近年の日本では、常識・モラル・公共心がなくなったと言われている。
確かに新聞の三面記事を読めば、毎日欠かさず事件が発生しているのが分かる。そのほとんどが犯罪であり、そのうちのいくつかは凶悪事件である。
またTV欄を見ても犯罪関係の番組が多いのが分かる。そのうちのいくつかは2時間ドラマである。
今このような現状を嘆き、日本の行く末を案じている人も少なくはないだろう。しかし、世の中悪い人ばかりではない。勇気をもって人の間違いを指摘し、常識と理論をもって人を諭す正義の人は存在しているはずである。
少なくとも私の周りは正義の人が少なくない。いや、正義の人だらけである。
会社に行けば正義感にあふれた人達が私の悪を責め立てて来る。
「仕事をしろ」「ミスをするな」「仕事の量が多くても遅れるな」などは上司がよく言う台詞である。
これは「会社に来て仕事をしないのは悪だ」「ミスは良くない、つまり悪だ」「仕事が多いのは良い事だ。しかし、仕事が遅れるのは良くない、だから悪だ」という正義の倫理がもたらすものである。
ここで「仕事が多すぎて遅れるのは、指示する上司に計画性がない為ではないか?」などと疑問を投げかけてはいけない。
「仕事が遅れるのが良くないのは常識だ、いかなる理由があろうと仕事が遅れるのは悪だ」と即座に反論を受けるだろう。
「どんな状態になっても、きちんと仕事をする」のが理想の形なのだ。正義とは理想を追い求めることでもある。
上司以外にもTさんを筆頭に、正義感にあふれた人達は次々に私の悪を暴き立てて来る。
「30過ぎて結婚していない」「性格が悪い」「顔が悪い」などである。
「自分達は20代で結婚した、そして今ちゃんと生活している。30過ぎても結婚しないなんて普通じゃない、普通じゃないという事は異常だ。だから悪だ」「人が気にしている事(ダイエットに挫折した事)を言うのが気にいらない。人を不愉快にさせるのは悪だ」など、あくまでも主観的な正義感である。
これらに対して「客観的でない意見を人に押し付けるのは良くない」などとと反論してしまうと、えらい事になってしまうだろう。
「私は間違っていない、あんたみたいな他人の意見を受け入れる器量のない人間が言うことが正しいはずがない」と説教を食らってしまうのだ。
正義は絶対に正しく、決して妥協をしないのである。
しかし、正義の人であるはずの上司が失敗したりする事もある。そういう場合であっても、正義の人は負けたりはしない。
「人間だから失敗する事もある」などという下手な理屈をこねたりはせず「よく見ればすぐに気が付いたはずだ、どうして気が付かなかったのだ?こういう時はちゃんとお前が確認しなければダメだろう」と私の悪い点を指摘してくるのである。
正義はまさに臨機応変にして変幻自在である。
正義の人たちが自らを「正義」と位置付けるのは「今までやってきた事の大半(覚えている分)は成功している、ゆえに自分は正しい」という理論があるからで、その理論から「自分が正義だから自分の意見は全て正しい。刃向かうヤツはすべて悪だ」という考えが出てきているのである。
私も正義の人たちには劣らないほどの経験と実績があり、自分でも正義だと自負しているのだが、彼らは私の失敗例を山ほど挙げて私を正義の座から引きずりおろそうとするのだ。実際すべて当たっているだけに反論できない。
しかし、私もいつまでも言われっぱなしでいる訳ではない。時には、私が正義の人となって上司やTさんの悪事を咎める事もある。
「全て急ぎの仕事だと言われても全て同時に出来るわけがない、ちゃんとスケジュールを組んで仕事を下に降ろすべきだ。管理職のクセに手抜きをして部下のせいにするな」「日本は自由の国だ、結婚しようがしまいが私の自由だ、他人の行動に干渉するのは人権侵害だ」など、かなり強い口調で言う時もよくある。帰りの車の中で。
私だっていつまでも悪者扱いされるつもりはない、私が正義の人になれる時まで闘っていくつもりである。
正義の人達に打ち勝つための努力を続け、いつの日にか私を悪者扱いしてきた人たちを後悔させてやるつもりだ。
そのためにはとりあえず仕事のミスをなくし、整形をして結婚した方がいいようだ。上司もTさんもそう言っているから間違いない。
占いの好きな人は多い。それも日本だけではなく、世界中で占いが盛んである。
占いの種類もかなりたくさんあることがしられている、高島易断や占星術から恐竜占いまで数え切れないほどの占いがある。
これだけ占いの種類があれば、同じ人の占いの結果が正反対になることもあるのではないだろうか?
人によっては占いで人生を決めていることもあるだろうから、複数の占いの結果が違うと、占いに対して不信を抱く人も出てくるはずである。
そういう私も占いは信じていない。
私の場合は占いの結果が矛盾しているからではなく、全く合っていないからである。
もともと占いで人生を決めようという気はないので、迷っている時には占ってもらわず、物事を決定してから見てもらうパターンが多いのだが、その内容があまりにも信じにくいので、今では占いなど全く信じる気にはなれない。
Q.○○をしたいのだが、上手くいくか?
A.努力次第で上手くいく。(その前に長々と説明が続くが、最後はこの台詞で終わるのが多い)
また、占いは本題に入る前に、軽くその人の性格や、過去を言い当てるのが一般的である。
私の場合「弱気、体が弱い、苦労が多い、異性にモテない」など、一部では合っているような内容もあるが「仕事の環境に恵まれている、運がいい、変わった性格をしている」など、全く事実と正反対の結果を言われる事が多いのだ。(この占い師たちも職場のIさんを見れば考えが変わるに違いない。それに、私のようなまっとうな人間を「変わっている」などと言うのもどうかしている)
こんな結果では占いを信じる気になれるはずがない。
また、占いをするのに手相を見たり、誕生日や血液型を訊くのも納得いかない。
本当に当たる占い師なら、全く知らない人でも何の資料も無しに占えるはずである。
これには説明が必要であろう。
例えば、ある人が占いによって「車に跳ねられる」と予言されたとする。この時、占い師はその人の行動を知っただけでなく、車を運転する人の行動をも知った事になるのだ。つまり、すれ違う人・出会う人全ての行動を知っているという事になる。
さらに、家族関係を占いで当てる占い師もいる。それなら、家族はもとより先祖代々、そしてその子孫の事を知る事が出来ることになる。皆が知っている通り、人類はアダムとイブから始まっている、地球の人類全員がその子孫である。(人類学で言えばミトコンドリア・イブという人物が挙げられる、彼女は現在の人類の祖先だと言われているのだ)
人間関係を全て知る事が出来るのなら、占う対象のプロフィールなど不要のはずである。
「今日はどんな人が占いをしに来るか」を占う事だって出来るはずなのだ。
それなら、わざわざ占い師の所まで出向かなくても、電話でお気軽・簡単に占う事だって出来るはずだ。
「もしもし、占い頼みます」「はい、喜んでー!」ってな具合に。
しかし、実際には占い師は薄暗ーい路地だったり、薄暗ーい建物の隅っこだったり、とにかく薄暗ーい場所に座って神妙な顔をしているのが多い。なぜか太陽降り注ぐ真夏のビーチや、高校球児がさわやかな汗を流すグランドには占い師はいない、占い師はとても怪しげである。
それでも、占いを信じる人はいる。もちろん信じていない人もいる。
占いの結果を信じる・信じないはその人によって様々である。
「全面的に信じる、または全く信じない人」もいれば「一部だけ信じる人」もいるだろう。「いいことだけ信じる人」もいれば「悪い事だけ信じて気をつける」という人もいるはずである。
しかし、占いの内容によっては「全く信じる気になれない」ものもある。
占いを信じない人がよく言う言葉に「占い師が占いによって設計した飛行機には、占い師自身も乗る気にはなれないだろう」というのがある。たとえ占いの結果が「大丈夫」でも、手相の生命線が長くても、乗りたくなるものではないだろう。
考えてみれば不思議なもので、占いによって人生を決めることが出来ても、生命を賭けることは出来ないのだ。人は最終的には幸せになることより、寿命を長くする方を選ぶものらしい。それに最後は占い結果よりも自分の判断を優先させているのだ。
世間で流行っている程には信じられていないのかも知れない。
現在占いの種類は無数にあり、これからも種類は増え続けていくだろう。これは、今ある占いが完璧ではないために、より良く当たる占いを模索している段階だからだと思われる。 その一方で、「風水」「陰陽道」などの昔の占い方法が復活してきているのも事実である。これは人類の長い歴史の中で使われ続けた占いこそが信じるに値するという考え方であろう。
昔の占いを信じるなら、占いの元祖を信じるべきである。数多い占いの中でも亀甲占いは大変歴史のある占いで、占いの基本中の基本である。だから、数年後は亀甲占いが注目を浴びることになるだろう。
昨日から左の肩が痛い。痛いといっても肩こりの痛さとは違い、筋をいためた感じがする。
例えるなら大雨の日に傘を電車の中に忘れたような痛さである。別の言い方をすれば肩の筋を痛めたような痛さである。
こういう場合、普通は痛みの原因になるもの(傘・電車・肩・神経…等)があるはずだが、肩を痛めるような無理な事(象を持ち上げる・肩を外してくっつける等)は何もしてない。突然「あ、肩が痛い」と思ったら肩が痛くなっていたのである。
しかし、何もしていないのに痛くなることはあまりないはずである。考えられる原因としては
原因を考えていくと、原因不明というのが最も有力な原因である事に気がついた。原因不明の痛みなら原因不明の自然治癒で治るかもしれない。
今日になって時々は痛みが引くようになった。しかし、痛みがなくなるたびに腕を振り回して肩の様子を確認しているのだが、確認するたびに痛さがひどくなっていくような気がする。
人間は道具を使う動物である、とよく言われる。
確かに人間の周りには人間の作り出した道具で満ち溢れている。あふれすぎて置き場に困るくらいである。置くスペースさえあれば、私も自家用ジェット機を通勤に使用していたはずである。狭い日本に生まれたのが悔やまれてならない。
私が普段通勤には自動車を使用している。普段どおりに自動車で通勤していないとすれば、その時は私は会社をリストラされたか、日曜日のどちらかである可能性が高い。ちなみに私の勤めている会社は実質週休1日制である。
普段何気なく使用している自動車だか、よくよく考えればとても重要な道具の一つである。
今の日本で自動車のない生活は考えられない、たとえ自動車を所有していなくても、バス・トラックなどの働く自動車がなくなると、普通の生活できなくなるのは間違いないだろう。
自動車がなくなると、下に挙げるようにあらゆる分野で困ったことが起きてしまうのだ。
このように自動車が無くなってしまうと、様々な分野で深刻な影響が出てしまうのだ。自動車は人間が作り出した道具のなかで、最も重要な物の一つである。
しかも、この自動車を考案し発明した人が過去に存在していたという事実も一つの驚きである。
周知の通り、自動車を除く乗り物の大部分は動物よりそのヒントを得ている。飛行機は滑空する鳥が翼を広げた姿であり、エレベータはクモが糸を伝って上り下りする姿である。また、船の原型であるイカダは植物の葉が水に浮かんだ姿を元にして考えられたものである。
このように自然を題材にして発明された乗り物が多い中で、自動車の姿は特異である。普通、馬より速い乗り物を作ろうと思うなら、馬の形をした乗り物(ロボット等)になっても不思議は無い、それが自動車は車輪の数こそ4つであるが、その姿は馬とはあまりにもかけ離れているのだ。
自動車を発明した人の発想は、あまりにも特殊かつ独特なものであり、常人には到底及びつかないものである。
しかし、もし、自動車を発明した天才が、車輪を使った乗り物でなく、馬のような4本足の乗り物を作ろうと思っていれば今の世の中も少しは変わっていただろう。4本足を動かすための技術が発展し、アトムやガンダムが作られていたかもしれない。
そう思うと少し残念な気がするのは私だけではないだろう。
来月は車検と保険の更新がある。自動車ってスゴイお金かかるね…
人間の生活において食事の占めるウエイトは実に大きい。
人間が一日に行う行動で、3度以上も繰り返すことが出来るのは、食事と昼寝と仕事の失敗くらいなもんである。しかし、昼寝は毎日繰り返すのことはほぼありえないにも関わらず(仕事の失敗は3度で済むなら幸運である)、食事は毎日毎日3度も行うのだから、いかに食事が大切かわかる。
ちなみに食事の目的は栄養補給と歯の健康とエンゲル係数維持のため為である。
近代になって、日本では食事の様式が大きく変化してきた。外食するのが当たり前になり、輸入食材が増え、インスタント食品が普通に売られている。
コンビニに入ればパン・おにぎり・お菓子といくらでも食べ物が手に入り、冷蔵庫をのぞけば1年前のちくわ・韓国土産の唐辛子チョコなど、時間と空間を越えた食べ物が存在する。本当に便利な世の中になったものである。
食べ物が簡単に手に入るようになったおかげで、日本では食事を栄養補給と考える人はほとんどいなくなってしまっている、むしろ栄養をとりすぎないように食事をする方法を求めているのが現実である。
「食べなきゃいいじゃん」と思うのが普通なのだが、なぜか「3度のメシをちゃんと頂く」ことは止めようとしない。
心理学的に考えれば、意識の表層(建前)では「栄養を取り過ぎないように、食事を控えよう」と思っていても、深層(止められない欲望)では「目の前に食い物があったら、絶対喰う」という野生の本能があるからではないだろうか?そんな野生の本能を引きずって生きている日本人は本当に農耕民族なのだろうか?
最近の健康ブームでは以前のように運動や薬では十分健康になれないと気づいたため、食べるものを見直す動きが始まっている。無農薬とか無添加とかである。それ以外にも食べ物を「体に良い・悪い」で分類し、「良い食べ物だけを食べよう」と促す健康法も見受けられる。
そのような健康法の本を読むと、大抵の人は驚いてしまうのではないだろうか?好きな物のほとんどが「体に悪い食べ物」に分類されているのである。ポテチもケーキも焼き肉もみ〜んな「体に悪い食べ物」なのだ、それではいったい何を食べるのかと言うと「野菜・魚(脂身不可)・きのこ」など普段あまり食べないものばかりである。はっきりいって精進料理の世界なのだ。
こういう書物たちは「昔の人は農薬も化学肥料も飼料使わない食材をつかった料理を食べてきたが、最近は色々な混ぜ物が多いので不自然だ。今こそ基本に帰るべきだ」と言って、美味しいケーキ達を悪者扱いしている。
確かに江戸時代にインスタントラーメンはなかったし、平安時代にはハンバーガーもチーズケーキもなかった。しかし、昔に帰ることが果たして正しい健康法なのだろうか?
全体の健康状態の目安として一番分かりやすいのは、人の寿命であろう。江戸時代後期の平均寿命は諸説あるもののだいたい30歳くらいである。平安時代あたりには20後半ぐらい(これも20〜40まで説がある)で、確実に現在よりも短命である。
これらを見て考えると、時代が進むにつれて平均寿命が延びるのは、衛生状態の改善もあるだろうが、やはり食べ物が変化したのが大きな原因と考えられる。
そして、現在の平均寿命は約80歳である。世間には脂身や糖類、いわゆる「良くない食べ物」が出回っているにも関わらず、これほど寿命が延びているのは不思議なものである。もしかすると脂身や糖類は、現在はまだ解析されていないだけで長寿に関わる大切な栄養源なのかもしれない。たとえ栄養源として認める部分がないとしても、甘いものを食べる幸福感が人間の寿命を延ばしているかもしれない。
太古から不老長寿の薬と呼ばれているものには甘いもの(桃・ハチミツ等)が多い事を考えると、やはり甘い食べ物には長生きする原因があると考えるのが自然だろう。
どの時代にも、新しい発見があるとそれまであった常識がひっくり返るということは珍しくない。
ダイエットに不可欠な繊維質は、その昔は全く栄養のない不要な物と言われていたのだ。これからも新しい発見によって、これまでの食の常識が変わる事だって大いに考えられる。甘いものがダイエットの敵でなくなる日がくるかもしれない。
ダイエットの為に頑張って甘いものを控えて、数年後に甘いものがダイエットに有効だと言われるようになってしまったら、悔やんでも悔やみきれないだろう(ちょっと大げさすぎる気はするが)。
近い将来に後悔しないためにも、今ある物は食べておくのが精神的に正しいことだと私は思う。
冷蔵庫の中のシュークリームを家族に食べられてしまってからでは遅すぎるのだ!
小学生の時に算数で平均というのを習った覚えのある人は多いはずである。
人は最高記録とか最大などの景気のいい数が好きな反面、平均という全く面白みのない数を好む習性がある。
最高記録とか最大などの数字は、珍しいぶん一般には縁のないものが多い(ホームランの記録・100m走の記録・等)が平均値となれば、自分の身の回りにある事をを取り上げたもの(平均寿命・平均年収・平均台・等)が多いためか、結構使われる言葉である。
また、自分が世の中のどの辺にいるかを知るためにも、平均はよく使用される。実力テスト・カラオケの点数などである。
平均とは少し違うが「中心」という言葉も良く使われる。市町村の役所のHPを見ると、大抵は「○○市は□□地方の中心に位置し」という文言があったりする。私の住む県庁のHPにもある。
また、公共事業で作られる施設のほとんどが「△△センター」なんて名前が付くところを見ても、「中心」という言葉がかなり好まれているのが分かる。
どうやら人はどのような事にでも「中心」を決めたがっているようで、かつ、自分がその中心である事が望ましいと思っているようである。
「日本の中心」が首都東京ならば、「人口で見た中心」とか「土地面積で見た中心」とか「日本列島がすっぽり入る円を書いたときに中心になる」など不思議な計算方法を駆使して色々な中心を決めている。おそらくそれ以外にも「日本の中心」はあるはず。
これは、人が常に自分中心に世界をみているからであろう。
「そんなことはない、世の中には謙虚な人がいる。私のように」などと言う人もおられるであろう。しかし、どんな謙虚な人でも必ず自己中心なところは存在しているのだ。
たとえ宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に出てくるような、自分ではなりたくはないが、そういう人がいればぜひお友達になりたい(私はそう思っている)人であっても、親のことを「私の親」と言うだろう。友人だって「私の友人」と言い「私の鉛筆」「私のプレステ2」「私の焼いた肉だ」と言うはずである。
間違っても「この方の子供が私です」「この方の友人を私はしています」「この肉はいい具合に焼けています、どうぞあなたに…」という言い方はしないはずである。自分との関係を表すのに常に自分を中心に表すのは自己中心だからである。
皆、知らない間に自己中心になっていたのだ。
自己中心は、普通は良くない考えだと思われるかもしれないが、一概に悪い考えだとは言い切れない部分もある。
以前、ある公演(誰だったかは忘れた)で「世界の中心はどこでしょうか?(中略)それはあなたです。皆さん一人一人が世界の中心だと思えばいいのです」と言っていたのを覚えている。
大抵の人はその言葉で満足したのであろう。しかし、私はその言葉がふに落ちなかった。
本当に私が世界の中心なのだろうか?
考えてみれば、私を中心に動いている事が、世の中に一つでもあっただろうか?
朝起きて、会社に行き仕事をする。この行動パターンは私が作り出したものではない。これは「働かざるもの喰うべからず」の世の中がさせたものであり、また、時計というものが私をせかし続けている。私は中心ではない。
会社に行けば、命令され、失敗を咎められ、昼休み以外には昼食を食べることさえも出来ないし、会社のPCは私の言うことを全く聞かないのだ(耳がないせいかもしれない、マウスやキーボードを使えばある程度は動く)。ここでも私は中心ではない。
例外として、Tさんをはじめとするオバサン連中が「30超えても結婚していない」「もてないのは顔も性格も悪いからだ」などと私の噂話を(私に聞こえるように)する時は、ささやかながら話題の中心となる事があるくらいだ。
家に帰っても同様である。本を読もうとすれば面白そうなTVが始まり、ダイエットしようと思っても美味しそうなお菓子が目の前に(不思議にも)現れ、寝ようとすると本当にすぐに寝てしまう。眠れぬ夜は本を読んで過ごすつもりだったのに。
私の生活のどこをとっても私は中心になっていない。この状態では自分が世界の中心どころか、私の存在に気づいている人がいるかどうかも怪しいものである。
きっと私は永遠に世界の中心にはなれないであろう。まあ、それでも別に問題はないのだが…
ちなみに我が家では、誕生日は生まれた人を祝うのではなく、産んだ親に感謝する日と決められている。
近頃、日本の犯罪が凶悪化していると言われている。
新聞を読めば殺人・強盗・解散などの不穏な文字が目に付き、TVを見れば凶悪事件のニュースと地域のイベントの映像が目白押しである。
新聞やTVを見ると、警察の検挙率が低下しているとか、犯罪の低年齢化がすすんでイケナイとか言われているが、本当のところはどうなのだろうか?
本屋に行くと、ミステリーのコーナーには沢山の本が平積みされている。ミステリーの業界(?)では犯罪の内容とトリックで分類をする人もいるらしく、犯罪についての研究が防犯とは違う方向で研究されている。
私自身はミステリーは全くと言っていいほど読まないが、ミステリーの究極の目的はやはり完全犯罪であろう。
しかし、完全犯罪と言っても人によって微妙にイメージが違うものである。
ある人は「捕まらなければ、それでいい」と思うだろうし「捕まっても証拠不十分で無罪になる」のを完全犯罪とする人もいるだろう。私としては「被害者ですら犯罪があった事に気づかない」のが完全犯罪だと思っている。
被害者が気づかない犯罪をするのなら、その内容は限られてくる。
殺人・強盗・暴行・誘拐は論外である。窃盗・器物破損も、後で被害者が気づく恐れがあるため、行うべきではない(犯罪自体行うべきではないのだが)。
こうやって消去法を行うと、残るのは選挙違反くらいであるが、これは仮に成功してもで達成感がない(かなりの人が成功していると思われるから)ので私はやりたいとは思わない。
もう一つ考えるとすれば「詐欺」があげれられる。しかし、かご抜け詐欺のようにお金を受け取って品物を渡さないような低レベルの物ではない。
また、完全犯罪とはよくある物語の犯人がお決まりのように言う「芸術と言える位の完璧な犯罪」であるべきだと思う。
そう考える私が仕事中の貴重な時間を使って思いついたのが「結婚詐欺」である。
もちろんこれは結婚直前でドロンするような事ではない。金持ちと結婚して相手の財産を得て裕福に生きていこうというすばらしい計画である。
次にその計画を書いてみる。
コレを読まれた方々は決して実行に移さないように。
認証のページで確認したように、責任は負いかねるので悪しからず。
このように完全犯罪は、成功した場合の見返りと比べてかなり大きなリスクを負うものである。
しかし、完全犯罪は芸術である。芸術を体現するには流されず、常に厳しい生き方を要求されてしまうものなのだ。
このような文章を書いていながら、私は犯罪自体はどのような物であっても犯すべきではないと思っている。
しかし、コレを読んだ方で自分の人生を無駄にしてでも、この完全犯罪をやってみたいと本気で思う人がおり、実行に移すというのであれば、私はその責任をとって被害者になっても良いと思っている。
ただし、最低限の条件として 容姿端麗で私と同世代で性格が良くてお金持ちの独身女性に限らせてもらう。
希望者多数の場合はオーディションを行う予定である。
月日がたつのは早いもので、いつの間にやら新年である。
私が生まれてから30年あまりが経ち、キリストが生まれてから2003年が経った。地球誕生から約46億年経っており、宇宙誕生のビックバンからは数百億年経っているという。
そんな年の始まりに「今年一年の目標」を掲げている人も多いことであろう。
目標を書初めにしたり、知人家族に誓ったりしている人もいるだろうし、昨年の私のように誰にも言わず、自分の心の内で強く誓っている人もいるだろう。
昨年の私の目標が何であったかは忘れたが、今になって思えば「ダイエットをして体重を3kg落とす」だったような気がする。もしかすると「秋にPCが壊れて年末に作り直す」だったかもしれない。
人の掲げる目標は大きく分けて3種類に分類できる。
大抵の目標はこの分類のいずれかに当てはまるはずである。場合によっては2つ当てはまる目標もあるだろう。(『ギャンブルを始めて、負けたら辞める』等)
今年私が目標にしたのは「ダイエットして体重を3kg減らす」である。
ダイエットは「運動を始め」「甘いものや大食いをやめ」「目標体重を維持する」という、上記の3つの分類すべてに当てはまるという、目標とするにはあまりにも過酷で困難な人生の選択である。
その過酷さは、ダイエットを失敗した人たちの体験談を読めばすぐにわかるはずである。読むの面倒なら会社のTさんを見れば、それだけでもダイエットが困難であるというのが理解できるはずである。
しかし、人間は現状に満足していては進歩しない生き物である。私も常に上を目指すべく、過酷なダイエットを今年の目標に選んだ。
ダイエットの準備は順調だ。
すでに体重は年末に比べて2kg増加している。あと1kg増えたらダイエットを始めよう。
今年こそはよい年でありますように。
2004年になってもう2週間もたった。
新年を迎えるにあたって、心機一転して新たな目標を持った人はどのくらいいるのだろうか?
かくいう私も心機一転し「ダイエットをして体重を3kg落とす」という目標を持った。しかし、その目標を達成するには長く険しい道のりをたどらなければならない。
「新しい年を迎えたのだから、心機一転して大きな目標を持とう」と考えて目標を持っても、なかなか達成することはできない。
一年の節目として祝われる正月だが、一年の節目となるのはそれだけではない。4月1日の年度始め、誕生日、聖パトリックの記念日・冬至や夏至・サラダ記念日など、節目は数え切れないくらい存在している。
節目ごとに心機一転していては、初心を維持することは不可能になるだろう。半年も経てば正月に立てた目標などきれいさっぱり忘れてしまっているにちがいない。
よく考えれば一年365日はそれぞれに何かの記念日になっており、一日ごとに心機一転することも可能である。
さらに考えを進めれば一時間毎に心機一転することも可能なのだ。そうすると私の上司のように「ほんのわずかな時間差で真逆の命令をする」ことも可能になる。ちなみに私は上司を上回るべく「ほんの数秒間で心機一転し、いろいろな事を忘れる」能力を開発することに成功している。
それに目標の中には、一年間で達成できない目標もある。
「150歳まで生きる」「山にこもって1,000日修行をする」などは、今年一年では達成不可能な目標である。このように一年で達成できない目標を立ててしまうと、年末に後悔することになってしまう。目標を立てる時はよく考える必要がある。
ダイエットをするにも、よく考えて目標を設定しなければいけない。急激に体重を落とすと、健康を損なう恐れがあるからである。一年で1kgぐらいずつ落とすのが安全かつ確実なダイエット法なのかもしれない。
目標がしっかりしていれば良いというものではない。きちんと目標を固定することも必要である。
40歳は不惑と言われ、迷いがなくなるものらしい。言い換えれば、40歳になるまでは意思を決める能力に欠けているということになる。
私は今年の目標を決めるにあたって2つの候補が挙がり、どちらかにするか大いに悩んだ。ひとつは「ダイエット」だが、もうひとつは「週に一回はケーキを食べる」だった。どちらも捨てがたい魅力があるのは、説明せずとも判っていただけるであろう。不惑ならともかく、29歳と22ヶ月では悩むのも仕方がないことである。実は今でも悩んでいる。
このように、目標を固定することができずに、いろいろな目標を思いついてはあきらめるような状態では、目標達成など遥かに遠い物語である。
目標達成のためには、目標を固定しなければならない。そのためには不惑の40歳になるまで待つしかない。
今は無理に目標を決めたりせずに、自由で柔軟な思考を持って生きていく事にしよう。
と、今決めてしまって良いのだろうか?
普通、怪談などの怖い話は暑い季節にするものだが、最近は季節に関係なく怖い話の映画が公開されるようになった。
この真冬にもかかわらず怖い話がTVで流されるのを見ると、日本人が本来持っているはずの四季を愛でる感覚は、いったい何処に行ってしまったんだろうと思ってしまう。
本来は蒸し暑い真夏の夜を涼しくすごすための怪談が、今ではただ怖がるために使われている。このような事では将来地球が温暖化して、冬でも30度を越すようになった時、気持ちだけでも涼しくしようと怪談を聞いても、慣れてしまって何の効き目もないだろう。
むしろクーラーの効かない世界を想像するほうが怖いかもしれない。
大体怖がることにいったい何のメリットがあるのだろうか、知識を得るわけでなく、金銭を得たり健康を増進することもない。むしろびっくりして心拍数が異常に早くなり、寿命を縮めているだけである。
ケーキを食べれば「おいしかった」という記憶と脂肪が残されるのに比べ、「怖かった」という記憶が残るだけでは、いったい何のために怖がっているのかまったく理解できない。
暑くもない真冬に怪談がTVで流されると、私は目をつぶり耳をふさぐ。時にはコタツ布団に顔をうずめることすらある。言っておくが怖いわけではない。
私にとって怪談など貴重な時間の浪費にしか思えない。そんな時間があるのなら、瞑想をして自分の内面を磨き上げていたほうがナンボかましなのである。
そういう時はTVのチャンネルを変えるのが一番なのだが、恥ずかしいことに私の家族は怪談が好きで、私の一存(家族にはワガママと言われている)でチャンネルを変えると、TVの怪談よりも恐ろしいことが起こるのだ。映像と違ってこちらは怖いだけではすまされない。
TVから離れて自分の部屋に戻る事もできるが、自分さえしっかりしていれば、回りに人がいても瞑想はできるのだ。むしろ回りに流されない強靭な精神力を鍛えるチャンスである。決して一人になるのが怖いわけではない。
怪談を好む人はたくさんいるが、本当に怖い思いをしたら、そんな気持ちではいられないはずである。
もみじマークの車に轢かれかけた人が、もみじマークの車を優しい目では見れないのと一緒である。判らなければ一度信号無視のもみじマークの車に轢かれかけてみるといい。ヤツは赤信号どころか私の存在にすら気づかずに走り去っていったのだ。
実は私自身も結構な心霊現象に出会っている。
以前勤めていた会社のビルで投身自殺があり、それ以後色々な事があった。
人のいない階でエレベーターが止まったり、有線の音が途切れたりした。
この程度では大して怖いとは思わなかったが、本当に怖いのはその後だった。
誰もいないトイレの個室がノックを返し、夜中に子供が廊下を走る音が響き、ボーナスが出なくなり、会社が倒産した。
職場が変わっても恐怖は続いている。
忙しくて遊ぶ暇がなく、家のローンのため遊ぶ金もなく、仕事では失敗を繰り返し、30歳過ぎても結婚もできないでいるのだ。見ているだけのTVの恐怖映像など足元にも及ばないほどの怖さである。
真に怖い体験をしている者にとっては、恐怖映画や怪談などはまったく価値がない。よって私は恐怖映画は見ないし、TVでも怖い話は見る気にはなれない。
重ねて言うが、決して怖いわけではない。