透明迷宮 4



 外の騒ぎが一層大きくなったようだ。小十郎の怒鳴る声がここまで聞こえてくる。まったく、こっちは瀕死の重傷を負って寝込んでいるというのに、と小さく舌打ちをして政宗は部屋を一歩出た。歩くとまだ傷が痛むが、さすがにもう余程無理をしなければ開く事はないだろう。
「うるせえぞ!てめぇら、どこで騒いでやがる!」
 いくらなんでも主の部屋の傍で怒鳴り合いはないだろう。
「ま、政宗様っ!」
 珍しく小十郎の焦る声が耳を打つ。その小十郎の向こうにこの怪我の原因にもなった鬼の姿が見えた。
 ニィと口角をつり上げて、ようやくお目覚めかい独眼竜、という低い声が政宗を迎えた。
(そう言えば…)
 あの鬼からしつこいくらい会いたいと打診があったのを思い出した。自分の事にイッパイイッパイですっかり忘れていたけれども。つまり返事は小十郎や成実達が引き延ばしていたという事だ。最初に打診があったのはいつだっけと余り働かない頭で考える。だが恐らく結構な日にちが経ったのだろう。鬼がここにいるという事は待ちくたびれて乗り込んできたに違いないのだから。
(まずった…)
 これは明らかに政宗の失態だった。
 小十郎を押し退けて政宗の傍までやって来た鬼は、冷たく政宗を見下ろした。その瞳が、鬼の怒りを表していた。
「そんくれぇ歩けるんなら、そろそろ俺の要請にも応えて貰いたいもんだぜ、なあ独眼竜?一体いつまで客人を待たせるつもりなんだ?」
「Ha!勝手にやって来て暴れるだけ暴れて客人もくそもねえだろうが。それともそれが西の他人様を訪問する時の礼儀なのか?」
 素直に悪かったと謝ればいい物を、つい鬼に対する意地が頭を出す。尤も対峙した時に鬼の人となりはある程度理解していたから、この程度のやり取りは軽い挨拶のような物だと政宗は思っていた。
「……………」
 だが憎まれ口に皮肉で返答したら途端に鬼は黙ってしまった。
 何だろう、この違和感は?
 摺上原で仕合った時に感じた覇気がまるで感じられない。
「なあ、独眼竜、つかぬ事を聞くがよ。俺と前に会った事があるのを覚えているか?」
「……What? 前に会っただと?摺上原以前にか?」
 そんなはずはない。
 こんな男、一度でも会っていれば忘れるはずがない。
 だが覚えていないと言うのも何だか腹立たしい。
 どう答えるか迷っていると、鬼は目を閉じて小さく何か呟いた。
「え?」
「…何でもねえ。独眼竜なんて大層な二つ名を名乗っているから、どんな強者かと思えば。負けた相手から逃げ回るたあがっかりだぜ。大仰すぎる二つ名だったな」
「なんだと、貴様!政宗さまを愚弄するかっ!」
 横から小十郎がいきり立つ。だが、政宗は何故か鬼の言葉に悪意を感じなかった。
「逃げ回ったつもりはねえが、あんたからの要請に応えなかったのは確かだな」
「政宗様っ!」
 自分自身不思議だったが、どうしてだかそんな言葉が素直に出た。
「へえ、随分殊勝じゃねえか」
「西海の。俺がアンタに負けたのは事実だからな、俺は国を守る為にアンタにこう言うしかねえ。アンタは一体俺に何を望む?」
 ざわりと動揺が走った。伊達にも長曾我部にも等しく、政宗の言葉は衝撃だったようだ。
 鬼が政宗を凝視する。小さく開けた口が何かを紡ごうとして止まった。よく見れば痛々しいほどきつく握りしめた手が小刻みに震えていた。

 銀の髪と震える手。
 それが政宗の埋もれた記憶を刺激した。
(さっきこいつは以前会った事があると言ったが…確かに知ってる…。でも、どこで?こんな目立つ野郎なら会えばきっと忘れねえと思うのに)

 鬼の表情に変化はない。だが何故か政宗には泣いているように見えた。
「奥州に何かを望むつもりも無体な要求もしたりしねえよ。商売相手にはなって欲しいがよ。ただ…」
 元親は自分の部屋に置いてきた、政宗から奪った六爪のうちの一本を思い浮かべた。せめてあれくらいは。
「勝者の我が儘だ、あの刀は貰ってくぜ」
「…え?」
 あの刀と言われて、ああ影秀かと思い当たる。好きなものを持って行けと言ったのはこちらだし、今更それに否やを唱えるつもりはない。しかしどうにも釈然としない。
「ちょ、待てよ。西海の!」
「言ったろ?要求はねえ。ただし商売相手にはなって欲しいから少しばかり話を聞いてもらいてえ。対等の話し合いだ。そっちの都合を…」
 どうにも話をはぐらかそうとしているようで、これ以上喋らせるまいと政宗は元親の腕を取った。するとビクリと元親の身体が揺れた。
「アンタ、何か隠してねえか?西海の…」
「…っ、な、何を…放しやがれっ!」
 狼狽える鬼の態度に政宗は確信を深めた。やはりこの男が言った通り、自分は鬼と会った事があるのだ、と。
 だが、それを鬼がはっきりと口にしない理由が分からなかった。
「小十郎!」
「はっ!」
「長曾我部殿の一行はもうしばらく滞在される。丁重にお持て成ししろ」
 元親がぽかんとした顔で政宗を見た。何を言っているのだと言わんばかりの表情で、この鬼がそんな顔を曝したのは初めてかも知れなかった。尤もそんな表情を曝したのは目の前の男ばかりではなく。
「ちょ、梵…っ!本気で言ってんの!?」
 伊達側の重臣達も同様だった。
「政宗様…」
「Of course!西海の、それはアンタにくれてやる。それに商売の話も考える。ただしアンタがもう少しここに逗留するのが条件だ。どうだ?」
 負けた側が条件を突き付けるのも変な話だが、これは長曾我部にとって好条件だった。元親自身は出来るだけ早くこの地を離れたかったのだが仕方がない。
「願ってもねえ話だな。わかった、しばらく世話になる」
「That's good to know」

 こうして長曾我部一行はもうしばらく奥州に滞在する事になった。
 だが、政宗が思った通りに事は運ばなかった。

「何だって鬼は来ねえ」
「申し訳ございません。が、こう言う類の交渉は日頃から私の役目と決まっておりまして…」
「仮にも国主だろうが」
 奥州と四国のやり取りを決めるのに国主が出て来ないでどうするというのか。
「奥州王の言葉とも思えませぬな。あの兄が駆け引きの出来る男とでも?」
 それがこと戦に関してならば、それも期待出来よう。だが商売事の駆け引きとなればあまりと言うか全く役に立たないのが元親だった。そもそも顔に出てしまっては話にならない。それをしれっと言うのが弟だというのだから、日頃の元親の言動も知れようと言う物だ。
「兄にまともな金銭感覚はございません故…」
 己の興味のわく事には湯水のように金を使う男なのだと、眉間に皺を寄せて親泰は語った。その噂は奥州にも届いていたので政宗は頷くしかなかった。
「that's true」
「おわかり頂けて幸いです。さて奥州殿、こちらの商品ですが…」



 ふう、と元親は今日何度目かになる溜息をついた。
 親泰はここ数日、奥州側との商談で忙しそうにしている。元親はそう言うことには全く手を出さないようにしているから、一体どんな風に話が進められているのかさっぱりだった。いつまでここに留まらなければならないのだろう。それが最近の気がかりだ。
 政宗がこのまま何も思い出さないのであれば、ここに留まるのは辛すぎる。傍にいたいと思う一方で逃げ出したいと今も思っているのだ。
 二つの相対する気持ちのせいで、この頃どうも情緒が不安定なのだ。それを親泰も仲間達も何となく気付いているようで、それが更に元親をいたたまれなくさせていた。
「ちっと気晴らしに出掛けてくるとするか…」
 誰にも言わずにそっと元親は城を抜け出した。蒼く抜ける空と心地良い風が元親の心を癒やしていく。
「こういうところは四国と変わらねえなあ。尤も風に塩分がねえ分ちっと物足りねえ気もするが」
 足は城下に向かっていた。忙しく立ち回る者や楽しそうに笑う者。旅の途中の者もいれば農民もいる。賑わいを見せる町は元親を楽しい気分にさせた。あれこれ見聞して持ってきた僅かな小銭で団子を買って食べながらまた見て回る。そんなこんなでついうっかり、日暮れまで過ごしてしまった。はっと気付くと陽が沈みかけていて、元親は大急ぎで城に向かった。

「兄上っ!一体今まで何処にっ!?」
 戻ってきた元親にほっとしたものの、心配した分親泰の説教は長かった。
「悪かった!俺が悪かったからもういいだろ、親泰っ!」
「兄上…。ここ数日様子がおかしいのはみんなが気付いておりますよ。何があったのかは聞きませんが、もしここに滞在する事が兄上の憂いになっているのなら…」
 早々にここを出ましょう、と。元親は言わせなかった。
「大丈夫だ。あの仕合い以来どうも調子がでねえが…これでも一応国主だからな。何を優先すべきかくれえ判断出来るってもんさ」
 強がりでしかなく、親泰には勿論知られていたが。
 親泰は黙ってそれを受け容れた。
「ではもうしばらくのご辛抱を。それと兄上、外に出掛ける時は一言言ってからお出かけ下さいね」
「しぼられましたねえ、殿」
「全くだ。だがまあ、今回ばっかりは仕方ねえか」
「城下は如何でしたか?」
「賑わってた。良い町だったぜ、みんな笑ってた。土佐と同じだ」
「じゃあ、そんなところと商売出来て繋がりを持てて良かったですね、殿」
 部下の言葉がすとんと心に落ちてきた。あの場所で彷徨って藤次郎に会わなければ、奥州とこんな風に率直に商売をしようと思っただろうか?良い商売相手ではあったが、手放しで信用はしなかったかも知れない。こういう繋がりが出来たのはあの邂逅が有ればこそだろう。たとえ政宗が覚えていなくても、自分が覚えてさえいればそれは。

 運命だって、そう思って良いんだろうか…?

 思い出して貰えないのは辛いけれども。
「仕方ねえよなあ。随分変わっちまったしよぅ…」