透明迷宮 2
「弥三郎、あんたはこれからどうするつもりなんだ?」
え、と弥三郎が目を瞠る。
「まさかここでずっと過ごすつもりはないだろう?だったらどうにかここを出ないと」
「出られるの?だってここは…」
まるで死者の国のようだ。少なくとも生きている者は立ち入れない、そんな…。
ここに迷い込んだという事は、自分はもしかしたら死にかけているのかも知れない。そんな考えが頭を過ぎった。
「出られるかどうかはわからねえけど。あんたは出たいんだろう?」
まるで自分はそうじゃないみたいな口調だと弥三郎は少し眉を顰めた。自分よりも小さなこの少年は、何処か昔の自分を彷彿させる。
「出たいけど…藤次郎も出たいんだよね?」
そう口に出して問いかける。
「俺は別に…どっちでも…」
迷うようにそう返すと、さっき藤次郎が手を掴んだ時に悲鳴を上げた人間とは思えないほどの力で、今度は逆に弥三郎が藤次郎の手を握りしめた。
「だめだよ、そんなの!藤次郎は私と一緒に行こう!こんな場所であったのも何かの縁だと思わない?私と藤次郎はきっとどこかで繋がっているんだよ。だから一緒に行こう」
こんな場所で出会った事が果たして縁になりうるのか?藤次郎にはそれは訳の分からない理屈に思えた。だが必死で縋り付いてくる少年を放っていけるほどにはまだ薄情になりきれなかった。藤次郎はついと顔を上げると、自分がやって来ただろう方向を指す。
「俺はあちらからやって来た。特にどこに行こうとしていたわけじゃない。それはあんたもそうだと思うけど」
確かにそうだったので弥三郎は頷く事で同意した。
「で、あんたは向こうの方から来たのか?」
また頷く。それがどうしたというのか。
「あんたも察してると思うが、ここは多分生と死の狭間みたいな場所なんじゃないかと思うんだ。死者の国に至る道の途中とでも言うか…。あんたも俺も何かの拍子に死にかけてここに来た」
まだ死んだ訳じゃない、けれども死に近い場所。
弥三郎は青い顔をしていたけれど、藤次郎の言葉を否定はしなかった。この異様な世界の本質をうすうす感じ取っていたのだろう。
「あんたは真っ直ぐこちらに向かって来たけど、俺は途中から方向を変えた。あんたの泣き声を拾って、それを捜しながら来たから」
本来ならこちらに足は向いていなかった、と藤次郎は続けた。
行きたいと帰りたいと願って歩いた者と、命を諦めた者との差。弥三郎はちゃんと正しい方向に歩いてきたのだ。
「あんたはこのまま真っ直ぐ前だけ見て歩いていけばいい。多分帰れるはずだ」
「……藤次郎は?一緒に行ってくれるんだよね?」
「俺は…望まれてないから」
握りしめた手が震えている。ポタリと何かがその手に落ちた。
「弥三郎?」
また泣いているのか。本当によく泣く奴だ。
何故こんなにも違う二人がここで会う事になったのだろう。せめて会ったのが自分と同様、何かを無くした相手だったならここまで苛立ちもしなかっただろうに。
「ここで藤次郎に会って私は救われたのに…」
涙に濡れた目で、それでも真っ直ぐに藤次郎を見据えて。
「一人きりだと言う事が一番怖かった。だから藤次郎に会えて心底心強かった。救われたのに、どうしてそんな事を言うの?もし、本当に誰も藤次郎を望まないなら、私が望むから!私が誰より望むから!」
「……」
どうでも良いと思っていた心が微かに逡巡を覚えた。置いてきたはずの小十郎や藤五郎の顔が浮かんでくる。望んでくれる者がいるという事が諦めた気持ちに亀裂を入れたのだ。
「どうして…」
「だってこんな場所でたった一人出会った相手なんだもの。まるで運命みたいだと思わない?藤次郎と私だけが出会ったんだよ?」
闇は人を迷わせる。もし誰とも出会わなければ、弥三郎とてやがて絶望して間違った道を選んだかも知れない。出会いが絶望を押し留まらせた。
「泣いてた癖に…変な奴」
「変じゃないもん!」
年上の癖にもんとか言うな…。
先程まで弱々しいくらいだったのに急にたくましく見える。藤次郎が微かに笑うと、弥三郎もぱっと花が咲いたように笑った。どきんとひとつ胸が鳴った。
(…あれ?なんだこれ…)
「なあ、弥三郎はいくつなんだ?」
「なに、急に」
「いいから教えろよ」
弥三郎は小首を傾けながら、もうすぐ十七と答えた。
「十七?三つ上か…」
「え?藤次郎ってそんなに年下だったの?しっかりしてるのに、そんな子供だったなんて…」
「こ、子供って……、あんたの方がよっぽどガキだろ?わんわん泣いてたし」
子供扱いされたのが悔しくて藤次郎hちょっと文句を垂れた。
「そ、そんな事ないもん。そりゃちょっと泣いたけど…。藤次郎だって拗ねて帰ろうとしなかった癖に」
頬を染めた弥三郎が唇を尖らせる。泣いたのは事実だが、それを見られた相手が思ったより子供だったので急に恥ずかしくなったのだ。一方藤次郎も痛いところを指摘されて一瞬口を噤んだ。
「それはもういいだろ。あんたと一緒に帰ってやるって言ってんだから。怖いなら手を繋いでやっても良いぜ」
「もう。私だけが怖がりみたいじゃない」
ぷうっと頬を膨らませる弥三郎が可愛くて、藤次郎はまた笑った。そんな彼を見て弥三郎はほっと息を吐いた。
「笑うのは良い事なんだよ。笑っていられるうちは大丈夫だって隼人が言ってた」
「隼人って?」
「博役。すごく強くて優しいんだ」
何故だか弥三郎が誰かを褒めるのが面白くなかった。とは言え、藤次郎だって喜多や小十郎が悪く言われれば腹が立つし悲しくなる。弥三郎がその博役をとても好きなのはすぐに分かったから、余計な事は言わなかった。
「どうかした?」
「別に…」
ちょっとそっけなかったかと子供じみた態度を後悔していると、弥三郎の腕が伸びてきてぎゅっと藤次郎の身体を抱きしめた。着物の上から体温が伝わって来る。それはもっとずっと子供の頃に欲しくて欲しくて、でもついに与えられなかった温もりだった。
(暖かい…)
「隼人は大好きだけど、藤次郎も大好きだよ?」
「…あんた、もうちょっと婉曲な物言いを身につけた方がいいと思うぞ」
「そう?でも藤次郎にはもう恥ずかしいところも駄目なところも一杯見られているし、今更って感じじゃない」
それは藤次郎も同様で、だからお互い顔を見合わせてくすりと笑うのだった。
「行こうか」
「そうだね。ねえ、ここでの記憶って戻ってからもあると思う?」
藤次郎の事はちゃんと覚えていたいんだけど、と弥三郎の声がした。
「わからねえ。けど、忘れてても会えばきっと思い出す。だって俺とあんたの出会いは運命なんだろう?」
弥三郎自身がそう言ったのだ。運命なのだと。
昔、喜多に欲しい者は全身全霊で奪い取れと叱られた事があった。あの時は諦めるばかりで何かを手にしようとは思わなかったけれど。
「会えると思う?」
「当然だろう?俺を誰だと思ってる」
「誰って…藤次郎の事は名前しか知らないもの」
そう言えばそうだった。
「じゃあ俺の事を話す。覚えていられたら戻ってすぐに会えるだろう?弥三郎の事も聞いて良いか?」
弥三郎はもちろんと嬉しそうに微笑んだ。歩きながらお互いの事を語った。他の誰にも吐露する事のなかった心情も、何故か弥三郎には素直に話す事が出来た。
初めて会ったとき、弥三郎は何もしないでただ泣いていた。そんな彼を弱いだけの人間だと思っていたけれど、こうして自らのことを話す彼はそんな影を微塵も見せなかった。
「初陣はまだなんだ。戦なんて嫌い…戦いたくなんてない…」
そう言った時の痛みを堪えるような顔に視線を奪われた。今の時代にそれを実行するのは、かなり勇気が要るだろう。そもそも己の立場をかんがみれば言いたくても言えない者がほとんどだ。藤次郎にも人に触れられたくない過去があるが、弥三郎の場合はきっと藤次郎以上に違いない。決して弱くなんかない。むしろとても強い心を持っているのだ。
誰にも渡したくない。そう思った。
一度はあきらめた。だから、これ以上欲しいと思ったものをあきらめる事はしたくない。
どのくらい歩いただろうか。不意に辺りの闇が薄れたことに気付いた。
「闇が薄れているみたい。もしかして出口が近いのかな?」
弥三郎の顔が輝く。そう言われれば周囲から受ける圧迫感見たいなものが薄れているようだ。とうとうここまで来たのか、と藤次郎はほっとするのが半分、別れが近付くための不安が半分という心境だった。
弥三郎が藤次郎を振り返る。
「何してるの、ほら早く!」
弥三郎が早く行こうと急かす。藤次郎はたまらずその腕を取ると自分の方に引き寄せた。何の抵抗も見せず弥三郎の身体が腕の中にすぽっと納まる。背丈は負けているが体格的には弥三郎の方が細いから、その身体を支える事くらい簡単だ。
「なに…?」
ことりと首を傾ける。これは弥三郎の癖なのだろうか、だとしたら何とも可愛らしい仕草ではないか。そう思いながら藤次郎はその桜色の唇にそっと己の唇を重ねた。
「………っ!!」
一瞬何が起こったのかわからなかった。だがすぐに口付けられたのだと理解すると、弥三郎は真っ赤になって藤次郎から離れようとした。もちろん藤次郎の両腕がしっかりと弥三郎の身体を支えていたので逃げられはしなかった。
「と、藤次郎…っ!なにを…っ」
「俺は弥三郎の事を誰にも渡したくねえ。こういう事も含めてあんたが好きだ。あんたの全部を俺にくれねえか?」
口付けた時よりもさらに顔を赤くして、少し躊躇した後や三郎は口を開いた。
「だって私は男なんだよ?初陣すら済ませていない弱虫なのに」
「あんたは弱虫じゃねえよ。おれよりずっと強い。それに男だとか、そういうのは関係ねえ」
「嘘だよ…、でも。…でも、本当に私で良いの?」
「Yes!あんたがいい!あんたでなきゃ駄目だ!あんたは俺のFemme fataleだからな」
「…うん、私も藤次郎がいい」
忘れない、覚えていて、きっと探すから、と繰り返し約束を交わした。その間も闇はどんどん薄れていく。
何だか怖い、とそう呟いた時パアっと眩い光が辺りを支配した。
闇と対極にある光の渦が二人を飲み込んでいく。闇に慣れた目が光りに対応出来ずにお互いの姿を見失った。
弥三郎を見失ってしまった。
なんて事だと藤次郎は歯噛みする。手は繋いでいたはずだ。決して放さなかったのに。
何度も弥三郎と呼びかけるが、闇の世界と同様に、ここにも生きた者の気配はなかった。
「仕方ねえ、とにかく進まねえと。生きてもう一度弥三郎に会うって約束したからな」
右も左も分からない空間だが、行くべき先は漠然とだがわかっていた。
一方弥三郎も傍らにいたはずの藤次郎を見失っていた。
「藤次郎…!藤次郎…っ!」
声を限りに叫んでも応えはない。
「ここからは一人で行かねばならないという事…?」
不安で胸が押し潰されそうになる。ここからはたった一人で進まねばならないのだ。正しい方向に向かっているのか、それすら分からない。
(だけど…)
弥三郎はゆっくりと踏み出した。
「約束、したから」
藤次郎は必ず見つけてくれる。どんなに遠く離れていてもきっと会いに来てくれるはず。だから、その時自分も同じ世界にいる為に、先に進むのだ。
遠くで呼び続ける声がする。
遠い、けれども確かに知っている声が…。
→