透明迷宮 3
「…ね様…、政宗様。…!お気が付かれましたかっ!」
声に引き寄せられるようにして、政宗はゆっくり目を開けた。ぼんやりとした視界が徐々にはっきりしていく。
「…こ…」
小十郎、と言ったつもりが掠れた吐息だけしか出なかった。
「喋られますな、政宗様。酷いお怪我をなさっておられるのです。覚えておられますか?」
政宗が目を覚ました事で安心したのだろう。落ち着いた小十郎の声が心地よく耳に響く。言われて少し前のあの戦いを思い出した。
奥州に四国の鬼がやってきたのだ。
摺上原で迎え撃って、それで…。
「鬼…は…?」
「それが…。あの鬼めも政宗様同様酷い有様でして。別室で休ませております」
へえ、と政宗は意外そうな目を小十郎に向ける。まさかあの鬼をここまで運んで休ませるとは。おのが主に刃を向けた相手など、本来なら決して許さないに違いないだろうに。
「勝手をしてしまい申し訳ございません。けれども政宗様の意識があればきっと鬼を殺すなとご命令なさったはずと…」
そうだ。あの時確かに政宗は負けた。
自分を負かした相手を問答無用で殺すなど、政宗の自尊心が許さなかった。生きてさえいればもう一度仕合う機会は訪れるだろう。
だから小十郎がそんな政宗の心情を読み取って鬼を生かした事は容易に想像出来る。
「我らの地を犯した憎き敵なれど、どうにも、何というか…憎いという気持ちが余り…」
当の小十郎自身が己の心情に首を傾げているようだ。
鬼に対する好奇心がむくむくと沸き起こる。摺上原で対峙した時も、会った事もないはずなのに、あの男の考えている事が分かる気がしたのだ。
どこか似ていると、そう思った。
政宗は痛む身体で起き上がろうとする。小十郎は慌ててそれを止めた。
「まだ無理です。もうしばらくは大人しくお休みになって下さい」
「いや、平気だ」
「政宗様っ!」
「…つぅ…!」
無理に身体を起こしたせいで傷が開いてしまった。ホラ見た事かと小十郎が顔を顰めた。
(仕方ねえ。こんな状態じゃ鬼とまともな話も出来ねえだろうし…)
諦めて政宗は再び身体を横たえる。
「あちらの事は私と成実が責任を持って当たります。ですから政宗様はお身体を治す事にご専念下さいませ」
その言葉に頷くしかなかった。
別室に留め置かれた長曾我部一行は、取りあえず大人しくその処遇を受け容れていた。彼らの主である元親の意識が戻らず従うしかなかったわけだが、その主が昨日ようやく目を覚ました。鬼と竜の一騎打ちはこちらに軍配が上がったとは言え、ここは敵地のど真ん中だ。元親の目覚めに彼らがどれ程安堵したかは言うまでもない。
「兄上、白湯を頂いてきました。どうぞお召し上がり下さい」
「おう、悪りいな」
「それは伊達軍の方々に。招かれざる客である我々にも良くして下さいますよ」
「…そうか」
元親は伏し目がちに応える。そんな兄の様子に親泰は訝しげな視線を向けた。
「兄上、どうかされましたか?」
「ああ、いや…。そうだ、独眼竜はどうなったか聞いているか?」
ああ、と親泰は小さく頷いた。
「先ほどお目覚めになったと…。兄上がそのように気になさるとは、独眼竜の事を余程記にいられたのですね」
くすりと笑って白湯を元親に差し出した。確かに元親と同等の腕を持つ人間など、四国にはいない。
「いや、そう言うんじゃなくて…」
だが、元親は煮え切らない様子でまた下を向く。
「兄上?」
「悪りぃ。しばらく一人にしてくれねえか?」
目覚めてからの元親は、何処がどうとはっきり言えないが可笑しなところがある。仕方なく親泰は言う通りに部屋を出て行った。
一人になると元親は頭を抱えた。
「まさか、こんな事が…。忘れてただけなのか、それともまさにあの時に起こったのか…?」
だとしたら、あんまりだろうと思う。
どっちにしても政宗が目覚めた以上、会わないわけにはいかない。
あちらの体調が戻り次第会いたい旨を告げると、竜の右目を称する男は重々しく頷いた。
元親が目覚めて今日で六日。摺上原で竜と対峙してからは既に十日である。政宗はと言えば、元親の目覚めた翌日に意識を取り戻したと言うから丁度五日目になる。
両者の怪我はどちらも酷い物ではあったが、五日も経てば話をするくらいは回復しているはずである。だが、そうなっても政宗から会うという返事はなかった。伝言すらも。右目が時折顔を見せはするが、もっぱら伊達成実がここでの仲介役になっている。その成実に様子を聞いても、曖昧な返事が返るばかりでちっとも埒があかなかった。
そうして日に日に元親の機嫌は悪くなっていった。元親の変化の原因が何なのか、成実はおろか長曾我部一行ですら首を捻った。
「成実さんよう、独眼竜の具合はどうなんだい?もうそろそろ話し合いを持ちてえんだがよ」
毎日聞かれる度に、成実は心の中で盛大に溜息を吐く。政宗の様子は一応安定している。開いた傷もどうにかくっついたようだ。無理をすればまた簡単に開いてしまうだろうが、鬼が言うように話し合いをする分には何の問題もないように思えた。つまり会おうと思えばいつでも会えるのだ。
なのに何故か政宗は会おうとしない。
最初は単に、自分を負かした相手に会うのに躊躇いでもあるのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。いつまでものらりくらりと引き延ばせる問題ではないというのに、何故か政宗は行動を起こそうとしないのだ。
(まったくもう、厄介ごとは全部こっちに回ってくるんだから…)
今日も成実は溜息を吐きながら元親の伝言を政宗に届けるのだった。
奥州に乗り込むまで元親は政宗を知らなかった。もちろん本人に会った事がないと言う意味であって、独眼竜の二つ名は西でもたいそう有名だったからその男の名前くらいは知っていた。だからこそ竜のお宝を求めてここまで足を伸ばす事になったわけだが。
するとどういう事だろう、と元親はあの奇妙な体験を振り返る。
十七の頃、元親は生死を彷徨うような怪我を負った記憶がない。病気も然り。健康と胸を張って言えるほどではなかったが、あんな場所を彷徨うような何かが身に降りかかった事などないのだ。
「…て事はやっぱりあれは独眼竜との仕合いのせいって事になるのか…?」
お互いかなりの痛手は被った。むしろ死ななかったのが不思議なくらいだから、生死の境を彷徨ったとしても不思議はない。だから、そのせいであんな場所に迷い込んだというならば納得は出来る。一歩間違っていれば、真っ直ぐ地獄行きだったわけだ。
(戻って来られて本当に良かったぜ…)
しかしそうすると、腑に落ちない事が一つ。
「何だってあんな年格好だったんだ?」
独眼竜との仕合いのせいだと言うなら、今の姿で迷うのが本当ではないだろうか?
なんで十七?
まあ、今の姿であの男と会っていたら、あんな交流など生まれなかったのだろうとは思う。きっとあの場でも仕合っていたに違いない。記憶があろうとなかろうと、鬼と竜が出会えば刃を交えずにはいられなかっただろう。
考えてみるとあの時期は、元親が一番安定していた頃だ。もっと幼い頃は自分の外見に酷い罪悪感を持っていた。何をするにも人目を気にして、結局何もせずに部屋に閉じこもる毎日だった。
開き直って鬼を名乗るようになったらなったで、国や民を背負う重責に押し潰されそうだった。十七と言えば、まだ両親も健在で手を伸ばせば助けてくれる存在が間近にあった頃だ。だから無意識のうちに、心と身体がその安定を求めたのかも知れない。
(けどよう、政宗は違うだろう…?)
安定を求めた結果のはずがない。あの時藤次郎は、はっきりと言ったではないか。望まれていないのだと。つまり元親とは別の事情があってあの姿だったのだろう。取りあえずそれは政宗側の事情で元親とは関係ない。
関係があるとすれば、目が覚めたのに一向に会いに来ない政宗の心情の方だ。
思い出していないのだろうか?それとも、現実に立ち返ってなかった事にしたいのか?
もしや、元親が弥三郎だと気付いていないとか…?
そのどれであっても、突き付けられた事実は元親を傷付けるだろう。
忘れない、忘れてもきっと思い出すとあれほど約束したのに。必ず捜し出して会いに行くと。
「…藤次郎の嘘吐き」
大体例え思い出していなくても、勝者である元親が会いたいと望んでいるのだ。普通会いにやって来ないか?それをいつまでも体調がどうとか傷がどうとか。そりゃあ色々思うところもあるだろうが、引き延ばしたところで何が変わるわけでもない。いつまでも返答を返さないのは一体どう言うつもりなのか?
(そんなに俺に会いたくねえってのかよ…っ!)
ツキンと心臓が痛みを訴える。
不安な心を抱えたまま、それでも元親は我慢した。しかしそれから更に十日が経っても全く変わらない対応に、流石の元親もキレたのだった。
「お待ち下さい!長曾我部殿!ここから先は政宗様の私室、許可なく立ち入られては困ります!どうかお戻りを!」
元親を阻むように右目や他の家臣達が立ちはだかる。元親だとて本来はこんな無茶をする気はなかった。だが、頭に血が上った今は、細かい事など考えていられなかった。伊達の家臣団に負けない迫力で奥に進んでいく。
部屋の外が騒がしい。
西海の鬼との仕合から目が覚めて以来、どうにも政宗は何か大事な物を無くしたような気がしてならなかった。ポッカリと胸に穴が開いたような気がするのだ。大事に仕舞っておきたい何か、暖かい気持ちにしてくれる何か。それが失われた気がする。尤もそれが具体的な何かだと答える事は出来ないのだが。
わからない。無くして困る物など何も持っていない。だから無くした物などないはずなのだ。第一無くして思い出せないのなら、それは大事な物とは言えないだろう。その程度の物という意味でしかない。なのに、心の奥深くで何かを探しているのだ。
「昏睡していた時に夢を見たせいか?」
その夢の内容もまた記憶にない。だが思い出そうとすると、心に温かな物が湧き上がってくるから悪い夢ではなかったのだろう。むしろ幸せだったのではないだろうか。
「無くしたと感じるのはその夢の記憶、とか…?」
声に出してみると、それは正しいように思われた。そうか、と納得すると同時に思い出せない夢の内容が急に気になりだした。
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本当はもうちょっと長い予定でしたが時間の都合でここまで;;すみません…!