透明迷宮 1



 じゃり…と自分の足が立てた音で弥三郎は、はっと辺りを見回した。
 どこだろう、ここは。今自分が立っている場所に心当たりがない。それどころか、ここに来るまで自分が何処にいたのか、何をしていたのか、その記憶すらなかった。
(暗い…、それに寒い…?)
 薄墨を融かしたような、ぼんやりとした闇が広がっている。覚束ない足下から、この地が整えられた石畳ではなく砂利道である事が分かる。
(一体ここは何処なんだろう)
 ヒヤリとした空気で、故郷の土佐でない事が知れた。朧気に今は春だったように思うのだ。春の土佐にこんな冷たい風は吹かない。
 闇の中にたった一人でいる事実に怖い、と弥三郎は震える己の身体を抱きしめた。
 ここが何処なのか、何故一人きりでこんな場所に放り出されたのか、いくら考えても答えは出なかった。
「どうしよう、どうしたらいいの…?父上、母上…隼人…」
 いない者を頼ってどうするのかという思いもあるが、弥三郎にはそうする以外術がない。 例え手を差し伸べてくれなくとも、その名を口にする事で溢れそうになる涙を我慢する事が出来る。
 まさか捨てられたのだろうか?こんな自分だから要らないと思われたのでは、と不安になる。だが両親や隼人の自分を見つめる眼は、いつだって優しかった。幾つになっても戦に出ようとしない弥三郎を、困った風に見る事はあっても疎む素振りはついぞ見せなかった。
(捨てられた訳じゃないなら帰りたい。みんなの元に…!)
 少なくともここで一人朽ち果てるなんて、考えるだけで恐ろしくて身がすくむ。闇が足下から這い上がってきて、今にも弥三郎に襲いかかりそうな気がしてくる。
(戻りたいなら動かないと…。自分で考えて行動を起こさないと)
 震える足を叱咤して、弥三郎はあてもなく歩き出した。




 さすがにこれは不味いだろう、と藤次郎は他人事のように思った。
 こんな訳の分からない場所にぽつんと一人だけはぐれてしまったのだ。左右を見渡してもただ闇があるばかりで数歩先すら見通せない。こんなところで襲われればきっとひとたまりもないだろう。
 藤次郎はこの頃すでに己の命を諦めかけていた。
 自分の命を脅かすのが実の母やその親族だと、噂を聞くまでもなく知っていた。同じ母から生まれた自分と弟と、一体何が違うのかと最初はそれに抵抗していたが、そんな状態が長く続けば心も折れる。
 己が失ったものを顧みて、ある日ふと、もういいかと思ってしまったのだ。色々な事に心が潰されそうになって、逃げてしまいたいと思ってしまった。ただ、少ないが確実に自分を愛しく思ってくれる者もいる。彼らの事を思い、ここまで生きてきたのだが。
 この暗闇の中で一人きりだと気付いた時、自分はここで死ぬ運命なのだと覚悟した。供も連れずにいるこの絶好の機会を敵が見逃すはずはないだろう、と。
 しかし誰かが襲いかかってくる気配はない。息を詰めて辺りを窺ってみても、誰かがいる気配すら掴めない。まるでこの地にたった一人、藤次郎だけが存在しているかのようだった。訝しく思いながら小さく溜息を吐く。
「ま、なるようにしかならねえか…」
 このままここで突っ立って刺客を待っているのもバカな話だ。それで藤次郎はその場を離れる事にした。
 自分が動かねば事態もまた動かない。良いようにも悪いようにも。




 どれ程の時間を歩いただろうか。闇は一向に薄くならず、相変わらず身体にまとわりついている。周りの景色がわからないので歩いた距離も漠然としか量れない。結構歩いたはずなのにお腹も減らず疲れもしない。足が痛む気配もない。
 人どころか鳥や動物さえいない。
(まるでここは…)
 己の嫌な考えに弥三郎はもう一度ぶるりと身を震わせた。
 いつまで歩いても、何処にも辿り着けないのではないか?この闇の中で、結局一人死ぬ事になるのではないか?
 とうとう押し寄せる不安を誤魔化しきれなくなって、弥三郎は足を止めた。さっきはどうにか耐えた涙が頬を伝う。一度堰を切ったそれは、もう弥三郎の意志ではどうにもならず、流されるまま声を上げて泣くのだった。

(寂しい…一人は寂しい…!誰か助けて…っ!)

『弥三郎様…』

 懐かしい声が遠ざかっていく。
「もう、歩けない…」
 懐かしい人の背中を追い掛ける事も出来ず、弥三郎はただ涙を流し続けた。




 微かに声が聞こえた気がした。どこかえあ聞こえたのだろう。見回そうにもこの闇の中だ。目で追えるはずもない。ようやく見つけた自分以外の生き物の気配に、藤次郎は惹き付けられた。耳を澄ませて方角を探る。
「向こう、か…?」
 何かを期待したわけではない。
 随分歩いたが、その間に誰とも行き合わなかった。生き物ですら。虫の声すら聞こえないというのは尋常ではない。
 ここには誰もいないのかも知れないと思った。もとよりここが、人のいるべき場所でない事は想像が着いている。生ある者の全くいない場所。日の差さない闇の世界。ここがどこにしろ、まともな場所ではないだろう。だから声を聞いた時も最初は空耳だと思った。
 だがよくよく聞くと、まるで泣き声のようにも聞こえてきて、もしかしたら自分以外に誰かいるのではと思い至ったのだ。
(人がいる…?)
 好奇心がある意味悪い事態を招く事にもなりかねない。とは言え、これ以上悪い事態などないと思い、声のする方に足を向けた。あるいはこの状態を打開する術があるかも知れない。そうでなくても別に構わないけれど、と思いながら。







「ああ、やっぱり泣き声だったか…」

 近付くにつれはっきりしてくるその声は、藤次郎とそう変わらない年の子供のように思えた。呟いた声に闇の中の何かが動揺した。すぐ傍まで近付いてようやく相手が見えた。うずくまるその姿はか弱そうに見えるが、藤次郎より幾分身体は大きそうだった。
(年上…だよな?なのに、ただ泣いてたって…?こんな場所で無防備に…。どんな甘ちゃんだよ)
 藤次郎はうんざりしながら、さらに一歩近付く。するとうずくまっていた少年は悲鳴を上げて飛び退いたのだ。
「ひ…っ!」
「…………」
 まるで鬼か魔物が出たかのような反応だった。
「あのなあ、あんた…」
 一体どんな環境で育てばこんな男が出来るんだ。と藤次郎は溜息を吐く。奥州では考えられない。特に藤次郎のような立場の人間には。
「俺が鬼にでも見えるか?生憎だったな、一応生きてる人間だ。それよりあんた、いつからここに?」
「にんげん…?」
 少年は呆然とこちらを見つめるばかりだ。恐らくまだ頭の中で整理が追いつかないのだろう。彼の態勢が整うまで藤次郎は目の前の人間をしばし観察することにした。
(農民の子供には見えねえよな。着てる物も立派だし、どうみても俺と同じ武家の子供だ。それにしちゃ頼りねえけど…)
 もの凄くありえねえけど、と藤次郎は心の中で繰り返した。
「あ…、だ、誰…?」
「全く…あんた俺より年上のくせして何わんわん泣いてんだよ。みっともねえな」
「………え?」
 暗闇のせいで声の主、つまり藤次郎の姿は弥三郎にはきちんと見て取れない。だが声の感じからして子供だというのはわかった。その声が、弥三郎に対して「自分より年上のくせに」と言ったのだ。
「見えるの?」
 思わず声が出た。すると子供は「見えるぜ」と言って一歩踏み出し、弥三郎の腕をしっかりと掴んだ。
「…っ、や……!!」
 いきなりの行為に驚いて悲鳴じみた声を上げてしまう。すると相手は少し拗ねたような口調で「何もしねえよ」と呟いた。
「酷い事も怖い事もしねえからそんなにびくびくするんじゃねえよ」
 女じゃあるまいし、とまではさすがに口にしなかったが。
 ただ泣くだけで何かが解決するものか。目の前に疼くまる男に藤次郎は押さえがたい苛立ちを感じた。
「本当に…?」
「本当だ」
 藤次郎はそのまま取った腕を自分の方に引き寄せる。弥三郎は逆らわずに引っ張られるまま立ち上がった。背は藤次郎の方が頭一つ分低い。だが身体付きは弥三郎の方が華奢な作りだった。

「俺は藤次郎、あんたは?」
「弥三郎…、藤次郎はここがどこだかわかる?」

 そう問われるだろうと思ってはいた。
 ここが尋常な場所でない事は、きっと弥三郎にもわかっているだろう。
「何となく…想像は出来る。俺はここに来るまで随分歩いてきた。多分一昼夜くらい経ってるはずだ。なのに闇は一向に消えないし腹もすかねえ」
「うん、私もそう。人どころか動物も鳥も、虫さえ見ない」
「あんた、ここで気付く前の記憶はあるのか?」
 藤次郎にはそれがない。どうしてここにと思い記憶を辿ろうとして思い出せない事に気付いた。小十郎と馬で駆けていたようにも、喜多と供に書を読んでいたようにも思える。だがそのどれでもないようにも。とにかくはっきりしないのだ。
「ううん…、覚えてない。気が付いたらここにいて…何をしていたのか何て全く」
 立場は同じというわけだ。
 訳の分からない場所に二人きり。しかも相手は全く頼りになりそうにない。
 さて、どうするべきか。