘘だとは言ってねえ。ま、証拠品は大事に仕舞っとけや』
 さらりと流されてカカシはむっとする。もっともアスマが忙しいのはカカシも分かっている。恐らく今も手持ちの仕事が山ほどあるのだろう。電話の向こうから紅の声が聞こえるから、きっとせっつかれているのだろう。
『それでお前はどうするつもりなんだ?』
「どうするって…」
『知ってるだろうがな、ストーカー行為で逮捕されたところで大した罪にはならねえぞ。懲役になったところですぐに出てくるだろう』
「あー、まあね…」
『出てきた後は前以上の報復に出る可能性が高い。こういう輩はとにかくしつこい。逃げ切るのは難しいだろうぜ。お前は、いやその付きまとわれてる男もだが覚悟はあるのか?』
「……覚悟って…」
『ストーカーを舐めるな。こいつらはやるなら徹底的にやるしかねえ、刺し違えるくらいの覚悟が必要ってこった』
 カカシはふっと息を吐いた。そうだ、ストーカーとはそういうものだ。
『中途半端な真似だけはしない方がいい。相手は恐らく本気だ、ヘタに刺激するだけならそのイルカだっけか、その男の為にもさっさと手を引いた方がいい』
 もしそうなった時のカカシの精神状態を心配してくれているのかも知れない。口は悪いが何だかんだ言って情に篤い男だ。
「…ん、わかった」
『本当に分かってんのか、カカシ』
「忠告は有り難く聞いとくよ」
『…ふん、じゃあな。何かあったら連絡しろ』



 時計は九時を過ぎていた。本当なら言いつけ通り帰る前に電話で連絡するつもりだった。ところが急に残業が入った。残業と言ってもイルカの仕事は製薬会社の研究員で、普段から時間の区別などあってないような物だ。カカシのことがふっと頭を過ぎったが、まあいいかと引き受けてしまった。そうなると帰りに時間がいつになるかわからない。進み具合によってはかなり遅くなってしまう場合もある。
 そうなるとさすがにカカシに迎えを頼むのも気が引ける。
(やっぱり十時を回りそうだなあ…)
「イルカさん、そっちのデータを回して貰えますか〜?」
「ああ、悪い。すぐ持って行く」
「はあ、全くなんだって今日なんだか…」
「仕方ないだろう、先方の都合だ」
 イルカの他にも数人、狩り出されている。そのせいか残業とはいえ場の雰囲気は悪くない。多少ぼやきが出るのは当然のことだ。
「数値はどうだ?」
「ああ、いいんじゃね?ほら、これ。いい具合に出てる」
「ん、これなら上等」
「じゃあこのデータ保存して…」
 朝一でデータを保存したディスクを先方に届ける事になっている。
「んじゃ俺保管してくるわ」
「頼む」
 やれやれと息を吐いたのが十時前だった。
「イルカさん、どうします?こうなりゃどっかで一杯引っかけますか?」
「はは、それも魅力的だけど早々に帰って休むよ」
「イルカさん、最近付き合い悪いっすよ〜」
「ごめんごめん、でも今日は勘弁な」
 これ以上遅くなったらカカシが目の色変えて怒るだろう。
 そうしてイルカはカカシに連絡を取らずに一人でさっさと帰り支度を始めた。電車では朝のような事も起こらず、やはり時間が時間だからだろうとイルカは勝手に納得した。
(マンションはもうすぐ…。良かった、何事もなかったな)
 ほっとしたら急にお腹が鳴った。途中のコンビニで何か仕入れていこうと思った。きっとカカシは怒っているだろうから、機嫌を取る為にも何かしらの品がいるだろう。それを差し出して、ホラ一人でも大丈夫だったでしょうと言うつもりだった。
 だが不意に感じた嫌な風にイルカは足を止めた。すうっと首筋が寒くなる。うなじの辺りがちりちりとした。嫌な何かが近付いてくる、いや近くに潜んでいる。そんな感じだ。
(こ、れ…まさか…)
 動かない足を必死で動かそうとする。このままここに留まっていては駄目だ、と心が叫ぶ。マンションはもうすぐなのだ。走りさえすればこの嫌な風を振り切ってマンションに駆け込めれば。しかしイルカの足はその気持ちを裏切って一歩も進めないままだった。
(怖い…っ!いる、あいつだ…)
 どうしよう、とイルカは心の中で繰り返していた。そうして無意識のうちにカカシの名を呟くのだった。
「…カシさ…、カカシさん…、カカシさん…」

「イルカ…、やっと帰ってきたね…探したよ」
「…ひっ」
「ああ、もう大丈夫。安心して…」
 イルカの腕を湿った手が掴む。びくりとするが、それを振り払う気力が持てなかった。
「このまま俺と行こう、イルカ…」
 いやだ、いやだいやだ!しかし声にはならない。触れた手からどす黒いものが流れ込んできた。それがイルカの感情を更に麻痺させる。耐えきれなくなってついにイルカは意識を手放した。頭の隅にカカシの顔が浮かんで消えた。
(こんなことなら…カカシさんにきちんとお礼を言っておくんだったな…)
 きっともう会えないから。


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