過去の文章

2002/11/13作成
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「スポーツの秋」

最近になってようやく世間が落ち着いてきた。先月までは、運動家や文化祭など、秋のイベントが目白押しだった。
世間では「スポーツの秋」などと言って、スポーツをするのが良いことだと宣伝し、マラソンや駅伝をTVで放送していた。
特に今年はサッカーのワールドカップが近場であったらしく、会社でもその話題で持ちきりだった。夏前は。
その当時は私も熱心にTVを見ていたので、一部にわからないところがあるものの、だいぶペンギンには詳しくなったと思う。
NHKの「地球ふしぎ大自然」はすばらしい番組だと思う。

今となっては、サッカーの話題は皆無になり、ワールドカップがあったことすら幻だったのでは、と思えるほどに世間は落ち着いている。私も試合を見た記憶はほとんどなく、優勝したのが武蔵丸だという事くらいにしか記憶にない。
当時は会社のオバサンが、雑誌のベッカムの写真を切り抜いてウチワに貼って使っていたが、それも最近は全く使われていない。
皆熱の冷めるのは早いものだ。

健康のためにはスポーツが良いと言い、ダイエットのためにもスポーツはいいと言う。
またスポーツは精神の鍛錬になると言われ、子供達もスポーツをするように指導がされている。
確かにスポーツやスポーツ選手にはいい印象がある。「力強くはつらつとしていい汗をかいている」って感じがする、ストイックであるとも言われている。
一般人がスポーツ選手のゴシップを知ると「スポーツ選手がそんなことしちゃダメだろうが」と思うのが普通である。プロ野球の契約更新ともなれば「○○選手は年俸○千万円でも承諾しなかった」とニュースで流れる。これも「スポーツ選手はストイックでないといけない」というイメージが生む話題なのだろう。
私の給料が上がっても話題になることはないが、ストイックな面ではスポーツ選手に劣ることはない、「三冠王がほしい」「金メダルを取りたい」などの過度の欲望をほとんど持っていないからだ。
その替わりに「楽をしたい」「もっと寝たい」と望んでいるが、これは失業対策の「ワークシェエリング」の精神を発揮しているためであり、決して本当に楽をして生きたいわけではない。世間の誤解を解くのは簡単ではないのだ。
(楽をして大金がもらえる仕事が実際に目の前にあれば、少しは心が揺らぐかもしれない)

スポーツには意外といやらしい面もある。
フェイントや敬遠などは、正々堂々としていないのではないだろうか。例えそれが高度な技術によるものでも、相手をだましたり、難しい相手から逃げていては「スポーツはズルイヤツが勝つ」と思われてしまう。
仕事でそのような事をすると、どうなるだろうか?

スポーツの精神で会社に勤めると、このように多くの問題が発生してしまうだろう。果たしてこれが、ストイックであるべきスポーツ選手のすることなのだろうか。
嫌な上司の行いとしか思えないのだ。実際とても嫌だ。

私がスポーツをしない理由は以上の通りであり、間違っても「めんどくさい」とか「しんどい」とかいう訳ではない。
秋だからといって、簡単に心が左右されるような人間ではないので、今後もスポーツは敬遠し続けるだろう。

夏以降体重が増えてきたのは、秋になってケーキが美味しくなったせいだろうか?

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2002/11/23作成
現在位置: 表紙 > 冗談半分嘘半分 > 過去の文章 >勝負の行方

「勝負の行方」

人生は戦いの連続である。生れ落ちた時から、息を引き取るその瞬間まで、人間は戦い続ける。

人は、時には本気で勝ちを狙わなくてはならない。
相撲で例えれば、大関クラスの力士が横綱に挑む時。大きな力の差を知りながら、あえてぶつかっていく、その心の内は闘志にみなぎっていることだろう。
負けて当たり前。しかし、勝ちを狙う。
これは並大抵の決心ではないだろう。
柔剣道や囲碁将棋など、ランク分けが明快な世界では、格上の者との対戦は全て相撲と同様だろう。
ダメモトなどと思わず、勝ちを狙う貪欲さでぶつかっているのだろう。
そうでなくては試合が面白いはずがない。
しかし、本当に勝ちを狙っているのは、格上の者である。
格下の挑戦者に負けるわけにはいかない。強いからこそランクが上なのだ、格下に負けるようではその地位にいられなくなるだろう。だから挑戦者よりも、それを受ける者の方がより真剣になって勝負にかかるであろう。
勝たなくてはならないから。

最近私もそのような立場を経験し、格上の者の心境をわずかながらに味わった。
知り合いが建設会社の営業になり、「なんたらフェア(もちろん忘れた)を開くのでぜひ来て欲しい」と言われて、行った時のことだ。
太陽光発電のイベントだったのだが、ターゲットが「一戸建てを持っている人」であったためか、一人で訪れた私を会社の人は皆気持ちいいくらいに無視してくれた。
このイベントのターゲットが「カッコいい男性」「綺麗な女性」「おしゃれな服を着る人」に的を絞っていれば、私は注目の的となり、係りの人に褒められながら、つまみ出されていたであろう。
確かに29歳の独身男は家持ちには見えないだろう。しかし、私は家どころかローンもストレスも近眼も持っているのだ。それに好奇心も旺盛だ。その時の私は、向こうのテーブルで親子が食べている伊勢うどんに興味津々であった。

私は空いている椅子に座ると、すぐさま場に馴染んだ。
私は場に馴染むことにかけては自信がある。
学生時代からクラスでも目立たぬ存在であり、社会人になった今でも、同様である。
「誕生日にはケーキをプレゼントする」という会社の親睦会の恒例行事で、唯一「忘れられた事がある」人物なのだ。
存在感を希薄にした私の姿は、どこから見ても「ぼーっとしている20代の男」に見えただろう。横から「おじちゃん」と呼びかけてきた子供を無視するほど、私は徹底してぼーっとしていた。

しばらくぼーっとしていたが、これでは仕事をしているのと全く変わらないことに気づき、何かしようを周りを見回した。
周りでは営業の人が、主婦やおっさん相手に営業に張り切っていた。
この会場でやること無しにキョロキョロしていたのは、私ととなりの子供(六歳)だけであった。
私はこう見えても子供には結構人気がある。
親戚の子供は私を見ると、泣いたり怒ったりして、私に好意を示してきた。私に向って「あなたが嫌いです」と発言した乳児は未だに一人もいない。
私は大人の威厳を持って、横の子供に話し掛けた。
「しりとりしよか?」
子供は私に微笑み返すと、うなづいた。眼がおびえていたのは私の背後霊が見えたためだろう。
りんご・ゴリラ・ラッパ・パンダ…
しりとりは続いた。

私は大人である。
6歳の子供と比べれば経験豊富であり、語彙も彼の数10倍はあるはずだ。負ける訳が無い勝負だった。

が、途中詰まってしまった。
どうしても「ちゃ」で始まる言葉が出てこない、ど忘れしたのだ、何にも思いつかなかった。
嘘をつくときは、考えるより早く口が動くのに、それが今は言葉が出てこないのだ。
私はあせった。
きっとこの子は明日学校でこの事を話すだろう「昨日格好いい兄ちゃんとしりとりをしたけど、ボクが勝ったんだ。あの兄ちゃんはルックスだけだね」と。

私は子供を見た。
すると、子供は私を笑おうとせずに、「ちゃ」で始まる言葉を私に教えてくれたのだ。
子供は純真だ、天使とも言われるわけが良く分かった。
困った人に助け舟を出す。これがピュアな心なのだと私は深く感動した。

子供 : チャーシューメンがあるよ
杜川 : あ、そうか、じゃあチャーシューメン
子供 : 「ん」が付いたから、おっちゃんの負け
杜川 : ・・・

子供は純粋だ、悪魔といわれるわけが良くわかった。
相手の弱みに付け込んで勝ちをもぎ取る。これが勝負の心なのかと私は深く感動した。

帰りには記念品(?)として、バケツと数個の「サッポロ一番」をもらった。
心に深く刻まれた傷は、「サッポロ一番」で腹を満たすことによって、どうにか修復することが出来た。

「サッポロ一番」にチャーシューが入っていなくて良かったと思ったのは、これが初めてかもしれない。

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2002/12/4作成
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「くじ運」

時間の流れるのは速いもので、気が付けばもう12月、平成もすでに14年も経っており、あんなにあった「柿の種アメ」もなくなってしまった。
過ぎた時間を取り戻すことは、こぼれたミルクをコップに戻し、その上に布をかけて「1・2・3」の掛け声で私を10代後半に若返らすのと同じくらい不可能だ。

そして、毎年の年末には宝くじが発売される。
宝くじは発売されるのは一年に数回あるが、年末のジャンボだけは別格といえる。
普段の宝くじだと、くじを買ってから当選発表までの間、くじを仏壇に供えるのだが。その間にある様々な嫌な出来事(仕事・病気・仕事・不景気・仕事・暑いまたは寒い)のせいで、当選発表を忘れてしまうのだ。時には宝くじを買ったことすら忘れることもある。
そして、ふと気が付いて家族に「ねぇ、宝くじの発表っていつだったっけ?」と聞けば、決まって答えは「あれ、はずれてたよ」である。
つまり、くじの確認を(私に黙って)家族が行っており、(私に秘密の)その当選額に関わらず(私に内緒で)家族が換金しており、私はその結果だけを知るのである。そのくじは私が買ったというのに。
もちろん、買ったくじを私が管理していればいいことなのだが、私は何事も綺麗に片付けないと気がすまないので、宝くじを車のポケットに綺麗に片付け、買った記憶も綺麗に片付けてしまうため。発表日をすぎても、気がつかないまま過ごしてしまうのだ。綺麗好きも善し悪しである。
しかし、年末の宝くじは違う。当選発表が大晦日なので、私も完全に知ることが出来るのだ。TVを見逃しても、正月の新聞に載っている。
毎年、この新聞の宝くじの当選発表を見ては喜んだり(読む前)悲しんだり(読んだ後)するのが、新年の行事でもある。

ところでこの宝くじ、高校生の時から買っているが、まともに当たったためしは無い。
この場合「まとも」とは「投入したお金より、当選金額の方が多かった場合」を指す。間違っても「一億円分くじを買って一億円当たった」場合は「まとも」とは言わない。一億円分の宝くじを買う行為自体が「まとも」ではないからだ。
また、もらったくじが当たった場合も「まとも」とは言わない。タダでさえ運が悪い人生(会社でジャンケンをする場合、私は負けることが前提となっている)なのだ、こんな幸運が飛び込んできたら後は死ぬしかない。

20枚ずつ、十数年買ってまともに当たったことは一度もなし。宝くじが当たる確立でいくと、後どのくらい買い続ければいいのだろうか?

何処かで見た数字だと、宝くじが当たる確立は0・00237%(42、194枚に一枚当たる)である。
この数字を見ると、宝くじが当たる確立はきわめて高いと言えるだろう。
私の意見に異議がある方に説明をしよう。
最近出た確率では狂牛病(いわゆるBSE)があります。皆さんも記憶に新しいのではないでしょうか。サッカーの前のことです。
当時は牛肉から人体への感染率は、数億分の一以下とも言われていましたが、ほとんどの方は牛肉を敬遠していたのではないでしょうか。これは「たとえ数億分の一以下とも言えども、可能性があるなら絶対感染する」と思って牛肉を敬遠していたのだ。
数億分の一以下でも「絶対当たる」と確信しているのであれば、たかが4万枚に一枚では、200%当たると言ってもいいくらいの確率と言える。

延べ4万2千枚になるにはあと2100年ほど買い続ければいい、その頃には当選金額も更に上がっているだろう。楽しみである。

宝くじに可能性を見い出し、今年も買おうと意気込んでいたら、先日(11月29日)左目のコンタクトレンズを割ってしまい、1万8千円が飛んでしまった。

これで宝くじが外れることは無くなった。終わりよければ全てよし、今年は運がいいに違いない。

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2002/12/11作成
現在位置: 表紙 > 冗談半分嘘半分 > 過去の文章 >日本語が乱れている

「日本語が乱れている」

「最近の若いやつは敬語もまともに使えない。日本語が乱れている」
昔から年長者はこの言葉をよく使ってきた。
確かに今の若者は敬語を上手に使えない。しかし、敬語が使えないからと言って、尊敬していないわけではないと思う。
私の後輩があまり敬語を使わない事実を見ても、敬語が尊敬のバロメータではないことがわかるだろう。

内線で
杜川「ハイ」
後輩「あ、杜川さんですか?」
   「ちがうよ」
   「ちがうって…杜川さんでしょう?」
   「杜川はただいま留守にしています。ピーという…」
   「いや、杜川さんでしょうが。アノですね、ちょっと来てください」
   「人の話しを聞いとんのか、オマエは?留守やって今…」
   「何でもいいですぐに来てください!ガチャッ!」

このように、目上の人に対する言葉使いがまるでなっていない。
もし、最初の部分で「留守なら仕方がない」と引き下がれば、私は要らぬトラブルに巻き込まれずに、心穏やかに仕事にいそしむ事が出来たはずなのに。このような無礼な言葉を聞いた挙句に、後輩にミスを指摘され、プログラムを修正をしなければならなかったのだ。
このような言葉づかいをされれば、誰でも気分がよくないものだ。それに加えてミスの修正もしなければならないとくれば、その時の私の心境は誰にでも容易に想像できることであろう。
ついでに内線が入る直前まで、満腹による眠気で頭の2/3が寝ていたことも付け加えておけば、私の不満の程度が更に理解できるはずだ。

乱れているのは敬語だけではない。後輩が普段何気なく使っている言葉でも、私から見れば信じられないような表現をすることがあるのだ。

杜川「おい、お前の携帯が点滅しているぞ」
後輩「あ、たぶんメールですわ。ほっといても大丈夫です」
   「あ、そう」
   「あー、でもチカチカしてやかましいから消しときますね」
   「…今、オマエ、『やかましい』って言った?」
   「いいましたよ。え?普通言いませんか?」
   「言わんやろー。『やかましい』ってのは音がうるさい時に言う言葉やろ」
   「そんなことないですよ。杜川さん知らないんですか?
今は邪魔とか目障りな時にも『やかましい』って言うんですよ」
   「ふーん、それじゃあ、車を走らせていて、道にダンボールの箱がたくさん落ちていた時にも『ダンボールがやかましい』って言うんか?」
   「…言いますよー。ってなんで道にダンボールが落ちているんですか?」
   「…まあ、運送屋が落としたとか。ダンボール屋が落としたとか…。それじゃあ道路に地雷が落ちていたら…」
   「『地雷がやかましい』って言いますね!」
   「ウソやろうー。目が泳いどるぞ」
   「え?そんなことありませんよ。…大体なんで地雷なんですか?」
   「何となく。…それじゃあ、喫茶店にオバサンが10人いた時にも『オバサンがたくさんおってやかましい』って言うんか?」
   「それは、普通に『やかましい』って言うでしょう」

このように何でも『やかましい』としてしまうのは、日本語の乱れ以外の何物でもない。
ほんの10年の歳の差でこれほど変わってしまうのだ。
このまま行くと、数年の内に日本語は大きく変化してしまうだろう。
次世代が使う日本語がどうなってしまうのか、心配で仕方がない。
とりあえず後輩は私に対して敬語を使ってもらいたいものだ。何事も身近な所からコツコツと、である。
敬語なんて簡単なものだ。尊敬の心をもっていれば自然に使えるはずである。
他の先輩と話しをする時と同じ言葉使いでいいのだから簡単だろ?

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2002/12/19作成
現在位置: 表紙 > 冗談半分嘘半分 > 過去の文章 >忙しい年末

「忙しい年末」

忙しい。もう12月だというのに、この忙しさは何だろうか?
師走と言うくらいだから、12月が忙しいのは当然なのだろうけど、忙しいにもほどがある。
この年末までに仕上げないといけない仕事がてんこ盛りだ。年末だからって、そう急ぐこともあるまいに、まるで今年いっぱいで世界が無くなってしまうかのような慌てぶりだ。

正直、忙しくて仕方がない。忙しすぎで仕事をしている暇が無いくらいだ。
会社では急ぎの仕事をこなすために、皆早足で動くようになり、気のせいか殺気立っているような気がする。今日も後輩からの内線で「はい、こちら警視庁です」と言ったら、怒られてしまった。
警察を怒るとは勇気のあるヤツだ。もしかすると後輩の方が私より偉いのかもしれない。

周りの人間の動きがせわしくなり、電話で話す声も大きくなっているような気がする。こういった雰囲気だと、リラックスできず、仕事がはかどらない。
仕事どころか昼寝もあくびも塗り絵も、落ち着いてすることが出来ない。環境が悪いと何をしても上手くいかないものだ。

今月は時間が足りない。あっという間に日が経ってしまう。
暦の上では31日あるのだが、明らかに一日の長さが短くなっている。地球も年末は急いでいるのだろう。
忙しさを回避する手段として、いくつかの方法を考えてみた。

  1. 12月は15日までとする
     日数が増えれば仕事がこなせると思うのは、素人の考えである。日数が増えれば、その分客先も仕事をする量がふえるので、もっと忙しくなるのだ。それに忙しい期間が長くなってしまう。  12月を15日までにすると「26日までに仕上げなければならない仕事」が無くなるので楽になるはず。

  2. 一日を48時間にする
     8時間働いて、更に残業を4時間しても、残りの36時間は遊んで寝れる。ゆとりがあれば忙しさも緩和される。

  3. 一年が5月から始まる事にする
     4月も年度末で忙しいのだから、年末年始も一緒にして、忙しさを集中させればいい。ついでにお盆休みもこの時期にすれば、忙しいけど休みがたくさん(年末年始+ゴールデンウィーク+盆休み)あって楽しい。

  4. 毎月年末年始にする
     忙しさを分散させるためには有効。毎月お歳暮・年賀状・忘年会・新年会とジャンボ宝くじが実施されるので、経済活性化につながる可能性大。長生きになるし。

どの案も大まかには暦を操作しなければいけない。暦を変更するのは大変なことで、世界中がパニックになる恐れもあるが、この先死ぬまで年末が忙しいことを思えば、そのくらいは小さな痛みに過ぎない。
今は民主主義の国が多いから、皆が声に出して主張すれば、きっと変えていくことができるはずだ。

「杜川さん、こんなところでそんなアホみたいな話ししとらんで、さっさと仕事したらいいんですよ。杜川さんが仕事進めないからみんな大変なんです。はよ、片付けてください」

後輩の方が私より偉いのかもしれない。

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2003/1/3作成
現在位置: 表紙 > 冗談半分嘘半分 > 過去の文章 >サンタ

「サンタ」

新年も三が日が過ぎると結構退屈になるもの、皆さんはどのようにして休日をお過ごしでしょうか?
親戚の挨拶もほぼ終わり、友人もあまり遊んでくれない今日この頃。私は昼寝とオヤツでもってこのお休みを順調に消化しております。
このまま行けば、仕事始めの頃には体重が元にもどり、念願の新ダイエットを実行することができるでしょう。今から楽しみです。

話しは大幅に変わって。
去年のクリスマスから、すでに10日ほど経つというのに、未だにサンタがこないのは何故なのだろうか。
ほとんどの人はサンタを信じてはいないだろうが、現在でもサンタを信じているピュアな人はいるはず。実は私もその一人であるが、サンタからプレゼントをもらったことは一度も無い。
年末に会社でこの話しをすると、ほぼ全員がサンタに否定的な意見を言ってきた。
皆サンタを信じていないのだ。
また、仮にサンタがいても、心がピュアでないとプレゼントがこないと言ってきた人もいた。
この意見から判るのは、私の周りにはピュアな心の持ち主が一人もいないという事実のみである。これは以前から私が訴え続けていたことだが、ここに来て私の正しさがサンタによって証明されたことになる。

それでも「サンタはいない」と言う人もいる。
しかしどうだろう。
神が信じる者の心の中に存在し、それゆえに「神が実在する」と言う人も世の中には結構いるのだから、私がサンタを信じて「サンタは実在する」と言い切ってもなんら不都合は無いはず。
むしろプレゼントを欲していながらサンタを信じない方が不自然なのだ。
よく考えれば、世の中は不自然な考え方が多い。
今までに一度も宝くじが当たったことが無いのに、「宝くじは当たるものだ」と思うのはそのいい例だろう。
また、怪我をして痛がっている人に「大丈夫か?」と聞くのも不自然だ。痛いに決まっている。「しっかりしろ」も不自然だ。痛いのにしっかりしようがないではないか。

世の中普通だと思っていることが、実は結構不自然な考え方なのではないだろうか?
不自然がまかり通るから、皆ピュアな心を無くし、サンタがやってこないのだ。

私は心のピュア度(そんなものがあるのかどうか知らないが)は自信がある。
ニュースで、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮の”北”ってどの部分を約したのだろう?)の金○日総書記をたたえる歌の歌詞を見て「○正日の部分をミッキー○ウスに変えたら意外としっくりくるかも」と考えてしまうほどピュアなのだ。

しかし、私一人がピュアな人間であっても、世の中がこれほどスレていてはサンタもやる気が無くなるのも無理は無い。
むしろ、プレゼントがもらえない周りの人間がが不満を持ってしまうだろう。
土用の丑の日にウナギ屋で親子丼を注文するようなものだ。
しかも、その親子丼が不味かったら目も当てられない。ここは皆と同じウナギの蒲焼で我慢するしかない。おごってくれるのならいつでもOKだ。

この話しをするとある人がこう言った。
「本当にピュアな心とは、人を微塵も疑わない心のことを言うんやで。例えばカチカチの冷凍肉を出されても、文句を言わずにそのままかじるとかね。あんたにそんなことできるか?」

ピュアになるにはハイエナ並みの丈夫な胃腸が必要らしい。
今度のクリスマスには冷凍肉をお願いしよう。
極上松阪肉2kgでかまわない。

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2003/1/13作成
現在位置: 表紙 > 冗談半分嘘半分 > 過去の文章 >お正月の思ひで

「お正月の思ひで」

毎年正月の休みはなぜか忙しい。
今年の正月休みも忙しく、TVを見たり昼寝をしたりおやつを食べたりで、ゆっくり正月気分に浸る暇もなかった。
よく言われることだが、休みが長いと仕事が懐かしく思われる。
確かに、休みがこれほど忙しいなら仕事している方がぼんやりできて快適だ。休みの間は居眠りもサボりもできないのだ。一年中正月だったら私は勤労意欲の塊になるだろう。

仕事始めから一週間がたった。
今では、来年の正月が待ちどうしい。
休み中は早く仕事をしたかったのに、仕事をするとなぜか休みが欲しくなる。きっと私が常に未来にむかって突き進む人間だからだろう。

私は三が日には地元の神社へ初詣へ行っている。
地元の神社は田舎のくせに結構有名らしく、この時期は他県からの参拝客も結構いる。
なんでも「全国一の宮」シリーズの一つらしい。
しかし、道が悪く山道を40〜50分かけて歩かなければならない。最近になってやっと車道が作られたが、それでも道が悪いので軽トラぐらいしか走っていない。ミニ四駆ではまず不可能だ。

はるか昔に書き込んだことがあるが、去年初詣に行った時は、神社に縁結びのご利益があると聞いたので、喜んでお参りに行った。
ガキのころからお参りに行っていた神社に、縁結びができるとは初耳だったが、神様も多角経営するのだろうと思い、まじめにお参りをした。
よく「二重にご縁がありますように」と賽銭に5円玉を二枚出す人がいるが、私は「20(倍)のご縁がありますように」と100円玉を出した。
その直後、友人に「お願いの時には自分の住所と氏名を言わなけらばならない」と聞いて愕然とした。

それから一年が経った。
友人の話しどおり、この一年間めぼしい「ご縁」は無かった。
宝くじもはずれ、面白い本もあまり無く、出合いに至っては町内会の草刈りがあったぐらいである。
今年こそはと意気込んで初詣に出かけた。
その日は朝から天気は曇りで気温も低く、今にも雨が降り出しそうだった。しかし、こんなことで初詣を延期しては神様に会わす顔が無い、と思い出発した。
参拝道の近くに車を止めたときには、雨が降り出していた。神は私に試練を与えているのか?

神社近くにまで来た時には雨は本降りになっていた。しかし、用心して傘を持ってきたのであまり濡れることは無かった。
「私は神の試練に耐え抜いている」そんなことを思うと、今年こそは願いが叶いそうな気がした。

参拝道は一旦海岸まで降りる様になっている。海岸にはまるで海から上がってくるものを迎えるような鳥居があり、その鳥居をくぐって長い石段を上ると神社がある。
その鳥居の近くで、後ろから来るか家族連れ気がついた、身なりの良さから地元の者ではないと判る。
雨の中、傘をささずに30分近くも歩いてきたらしく、全身が濡れていてた。私はこれも神の試練と受け取り、自分の傘をその家族連れに貸した。
私のジャンパーはフードがついているので、多少の雨でも耐えることができた。また、いいことをしたという気持ち良さもあって、石段を登る足取りも傘の無い分軽かった。

山頂付近の神社には、禰宜さんと地元の年寄りがいた、ドラム缶で火を焚いていたので暖をとった。
少し遅れて参拝の家族連れが上ってきた頃には、雨も上がってきていた。
火にあたりながらお屠蘇を頂いたが、冷たいお屠蘇はただすっぱいだけだった。これも神の試練だろうか?

今回も「20(倍)のご縁があるように」と100円を出した。
「良い縁がありますように」
去年の失敗を繰り返すまいと、自分の住所・氏名・誕生日・星座・血液型から携帯の番号やメールアドレスまで神様に伝えた。今年はいい年になるに違いない。
年寄りに、縁結びだけでなく子宝もあると言われ、参拝を進められたが、順番があるのでと断った。
しかし、子宝なんて初耳だった、この先も続々とご利益が増えるのだろうか?この神社は。

すっかり雨が上がっていたので、家族連れから傘を返してもらい、山を降りた。
行きは雨に降られ、傘を家族連れに貸して濡れながら登ったが、帰りは雨も降らず濡れることも無かった。
きっと神が試練に耐えた私を認めたのであろう、今年こそは「良縁」があるに違いない。

新年早々携帯を変えた。
新規契約なので番号が変わってしまい、新番号を教えるためにメール&電話をかけまくったが、連絡がとれないヤツが約6名。
アドレス変更メールの返信は3日たっても1件しか帰って来ていない。

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Copyright (C) 2002 by 杜川月史