紫煙の月 2



 耳障りな騒音が浅い眠りを邪魔するように飛び込んできた。見慣れない天井に、ここはどこだったろうと思う。寝返りを打とうとして、 自分が横になっているのが古いソファだというのに気付いた。どうりで身体のあちこちが痛むはずだ。きっと変な格好で寝ていたに違いない。
(俺、どうしたんだっけ…)
 そもそも、なんでソファなんかで寝ているのか?
 まだ半分寝ぼけている頭で昨夜の自分の行動を振り返ろうとした瞬間、 ガツンとあり得ない衝撃を受けてソファが悲鳴を上げた。
「いつまで寝てるつもりだ、あんた!」
 元親が慌てて身体を起こすと、目の前に凶悪そうな笑いを浮かべた男の顔が迫ってきた。その顔で思い出す。
(そうだった、昨夜引っ張ってこられたんだっけ…)
 となると、ここは新宿署だろうか?車に乗せられた後の記憶が元親にはない。
「おい、まだ寝ぼけてんのか?」
 凄んでさえいなければ結構整ったいい顔をしている。男前、と言っていいと思う。しかし男の荒々しい言動が、 それを台無しにしていた。勿体ねえな、と元親は思う。これだけの物を持ってりゃ、すぐにNO1を張れるのに。そこまで考えて、いや待て、 こいつは刑事なんだからこれでいいのかと思い直す。犯罪者相手の荒仕事なんだから、強面のが帰ってやり易いだろう。逆に優男だったりする方が舐められたりするかも?
「いいからさっさと起きて帰れ、邪魔なんだよ」
「邪魔って…。てめえが俺を連れてきたんだろうがよ」
「人が働いてる横で、ぐうすか寝てられると腹が立つんだよ」
「………」
 なんて我が侭なんだ、こいつ…。 刑事の仕事ってのは時間だの何だの関係ないもんだろうに。
(あれ、でも…)
「帰っていいのかよ?てめえ、俺のこと売人だって疑ってたくせに…」
 元親がここにいる理由は、ひたすらそれだけだったはずだ。と、男が僅かに苛つくのがわかった。それで薬の成分が判明したのだろうと想像が付く。
「おい、薬…」
 言いかけた元親の言葉を奪って、再び男の足がソファを蹴りつけた。
「かえれ!」
 この言いぐさにはさすがの元親もカチンと来た。 勝手に連れてきておいて、狙っていた相手と違ったからってこの態度は何だ?いくら警察でもそれはないだろう。
 ふざけんじゃねえぞ!このくそ野郎!と。 後一秒あれば怒鳴っていた。確実に。
 それを留めたのは、昨夜この男と一緒にいたもう一人の刑事が顔を見せたからだった。 つまり、怒鳴るタイミングを見事に逸らされたのだ。
「梵〜、元親さん目が覚めたかなあ?」
 この男と同じ職種とは思えない暢気そうな声に怒気が萎んでいくのを感じて、元親はがっくりと肩を落とした。
(なんかもう、文句を言うのも面倒だぜ…)
「あ、起きたんだね。具合どう?お迎え来てるから、大丈夫ならこっちに来て貰える?」
「あ、ああ悪い。もう平気だけどよ、あのよう、俺の容疑は…」
 晴れたのかよ、と問う前に刑事の足がピタリと止まった。こちらを向いた男の目が据わっている。
「…え、と…?」
 元親は顔を引きつらせながら、二、三歩後退った。

「梵、何も説明してないの?」
 男が気まずそうに目をそらす。
「俺、言ったよね。薬は真っ当な睡眠薬だったって。 つまり元親さんは何の関係もない完璧な人違い、梵の早とちりだったって。だからちゃんと謝って説明して来いって、言ったよね?」
 言った、という応え以外は聞かない迫力で男に迫る。
「……Ah〜、I should say…」
「はあ…、もう梵は…。そんなだから色々誤解されるんだよ、もう…」
 そう呟くと、元親の方を振り向いてぺこりと頭を下げた。 ついでに隣に立つ男の後頭部もギュウギュウ押さえつけて頭を下げさせた。
「すみませんでした!ほらっ、梵もちゃんと謝る!」
「てめっ、シゲ!」
「ほら、謝って!」
「わ、るかった…」
 渋々といった体で男が呟く。その耳が赤くなっていることに元親は気付いた。 あ、照れてるんだなと思った途端、この一見やくざな我が侭刑事が奇妙なほど可愛く見えた。
「いや、いいって。そんな謝られたら俺もどうしていいか迷っちまうしよ」
「でも迷惑かけたからね。あ、そうそう、さっきも言ったけどお迎えの人が来てるんだ!こっち来てくれる?」
「迎え?」
 男の後に付いていくと、佐助と元就、それに慶次の姿があった。元親の様子を見てほっとしたようだ。
「チカちゃん!良かった!無事だったんだな!」
「元親!大丈夫なのか、変なコトされなかったか?」
「余計な口は開くなと言ったであろうが!何が変なことだ、馬鹿者!」
 スパコーンと綺麗な音を立てて元就が慶次の頭を叩く。それにぎゃあぎゃあと文句を付けながら、慶次も元親の身体を気遣う。 昨夜、顔色が悪かったのを覚えているのだ。
「悪りぃ、でも誤解は解けたみたいだからよ」
「まったく、トロトロしておるからこんな事に巻き込まれるのだ。 愚か者め」
「元就まで来てくれるとは思わなかったけどよう」
 なんだかんだと言いつつ、自分を気遣ってくれているのは知っている。 辛辣な物言いは元就の照れ隠しみたいな物だ。
「貴様は我の数少ない患者だからな」
「とにかく、もういいなら帰ろうか。チカも部屋でゆっくり休んだ方がいいよ」
 チラッとあの男を目の端で捜す。別に何か言いたい訳じゃないし、言葉が欲しい訳でもない。ただ…。

「Hey!忘れもんだぜ!」
 胸元目掛けて男が薬を放った。
「今回は間違いだったけどよ、もしあんたがまた怪しいと思ったら、次も遠慮なく引っ張るぜ」
 …反省の色無し。でも、この男にはそう言うのが似合うと思う。くすりと笑いを零して元親は言った。
「元親、だ。あんたじゃなくて、長曾我部元親。 で、てめえの名前は?」
「…伊達、政宗」
「ふぅん、いい名前じゃねえか。出来れば次はこういうんじゃねえといいな。あ、そうだ」
 ごそごそと上着のポケットを探る。確か財布に入ってたはずだ。
「これこれ、俺の名刺。あっちの刑事さんとでも来てくれな!」
「…………俺に、ホストクラブに来いと…?」
 売人に間違えられて引っ張られた男が、どういう顔して刑事をホストクラブに誘うんだよ…。 政宗だけでなく、その場にいた佐助達までがその理由の分からない行動に脱力した。
「?男でも遊びに来ることもあるぜ。まあ、大半は女性連れだけどよ。 サービスするぜ、政宗?」
 政宗がえ?と目を瞠る。
「なんだよ、するって言ったらちゃんとするぜ。初回サービスな」
「いや、そうじゃなくて…、今、政宗って…」
「あ?名前だろ、お前の」
 そうだけど。
「あ〜、いいの貰ったねえ、梵。じゃあ早速次の非番の日に行こうね!」
「………シゲ」
 元親の行動を物ともしない強者がここにもいた。






 慶次の運転でマンションに向かう。やれやれ、とんだ一日だった。シートに身体を預けると元親は少しうとうとする。 車が走っていく振動がちょうどいい具合に眠りを誘うのだ。
「ありゃ、寝ちゃったよ。すぐにマンションだっていうのに」
「着いたら起こせば良かろう」
「だってせっかく眠ってるのに可哀相じゃない」
「こやつに掛けられた迷惑を思えば、そのような言葉は出てこぬわ」
「元就は素直じゃないからな〜。いいよ佐助、俺が部屋まで運ぶからさ」
「そ?頼むね、慶次」

 窓の外は色とりどりの人間が忙しなく行き交っている。今日も暑くなりそうだと思いながら佐助は車窓から空を見上げた。