紫煙の月 1



 最後の客を送り出して、元親は小さくため息を吐いた。
 時間はすでに2時を回っている。それでもこの時間なら早いほうだろう。 遅い時など3時を回ることもざらなのだ。
「お疲れ、元親!どう、このあと一杯…?」
 にこやかに誘いをかけてくるのはこの店のNO2の慶次だ。 なんでこんなに元気なんだ、こいつ。と疲れた頭で思う。
「あれ、何か顔色悪くねえ?もしかして具合悪いのか?」
  最近よく眠れていないせいだというのはわかっている。体調管理も仕事のうちだが、この時期だけは仕方がない。
「ん、ちょっとな。悪いけど俺、先に帰らせて貰うわ」
「あ、待って待って!送るから!ってゆーか送らせて!」
  慶次が慌てて駆け寄る。それを苦笑しながら、しかしきっぱりと元親は拒絶した。
「アホか!こっから目と鼻の先なんだぜ、俺んち。 わざわざ送ってもらうようなもんじゃねえよ」
「そうそう、チカちゃんの事は余計なお世話だよ。それより慶次、旦那を控え室まで連れてってよ。 潰れちゃってんだわ」
 ええ〜!と不満げな声を出す慶次を佐助に任せて、元親も控え室に向かった。

 ここは新宿にあるホストクラブだ。その手の店が乱立するこの地で、ここは結構老舗であり繁盛していると言えた。 元親はそこで3年前から働いている。オーナーはそこそこの人物だと思うし、仲間にも恵まれていると思う。たまにうざいと思うことがあっても、 ちゃんとそこには元親を気遣う心がこもっているのを知っている。だからこの店を元親はとても大事にしていた。

「じゃあ佐助、悪いけど後をよろしくな」
「任せといて。慶次に見つかると五月蠅いからさっさと帰りなよ」
  マネージャーを任されている佐助は気配りの達人だ。マネージャーのくせに趣味だからとバーテンの真似事までやっている。 それを許しているオーナーも変わり者だし、そのオーナーに認められてここで働くホスト連中も、どこか普通と違っていた。
「元親、これを」
  元就が何かを投げて寄越す。
「どうせ眠れておらぬのだろう?持って行け。ただし服用は少なめにしておけよ」
 変わり者と言えば、この元就もそうだ。 実家が病院でちゃんと医師免許も持っているくせに、何故かホストなんぞをしている。
「ああ、サンキュ」
  そう言えば一昨年のこの時期に、元就が見るに見かねて薬を持ってきてくれたのが最初だった。

 外に出るとむっとした熱気が身体を包む。
 まだ6月だというのにこの熱気は何だ、と思いながら元親はマンションに続く道を急いだ。





 店からマンションまでは細い裏道を通ればせいぜい5分程度の距離だ。
 最初はセキュリティもないような古いマンションに住んでいた元親だったが、 不眠が祟って倒れた二年前にオーナーが心配して手配したのがこのマンションだった。同じマンションの階違いに元就と佐助も住んでいる。
「なんかざわついてんなぁ、こんな時間だってのによう」
 そこかしこを走る人が目立つ。これは何か事件でもあったか。ここは犯罪も多い場所だ。 だからといって今の自分が好奇心丸出しで見物に行くわけにも行くまい。興味もなければ、それを許すだけの体調でもない。 だが、マンションに抜ける細道を通った時に後ろから肩を掴む手に足を止められた。
 急に掴まれたせいでびくりと身体が反応する。 それ程強い力でもないのに、一瞬声が詰まっってしまった。
「な…っ、何…?」
 振り向くと目つきの鋭い男前が元親を睨んでいた。
「Hey、あんた!こんなところでこそこそと何やってる?」
「はあ?」
 こそこそって…。
「こんな時間にこんな裏道を通ってどこに行こうとしてたんだって 聞いてんだよ。You see?」
「ああ、何言ってんだ。こんな時間なんだ、当然自分ちに帰るに決まってんだろうが!」
  そう怒鳴ると男はさらに目を細めてジロジロと元親を眺めた。胡散臭いと言われれば反論出来ないかも知れないが、ここは新宿だ。 こんな時間だろうがうろついている奴は少なくない。なのになんで自分にだけ引っかかるのか。
「あんた、名前は?こっからどこへ行こうとしてたんだ? この辺りは人も入ってこないどん詰まりも多いよなあ。そこで誰かと落ち合うつもりだったんじゃねえのか?」
 それでピンと来た。 つまり、この男は元親を薬の売人か何かだと思っているのだ。ここで長くホストをしているが、そんな厄介な勘違いをされたのは初めてだった。
「…てめぇ、警察か?何処に目付けてんだ、俺が売人にでも見えるってのか?」
「見える見えないの問題じゃねえ。あんたの行動は十分怪しいんだよ」
  ってわけで、ちっと付き合って貰うぜ、と。腕を取られて引きずるように元親は裏道から連れ出された。
「おい!冗談じゃねえ!俺はこれから帰って寝るんだ!」
「安心しろ、留置場でも十分寝られるぜ」
「寝られるかっ!ってか、なんで俺がそんなトコに入らなきゃなんねえんだっ!横暴だろ!」
 それでなくても悪い体調がさらに悪くなった気がする。
「Ha!警察なんてなぁ、もとより横暴なもんだぜ」
 どの口が言うか、そんな身も蓋もないことを。
「……てめぇ、本当に警察か?ヤクザの間違いじゃねえのかよ?」
 ぶはっと後ろから堪えきれずに吹き出したという感じの笑い声が聞こえた。
「あ?」
「うるせえ!シゲ!Fuck off!」
 目の前の男と同じくらいの年の、だけど受ける印象は正反対な男が苦しそうに笑っていた。 名前を呼んだって事は知り合い、恐らくは同僚だろうが。それにしてもまあ、最近の警察ってのは顔で選んでいるのだろうか?
「はいはい、いいから梵は黙ってなって。悪いね、君。でもこれもお仕事なんで、ちょーっと職質いいかなあ?」
 最初からけんか腰だった男とは違って、にこやかに近寄ってくる相手には元親だって態度を変えるしかない。出来れば早く帰りたかったが、 変な疑いをかけられるのも避けたくて素直に従うことにした。
「…てめ、俺の時とは随分態度が違うじゃねえか」
 ぼそりと。そう詰られてついこちらも反論したのがまずかった。
「てめえとこっちの人じゃ、最初から俺に対する態度が違ったじゃねえか。 てめえはどう見てもヤクザにしか見えねえが、こっちの人は公務員だって言われりゃ納得する風貌だからな」
 ヤクザと言われた男は俺の何処が!といきり立ち、 公務員の風貌だと言われた男は、それって地味って事?と肩を落とした。まあ、確かにどっちも褒め言葉とはほど遠い。
「いい度胸だな、てめえの容疑はまだ晴れてねえってのによ。そんじゃ、さっさと吐いて貰おうか」
 男が元親の胸ぐらを掴む。
「だーから!吐くも何も!俺は家に帰ろうとしてただけ!この裏道は近道だからいつも通ってるんだよ!」
 その手を振り払うように身体を捩った時、ポトリと胸元から何かが落ちた。三対の目がそれを追う。
「………」
「………」
「………で?じゃあこれは何だ?説明、して貰おうじゃねえか、え?」
 さあっと顔から血の気が引く。
 それは勿論薬じゃない。いや、薬だけど麻薬関係じゃない。それは確かだ。だって元就がくれた物だから。
 しかしだ。
 ここでそう言ったとして、それをこいつらが信じるかと言えば。答えはNOだ。調べられて困る物ではない、ただの睡眠導入剤だ。 しかし警察がそれを信じるのは、自分たちの手できっちり調べてからのこと。そして、それまでは当然、元親に自由はないのだ。
「じゃあ、早速署までご同行願おうか」
 勝ち誇った男の顔を見るのも嫌だったが、ここで反抗したところでこの男を喜ばせるだけだろう。 どうせ疑いが晴れれば帰されるのだ。ここは大人しくしていよう、と働かない頭でそう考えた。
(マンションに戻った佐助が、多分部屋に来るんだろうな…)
 無人の部屋を見てどう思うだろうか。佐助のことだ、きっと心配するだろう。せめて連絡出来ればと思うが、それも無理そうだ。
「シゲ、小十郎に連絡入れろ。 容疑者確保」
「うん、いいけど。でもさ、梵。もうちょっときちんと調べてからの方がいいんじゃないの?この人、どうも売人には見えないし」
「Shut up!いいから引っ張ってこい!」
 シゲと呼ばれた男は仕方ないなあと苦笑して、元親に済まなそうに謝った。
「悪いね、梵は言いだしたら聞かないから。すぐに調べて疑いを晴らしてあげるから、ちょっとの間我慢して?具合悪そうだからホントに申し訳ないけどさ」
 具合が悪いことを見抜かれていたとは驚いた。そんな様子は見せなかったつもりだが、案外侮れない男だ。

 そうして元親は押し込められるように車に乗せられた。両隣には、あの二人が陣取っている。 シートに身体を預けると、それまで感じなかった疲労が一気に押し寄せてきた。まずいな、と思う間もなく意識は闇に沈んでいった。