その男はしばらくの間ドアの前に佇んでいた。
 特に変哲のないドアの前でしばらく逡巡した後、意を決したようにポケットから鍵を取り出す。その様子はまるで生死を賭けたような、奇妙な緊張感を孕んでいるかに見えた。
 鍵を差し込み鍵を開けようとした瞬間、わあっと叫んで慌てて手を引っ込めた。そうしてドアを凝視する。
 もしこの場面を見ている人がいたなら、きっと首を傾げたに違いない一連の出来事。
 男は、はあっと息を吐きながら顔を顰めた。
「ここも駄目か…。ああ、また引っ越しかあ…薄給なのになあ…」
 表情とは裏腹に呟く内容はマヌケだ。男はもう一つ大きく溜息を吐くと踵を返した。






   ヒカリへ







「あれ?イルカさん、さっき帰ったんじゃねえの?」
 同僚のコテツが戻ってきたイルカを目聡く見つけて声を掛ける。コテツはイルカが仲良くしている同僚の一人だ。ちょっとお節介なところもあるが気さくな性格でよく助けて貰っていた。
「ん、ちょっとやり残したことを思い出してさ…」
「それでわざわざ?真面目だな、ホント。俺はやっと終わって帰るとこなんだけど…手伝おうか?」
 やっと終わって帰れると思ったところにイルカが来た訳だ。それでも嫌な顔もせずにそう切り出すところがコテツの良いところだった。
「いや、平気。そんな面倒なもんじゃないし」
 それでもコンビニで買った弁当持参という事はそうそう早くは帰れないという事だろう、とコテツは思った。そんなコテツの心情はイルカにも見て取れたので安心させるように弁当持参の理由を伝える。
「アパートに帰っても冷蔵庫は空っぽでさ。こっちでついでに食ってく方が楽なんだよな」
「ああ…」
 男の一人暮らしではそれも仕方がない、とコテツは納得する。
「じゃあお先に。イルカさんも早めに切り上げて帰って下さいよ?」
「ああ、おやすみ!」

 一人になってイルカはようやく肩の力を抜いた。
 先程玄関先で受けたショックがまだ尾を引いていたのだ。コテツには気付かれたくなくて、何でもない振りをしたのだがさすがに一人になるとぐったりと椅子に腰掛けた。
「いつまで続くんだろ、こんなこと…。さすがの俺もそろそろ限界かも…」
 どちらかというと前向きで明るい性格のイルカだが、実のところ余り恵まれた子供時代は過ごしていない。帰るべき実家もないし頼るべき家族もいないのだ。だから全てのことは己で対処しなければならない。ならないのだが、どうしても挫けてしまう時もある。こんな風に立て続けに起こってしまうと特に。
 IDカードで自分が所属する研究室に入ると、自分の席について弁当を取り出した。お腹はすいていないが食べないと体力が減る。力仕事ではないがイルカの仕事はある意味体力勝負のところがあるので気は抜けない。ところがお茶を淹れようとしてうっかり隣の机を触ってしまった。途端イルカの身体が硬直する。
『どうも駄目だよなあ…どこが間違ってるんだぁ?』
『ねえ、これ試してみない?駄目で元々じゃない』
『くそ!何で上手くいかないんだ…っ!』
 こんな風に物に触るとその物が持つ記憶が流れ込んでくる。声とかその声の持ち主の心情を現す色とかが大半で映像がないのがまだ救いだが。これがイルカが持つ特異能力だった。
 子供時代の不幸もこの力が原因なので、イルカ自身はこの力を持て余している。こんな力があるから嫌な目に遭うのだと思っている節がある。だが力のお陰で助かったことがあるのも事実だった。

 結局イルカは一晩研究室で過ごして、早朝マンションに戻った。ここに越してきてからすでに何度目かの朝帰りだが、以前のアパートやマンションではほぼ三日に一度の割合で朝帰りをしている。それに比べれば、まだ少ない方だ。最も一カ所にそう長く住んでいないせいで、近所に不審がられることはなかった。ここも早々に引っ越した方がいいのだが、引っ越し続きのせいで貯金が覚束なく資金が心許ない。第一ここに越してきてまだやっと一ヶ月なのだ。
「あ〜あ、もう…引っ越しってそれでなくても金がかかるのに…」
 お陰でイルカは余計な物は持たない癖がついてしまった。引っ越しをする時に邪魔になるからだ。
 エレベーターで7階まで上がる。通路の一番奥がイルカの部屋だ。いつものように鍵を取り出して視線をドアにやる。と、ドアの前に誰かが立っているのが目に入った。
「………え…?」
 ただ立っているのではなく、ノブに顔を近づけてしげしげと覗き込んでいるではないか!イルカはぎょっとしてしばらくその場に立ちつくし、すぐにはっと思いついた。
(…こいつかっ!!)
 瞬間イルカの頭が沸騰した。
 ちょっとあんた!と、声を荒げるより一瞬早く、不審な男の方が背後のイルカに気が付いて振り返った。
「………あ、」
 大柄という訳ではないが背は高い。染めているのか綺麗な銀髪がよく合っている。しかし顔は濃いサングラスのせいでよく分からない。黒いコートが男の存在を更にミステリアスに彩っていた。
「ねえ、アンタ…」
「く、来るな…っ!」
「ちょっと…俺は」
 男がイルカに向かって手を伸ばす。イルカは反射的に後退った。
「触るな!」
(どうしよう…部屋には入れない…。階段は…エレベータの奥…遠いけど…)
「ねえ待ってよ、あのね、俺は…」
 イルカの態度に少々困惑気味に男は言葉を発する。しかし不審者のレッテルをべったりと貼られた男の言葉を聞く義理はイルカにはなかった。ぱっと振り向き脱兎の如く階段に向かう。
「…え、ちょ…」
 イルカは死ぬ気で走った。7階から一気に地上まで。本当に死ぬかと思ったが、何とか逃げ切ったようだ。息を整えて携帯から110番に電話した。近所の交番から若い警察官がやってくるまで、イルカはマンションの外であの男が追いかけてこないかと怯えながらずっと待っていた。

 結局のところ、男に関しては誤解だと分かった。

「あ、あの男です!」
 7階まで戻ってみると、まだ部屋の前にあの男が所在なげに立っていた。イルカは警官に向かって男を指し示す。
「ああ、やっとお戻り?」
「あ〜、やっぱり…」
「ライドウじゃん、ご苦労さんだ〜ね」
「ご苦労さんじゃありませんって。もう、何不審者と間違われてんですか!」
「………え?」
 警官はイルカを振り向くと、男の事を説明し始めた。
「この人、怪しい人じゃありませんよ。見てくれは怪しいですけど。そこの、海野さんの2軒隣の部屋の住人です」
「え、でも…この人うちの玄関で…」
「あ〜、それは悪かった。ちょっと不思議だったもんで」
「不思議だと思ったからって、好きなように振る舞っちゃいけませんって何度も言ったでしょうが。あなたにはなんて事なくてもご近所さんには迷惑なんですよ?」
「う〜ん、そうだねえ。悪かった」
「そのサングラスも外して。他人様に謝るのにかけたままって失礼でしょう」
「ホント口うるさいよねお前」
「カカシさんが構わなすぎなんです!」
 しかしカカシと呼ばれた男は警官の言葉に素直にサングラスを外した。
「………」
 声には出さなかったが、その時のイルカの心情と言えばこんなもんだろう。
(うわ、すっごい美形…!なんでこんな男が不審者なんかやってんだよ!舐めてんのか?俺に対する嫌がらせか?)
 不審者は決してやるものではないのだが…。
 ぷっとライドウが小さく吹き出した。
「し、失礼…。この人の素顔見た人って大体誰でも同じような反応なので、つい…」
 そりゃあ、とイルカは思う。そりゃあ仕方がないだろうと。こんな美形を生で拝めるなんて滅多にない事なのだから。女だったらもっと良かったけれども、男にもこんな綺麗な奴がいるんだと変なところで感心した。
「この人、元刑事なんですよ。俺、じゃない本官もよく知っておりまして」
「…え、刑事、さん…?」
「元だっての。合わないから辞めたんじゃない。もう上からの締め付けがきつくってさ」
「そんなの思いっ切り無視してましたよね…。いいですけど」
「それにご親戚に弁護士さんがいらっしゃるんでしたっけ?」
「ご親戚なんて高尚なモンじゃないけ〜どね。元検事の悪徳弁護士が一人いるねえ」
 元刑事に元検事…なんか凄い家系だなとイルカはこっそり思った。
「まあ、そういう訳で性格はともかく人としては信用出来ますよ」
「…でもうちのノブになんかして…」
「してたんですか、カカシさん?」
「あ〜、ん〜、まあ何とゆーかねえ」
 イルカはじっとカカシを見つめる。一度は不審者だと思ったが、警官の話を聞く限りそんな人物ではなさそうだ。確かめる方法はある。余り使いたくはないが。イルカはそおっと男に触ってみた。
「あ…」
「ん?」
「違う…、そんな…」
「……アンタ、何やって…」
 やはり違う。という事は間違った思いこみだったのだ。ドアの前でノブを触っていたからてっきりそうだと思ったけれど。
「す、すみません。俺、人間違いしてました…」
 そう言って頭を下げる。二人はぽかんとしてそんなイルカを見つめていた。

 とりあえず、まずはお詫びだ。間違えるような変な行動をしていた男の方にも非はあるが、それでも。イルカは男を部屋に上げた。本当は部屋に上げるつもりはなかったのだが、じゃあと言ってカカシが勝手に部屋に上がってしまったのだ。
(ず、図々しい…)
 とは言え世間体を重んじるイルカは、ここで文句は言えない。警官はさっさと交番に戻ってしまったから二人っきりだ。仕方なくイルカはお茶を淹れた。
「あ、お構いなく〜」
 そう言いつつ、男の目は期待に煌めいている。お茶よりコーヒーだったかなと思わないでもなかったが、インスタントしかないのではお茶の方がよっぽどマシだろう。何しろお茶っぱだけはちょっぴり贅沢をしているイルカだ。
「それで、あなたが不審者でないのは分かりましたけど…俺の部屋になんかご用だったんですか?」
 2軒となりとは言え全く知らない間柄だ。引っ越しの挨拶さえしていないのに、どんな用があったというのだろう?イルカでなくても不審に思うはずだ。
「ま、まず驚かせてご免ね。たださあ、ちょっと気になってたの。あんたんちのドアが」
「ドア、が?」
「何度かドアを睨み付けて、そのまま戻っていくアンタを見たんだよね俺。で、何かあるのかなあって。ドアに。だって変でショ、帰ってきたはずなのに一歩も入らないまま回れ右って」
 見られていた事にイルカは全く気付いていなかった。そんな時は精神状態がまともではなく仕方がないとは言え、人の気配には敏感な方なのに。
「あ、俺気配殺せるから」
 イルカの気持ちをくみ取ったのか、そんなフォローをカカシは入れた。
「でさ、そんなアンタを何回かみたから…これは何かあるなってね」
「何かってそんな…。ただ忘れ物をしただけかも知れないでしょう?」
「鍵も出しておきながら?もしそうだったとしても普通は一旦部屋に入るよね?で、荷物を置いて出直すでショ」
「部屋に入ってしまうともう出掛けたくならないかも…」
「だったらそんなに重要な忘れ物じゃないって事でショ?なのにアンタは荷物もそのまま回れ右だ。おかしいって思うのは当然だよね。それにアンタ、ノブに触ると必ず硬直してた」
「それは…」
 どうやら簡単には誤魔化されてくれなさそうだ。そう言えば元刑事だと言っていたか。そう言う人種はそこに秘密があれば必ず嗅ぎ付ける。面倒だから関わりたくないのにとイルカは肩を落とす。
「それにアンタ、自分で分かってるかどうかわからないけどね、顔色が悪い」
 はっとイルカが顔を上げる。確かに最近は余り眠れていないし、食事も必要最低限しか取っていない。
「そのうち倒れるぞ?」
 自覚があるだけにイルカは悄然と俯くのだった。
「でね、まあ相談してみない、俺に」
「……は?」
「ライドウも言ってただろ、俺は元刑事だって。まあ結局ドロップアウトしたんだから、相談相手にはあんまり相応しくないかもだけど。アンタさ、何を抱えてんのかしらないけど誰にも相談してないんでショ?」
 それはつまり身近に居る人には相談しにくい事か、あるいは身近に相談出来る人がいないかで。元刑事のご近所さんというのは、そのどちらもクリアしてやしないかとカカシは考えた。
「どう?」
「どうって…」
「相談相手にはなれないかな?」
 イルカは何と言って答えればいいのか言葉に詰まる。申し出は凄く有り難い。だが…それはイルカが抱える秘密にまで及ぶ恐れがある。あの力の事を隠したまま、上手くこの事態の説明をするのは難しい。イルカは躊躇いを隠さなかった。しかしその逡巡は次の瞬間意味のない物に変貌を遂げた。電話のベルがけたたましく鳴り響く。イルカはビクリと反応した後、震える身体をぎゅうっと腕で抱きしめた。