今日体重を量ったら、一キロも増えていた。この一週間何も考えずにドカ喰いしたせいだろうか、食べることと体重とは密接な関係があるらしい。密室な関係でないのは確かだ。
沢山食べても、その分運動すれば体重が増えることは無いハズ。最近仕事をサボった記憶は無い、いつも通りだらだらと働いている。
よく考えれば、職場のTさんは普段結構忙しそうにしているのに、やせる気配が無い。運動をすればやせるものではないのかもしれない。それにTさんは時々居眠りをする、もしかすると居眠りをすると太るのかもしれない。相撲取りも食事の後に寝るらしいし、食べて横になると牛になるという格言もある。実際に牛になった人を見たことは無いし、食後に横になる牛を見たことも無いが、牛の中の何頭かは元人間だったかもしれない。人見知りをする人間っぽい牛もいるのだからありえる話だ。
これで分かることは、「食べた分を運動で差し引きしようとしても無駄」「仕事中に居眠りをするのはTさんである」「Tさんはやせない」の3っつである。これらを総合すると「居眠りをするとやせない、やせることもあるが、その場合やせた人はTさんではない」という結果が出る。
ダイエットをする方は、この真理を心に刻むがよろし。
大抵の人は「他人によく見られたい」と思っているハズである。人は見かけで判断するものだ、それなら見た目が良いほうがいいに決まっている、TVで芸能人を見て「あんなルックスだったらな〜」と思う人も多いだろう。
私も同様である、よく「あんな顔に生まれると人生損が多いだろうに」と思うことがある、特に鏡を見た時。
「人間は中身が大切」という言葉もあるが、あまり信じている人はいないだろう。同じ中身なら外見の良いほうを選ぶし、中身が違っていても大抵は外見の良いほうが選ばれるものである。
人間関係で考えると、まず初対面の印象はほとんど外見である、よほど嫌なことをしない限りは「大きい・小さい」「太い・細い」「ハンサム・不細工」などの単純な感想が主であろう。
その後、相手を知るうちに「体格は大きいけど足は小さい」「細いけど大食い」「顔はハンサムだけど音痴」などの細かい部分を知るようになる。
さらに時間がたつと、相手を良く知るようなり「体格は大きい・足は小さい・車は中古・バナナが嫌い・金持ち」「細い・大食い・高血圧・高学歴・犬嫌い」などの微細な部分を知るようになる。
この様に情報をかき集めていくと、本人も知らない側面を知ることもあり、意外な人物像が見えてくることもある。
この時点で「人間中身が大切」という言葉の意味が分かるのである。しかし、これはまだ本当の意味で人を見ていない。さらに相手を知るべく努力を重ねてこの後に来るのが「誰でも中身は一緒」という悟りの境地である。ここでは考えが一周して「中身が同じなら、やっぱり見た目が大切」に落ち着いてしまう。
しかし、世の中の大半は「人間中身が大切」で考えがストップしてしまい、その後に来る悟りに行き着くことは稀である。人間を外見で判断しないことが美徳とされるのは、悟りに達せずに中途半端な所で答えを見つけたと思う人が多いからである。
野生動物を見れば、ほとんどの動物は外見で相手を判断しているのが分かる。特に鳥類がそうである。メス鳥は見た目の良いオス鳥に惹かれるのだ。これは動物の本能と言われているが、それは常に周りを見下す人間の悪い癖で、実際は悟りに達したためであると思われる。
人間だって、人を外見で判断したいのだが、理性が邪魔をして人の内面を重視しようとする。その結果、人を見誤ることのなんと多いことか、誰にでも心当たりがあることだろう。
「この人は外見は良くないが、心はきれいに違いない」と思っていたら、とんでもなく嫌な性格だったり、「この人は見た目は良い、見た目が良い人は性格がイマイチと言うが、この人はそんな風には見えない」と思っていてもやっぱり嫌な性格だったりするのである。
ここにも人間の悪い癖があって、性格の「良い人」と「悪い人」は世の中に半分ずつ存在していると思っている人が多い、実際は性格の悪い人がほとんどを占めている、少なくとも私の周りは悪い人だらけである。皆、私の事を「お前は性格が悪い」と言うのだ、性格の良い人がこんなことを言うはずが無い。
悟った時に知る「誰でも中身は一緒」と言うのは「誰でも性格は悪い」と言うことなのだ。それなら外見で人を選ぶのも無理は無い。
しかし、一部には性格の良い人もいる、性格の悪い人が「性格の悪いヤツ」と言うのであれば、それは「性格の良いヤツ」のことである。つまり私は「性格の良いヤツ」である。
「誰でも性格が悪い」と思う人も、ごく少数存在する「性格が良い人」を知ることが出来れば、考えが変わることだろう、しかし、ごく少数であるために真理に目覚める確率はあまりにも少ないのだ。
今の私が人に邪険に扱われるのは、皆が真理に目覚めていないからだ。私は何も悪くは無い。
この理論は仕事中に熟睡と熟慮を重ねて見つけ出したもので、「アホと言った者がアホなんや」という子供の口喧嘩から導いた物ではありません。
皆さんは驚くかもしれないが、私はSFが好きだ。結構SF本をよく読む。最低でも年間2冊は読んでいる。
今年はすでに6冊読んだから三年分は読んだ計算になる。あと二年は読まなくて済む。
本には様々なジャンルがあります、SFもその一つですが、イマイチSFというジャンルがぱっとしないのは何故なのでしょうか。
本屋さんに行っても、SFのコーナーは日々縮小しつつあります。SFよりもパソコンコーナーの方が大きい本屋さんも少なくありません。
一体どうしてなのでしょう。
世間はSFに対してやさしくないような気がします。私がSFが好きなことを知っている人は、皆私を「変な人」だと思っています。後輩に至っては私の言うことは90%以上が嘘だと思っています。私としては70%程度に抑えているつもりなのに…。
確かにSFはその名にある通り「フィクション」です。しかし、フィクションが好きだからといって「嘘つき」なわけではありません。
世の中にはフィクションの本はたくさんあります。小説はほとんど全てフィクションです。直木賞作家でも書いている内容はSFと同じ「嘘」のはずです。同じ「嘘」を読んでいるのに、文芸書を読んでいる人は「読書家」と言われ、SFを読んでいると「杜川は変わっている」と言われるのは納得がいきません。
また、私のSF好きを知らない人までもが、私を「変わっている」と思っていることも納得がいかない。
SFが他のジャンルと違い、敬遠されるのは「科学的」な部分があるからだとも言われています。
確かにその通りです。SF本を少し読めばわけのわからない単語とその説明がてんこ盛りです。それもほとんどがカタカナ語です。「イミポレックス」・「チップモールド」などと言われてもわけが分からないし、説明を読んでも同じです。普通の小説ならば、大抵の単語は現在の生活に密着しているか、誰でも知っているものを使っています。読む人は特別な言葉を勉強する必要はありません。
しかし、現在でもよく分からない言葉は増え続けています「議員辞職勧告決議案」・「BSE、いわゆる狂牛病」とはどういう意味なのでしょうか。
通常の経済の理屈で考えれば、人気の無いものは廃れていきます。SFの人気は映画だけです。SF本の人気がなくなれば、SF本がなくなってしまいます。SF本が無くなれば、推理小説や時代小説などを読むしかありません。江戸時代にロケットを飛ばしたり、宇宙戦争をする話しがあれば時代小説を読んでもいい。
また推理小説でも犯人が異次元の生物だったり、ロボットが推理するものなら読んでみてもいいでしょう。
そう考えれば、SF本がなくなっても、慰めに読むものがある限りは困ることは無いかもしれない。SF本を読むのは疲れるし。
しかし、SFのジャンルがなくなるのは寂しい気がする。何よりもSF作家が失業してしまう。これ以上失業率を上げないためにも、SFは保護されるべきだ。
そのためには「読みやすいSF」の登場が望まれる。
現在SFが敬遠される理由から、敬遠されないSFを作り出し、ベストセラーとなればSFは生き残るでしょう。そのためには
このような条件を満たせば、普通の人もSFを読むようになるではないでしょうか。
その時にはマンガ本がSF本のライバルになっていることでしょう。
働くようになって10年ほど経つが、未だに学生の夏休みがうらやましくて仕方が無い。もちろん長期休暇が欲しければ取れるのだが、その長期休暇が終わる保障が無いので実行するのは難しい。専門用語ではこれを「プーになる」と言う。
仕方なく週一回の休みで我慢しているが、日曜日は忙しいのでなかなか思うように過ごせないのが難点だ。
会社のオバサンたちは、日曜日の私は一日中ボーっとしていて、昼寝もしていると思っているらしく、しょっちゅうバカにされる。しかし実際の私は一日中ボーっとして昼寝をしているわけではない。昼近くまで寝て、さらに昼寝をしているのだ。もちろんその間はボーっとしている。
人間が他の動物より進歩しているのは、想像力があるからだと言われている。確かに犬やネコが株価の変動に思いをめぐらしているのを見たことは一度も無い。人間の文明がここまで進化したのも、想像力のおかげだろう。私の想像では。
しかし、現実に沿って考えると、人間のもつ想像力は上に書いたとおり大した物ではない。自分の経験にほんの少し着色した程度である。
もちろん想像力の優れた人もたくさんいる。しかし、現実離れした想像力を持ち、それを常に外部に伝えようとする人は、たいてい「誇大妄想」「気がふれた」「おかしい」などと言われてしまう、よくて「面白い人」と言われるだろう。私に対する評価と一致してるのは偶然だろう。
人間には無限の可能性があると言われるが、このように想像力が貧弱なのでは大した可能性ではない。
マンガや小説には想像力の豊かな人がたくさん出てきます。探偵・刑事などがそうです、彼らは僅かなヒントから犯人を見つけ出します。その信じられない能力を身に付ければ、あなたも探偵になれるかもしれません。反対にルパン三世のような天才ドロボウになることも可能です。
しかし、現在の学校教育を見ても、想像力をつけるような方法は全く取られていません。1+1の答えを2と答えるだけです、こんなことは電卓でも出来ます。
「一杯のオレンジジュースと一杯の醤油を混ぜると、美味しくない飲み物になる。結果はゼロに近い」などと答えると、間違いになってしまいます。
これでは想像力は育ちません。
数学でこのような考えをするのはダメでしょうが、それらとは別に、想像力を働かすようなテストをしたらどうでしょう。
「一本道があります、人がすれ違いました。それまでの二人の人生と、すれ違ったその後を想像しなさい。」
という問題を出すのはどうでしょうか。「両方がオカマで愛し合う」とか「殺し合いになり、やがて銀河戦争に発展する」など、様々な回答が出ることでしょう。
「見たことも聞いたことも逢ったこともない『杜川月史』という人を、想像の限界まで褒めなさい」
という問題も入れて欲しいものです。
「どうやって採点したらいいのか」という疑問をもつ人もいることでしょう。
そんなのは簡単です。最後に「何点になるか想像しなさい」とすれば解決です。ただし、一回しか使えませんが。
ここで問題です。
・・・,3,2,1,1,2,3,4,5,6、・・・
と続く数列に何の意味があるか判りますか?前後の「・・・」は数字が続いていくという意味です。
答えは・・・想像してください。
閑話休題
すでに学校教育を終えた一般の方々にも、想像力をつける方法があります。
推理小説が最適です。これは様々なヒントを元に犯人を見つけ、犯行の動機・トリックを考えるるという、想像力を必要とする物だからです。
しかし、最後まで読むのでは意味がありません。犯人を知ってしまえば、せっかくの想像が無意味になります。特に自分の想像と違う人物が犯人だと、気分が落ち込み想像する気力も低下します。それは結構つらいものです。「金田一少年の事件簿」で毎回外していた私が言うのだから間違いありません。
推理小説を読むときは、犯人を知ることが無いように気をつけながら読むようにしましょう。犯人が分からないままだと、いつまでも色々想像することでしょう。眠れなくなるかもしれませんが、眠れない時間を利用して犯人を考えれば、さらに想像力がつきます。
犯人が分かるギリギリまで読むためにも、事前に本をよく読んで犯人が出てくる部分に印をつける必要があります。その部分から後ろを破り捨てるのもいいでしょう。
もし、そのようなことが面倒だという方が多ければ、私が「最後まで犯人が分からない推理小説」を書いてもいいです(二千人以上の署名が必要)。「日本語力をつける本」とか「生きる力が湧く本」が売れるご時世です。「想像力がつく本」もきっとベストセラーになることでしょう。
このことを後輩に話すと、
「皆、面白いかどうかで買う本を決めているはずですよ。杜川さんは面白い物が書けるんですか?」と言ってきた。
それなら「この本を読んで面白くないと思う人は、想像力が不足しています。面白いと思えるほどの想像力がつくまで繰り返し読むこと」という注意書きを加えれば完璧だろう。
さっきの問題の答えは「西暦」です。「西暦元年(1年)」の前の年は「紀元前1年」ですから。
この文の内容から「答えは教えてくれないだろう」「答えは次回にでも教えてくれるだろう」と思っていたアナタは想像力が足りません。
私の周りには、私が変わった人間だと思っている人が沢山いる。私がいくら「普通だ、そっちが変だ」と言っても、皆が皆台風のように私を攻撃する。時には複数で攻撃されることもある。
複数の台風が日本に上陸するとどうなるのかは知らないが、おそらく私の苦痛に比べれば100000倍程度の被害しかもたらさないだろう。しかも台風は天災なので誰にも責任が無いが、私の周りの人は私をいじめることを義務と権利のように思っている節がある。とてもタチが悪い。
皆自分が正しく、私が間違っているという前提で私を攻撃するが、どうして自分が正しいと確信出来るのだろうか。
そう質問をすると、ほぼ全員が「他の人も同じように言っていた」と答える。
もちろんその後には「そんなん常識やろが、何でそんなこと考えるのや?」とお説教が続くのだが…
他の人と意見が合えばそれが正しいのだろうか、多数決で正誤を決定することが正しいのだろうか。
私の周りで私を「変な人」と言う人は断然多い。私の周りで統計を取れば確かにそれは多数派である。多数決なら完全に私が負ける。しかし、日本全体で統計を取ればどうだろうか
Q.杜川月史とはどういう人か?
これで統計を取れば、ほとんどの人が1か2で答えるはずである。と思う。普通に考えても2と4が圧倒的に多いはずである。
ここで多数決を取れば私は「普通のわからない人」となるだろう。
統計はサンプルが多いほど正確さが増す言う常識で考えれば、これはより正確な私の評価となる。変な人だと思っているヤツが変わっていることになっちゃう。
これはなかなか気持ちのいい結果が出た。
もし5が多数を占めれば、昼食はジンギスカンにするだろう。
3が多数なら「変な人」の意味を180度変えてやる。そういう辞書を作って世間にばらまく。絶対やってやる。
よく考えれば、日本の政治も多数決による民主主義政治だと言われているが、本当にそうなのだろうか。
実際のところは「国民の1%に満たない人たちの多数決で行われてる」のが政治なのだ、これが国民全体の多数決と同じとは言えない。その証拠に気持ちよく消費税を払っている人はほとんどいないはずである。そうでしょう?
つまり、多数決は絶対ではないのだ、状況を変えればいかようにも結果を変えることが出来る決定方法である。
だから私を変な人と思っている人も、本当は自分は少数派かも知れないと思って、一連の発言を控えるようにしていだだきだい。世界中の人から統計を取れば、私もアナタも同じ結果になるのだから、仲良くしましょう。
今思いついたのだが、辞書って沢山の言葉の意味を載せているけど、それぞれの辞書によって内容にばらつきがあるんですよね。有名なのが新明解国語辞典の「恋愛」の説明。
興味がある方はどうぞ調べて見てください。多分笑いますよ。
言葉は常に変化するもの「辞書に載っている」ものだけが言葉だと思っていると、言葉は進歩しません。
「日本語が乱れている」なんて言っていないで、新しくよい言葉を創るのもいいんじゃないかなと思います。
そこで、私も自分に都合のいい内容の辞書を作って、世間を変えていきたいと思います。
もちろん一人では出来ないので仲間を募集します。しかし、意見が分かれたときに私の意見が無視されるのはイヤなので、人数は0.6人程度がいい。
最初の言葉は「愛」
愛 ⇒ 特定の人や物を理論によらず直感でえこひいきする事。「愛しているから」と言えば大抵のことは許されるらしい。
こんな感じ。誰か一緒にやりませんか?
お盆休みには友人が帰省することもあり、結構外食する機会が増えます。
職場では弁当を取っているので外食することが少ない私にとって、外食する時は結構慎重になります。ハズレの店に入った時は次の外食まで後悔を引きずらなければならないからです。
私は外食に対しては厳しいほうです。いくら安くても店が汚かったり、店員の態度が悪いのでは評価が低くなります。
安い店で我慢して食べるくらいなら、綺麗な店で美味しい物を友人のおごりで食べた方が遥かにましです。
おごりであったとしても、あまり我慢が要求される店は評価が低くなります。
私はかなり我慢強い方で、職場でのいじめ(主に独身であることでTさんに非難される)・家での扱い(省略)・社会的な我慢(税金やローン)・日常的な我慢(朝起きる事と仕事に行く事)に絶えています。
痛みにも我慢強く、蚊に刺された程度ならば蚊に刺された位にしか感じませんし、他人の痛みならばほぼ無限に我慢する自信があります。
しかし、食事に関する我慢は別だと言えます。
特に我慢できないのが『並ぶ事』です。
先に挙げたように我慢強い私ですから待つこと自体はたいして苦にはなりません。むしろ待ち続けるのが好きな場合もあります。
夜に布団の中で睡眠を取りながら朝を待つ事は私の生きがいの一つです。空が明るくなって来ると『もう少し待ってあげてもいい。いやむしろ待たしてくれ』と思うほどです。
それでも店に並ぶのはイヤです。
食欲は動物の本能の最たるものです、腹が減っては戦どころか寝ることも生きることもできません。もちろん食事も取れなくなるのです。
空腹を抱えたまま並んで食事を待つというのは、本能を後回しにして生きることになります。
理性を前面に押し出し、本能を後回しにしていると、ストレスが溜まります。
ストレスは厄介なヤツで、ストレスがあると感じるとストレスが発生し、ストレスをなくそうと思うとストレスが発生するそうです。
空腹すら相当のストレスなのに、並んでストレスを増やしていては、いくら栄養がある食事でも体にいいはずがありません。そのためには並ばずにすばやく空腹を埋める事が肝心です。
そのためにも食事時に並ぶのはよくない。
特に暑い最中店の外で列を作って待つなど、最悪ではないでしょうか。暑さ・空腹・前の人の背中と周りの人の「そんな並んでまで喰いたいんか」という視線、これらが体に与える悪影響はパソコンによる電磁波以上でしょう。職場のIさんの毒舌よりは安全ですが…。
私が並ぶの嫌がるのも理解してもらえたと思います。私が不幸な星の元に生まれた事も理解していただけると幸いです。
そこで、店側にも並ぶ人のために色々工夫をしていただきたいものです。
本来は店の回転を早くして、沢山の客を短時間で帰らすことができればいいのですが、私までもが素早く追い返されるはイヤなので、待つ時にストレスを感じない工夫がよいでしょう。
まず、待つ人のために専用の部屋を作る。
中には椅子などを置いて座れるようにし、退屈しないようにTVなども設置して欲しいものです。当然エアコンも必要です。
待ち時間の間に腹が減った人のために、食事を無料サービスしてくれれば最高でしょう。
それなら店の料理が多少まずくても私は文句を言いません。我慢強い人間なので…。
前回も書いたが、私は外食に関しては厳しい。
以前は今よりもっと厳しい条件で外食をしていたため、入り口のショーケースの前で、見本を見ただけで店に入らずに帰って来ることもしばしばであった。
しかし、それではいけないと気づいた。
ショーケースの中の見本はあくまでも見本のろう細工であって、料理そのものではない。やはり味わってから評価をするべきだったのだ。食べる以前に自分で勝手に条件を掲げて店を選んでいたあの頃の私は若かった。
現在は以前の失敗を繰り返さないように細心の注意を払って行動している。財布の中身が千円以下にならないように。
盆休みに買い物に行ったついでにレストランで食事をした。
地元の情報誌にたまに載っているイタリアンレストランだ。名前もイタリアの地方の名前になっている。この店に入るのは初めてだったのだが、一度食べて知っておきたいと思いよってみた。
午後1時半だというのに店の中は満員状態だった。空席待ちだったらすぐに帰っただろうが、運良く空きがあったのですぐに座れた。見た目より意外と中は広く、天井も高かった。
カウンターの壁には大きなTVがあって『トムとジェーリー』が流れていた。音声は無し。
この店に入って気がついたのがカウンター前の『今日のお勧め』。
大きめのボードに20品も書いてある。テーブルの上にあるメニューも品数が多い。これは『杜川による一般外食論』の第12項にある「メニューの多さと食後の後悔量は正比例する」に触れる内容である。
一般外食論第12項を要約すると「沢山のメニューから食べれる分の料理を選んで食事をした場合。食後に『他のものを選べばよかった』と後悔することが多い。また品目が多いほどはずれの料理も少なくない。美味くても他の品が食べたくなる。よってメニューが多い店で食事した場合、食後に後悔する量はメニューの多さに正比例する」というものである。
全文は「沢山のメニューから食べれる分の料理を選んで食事をした場合。食後に『他のものを選べばよかった』と後悔することが多い。また品目が多いほどはずれの料理も少なくない。美味くても他の品が食べたくなる。よってメニューが多い店で食事した場合、食後に後悔する量はメニューの多さに正比例することが多い。私の場合」である。
結局、Aランチを選択し注文をする。忙しい時に単品を頼むと待たされることが多いからだ。我ながら賢い選択だと思った。その時は。
注文をすると「ランチは時間がかかりますが…」との返事。なぜ?
仕方なく「マグロと白ねぎのパスタ(うろ覚え)」を注文する。ボードのある『今日のお勧め』の中にあったものだ。
料理が出てくるまでの待ち時間に、私は店の中を見回した。
メニューは取り上げられ、見るものは壁の大きな絵とTVの『トムとジェリー』だけ。テーブルの上にアンケート用紙はあるが、鉛筆は無し。
客は様々な組み合わせであった。親子連れ・カップル・中年夫婦・青年一人だけ…人の数だけ物語があると言うが、ここにいる客はいったいどんな人生を歩んできたんだろうか…。
様々な人間模様に思いをはせながら、私はトムがメイドにホウキで叩かれるのをかわいそうだと思った。あれはジェリーが悪い。
この店では人は必ず何かを得て変えることだろう。私も普通に暮らしていればとても知ることがないような大発見をした。
『トムとジェリー』は音声がなくても十分理解できるマンガなのだ。これは『ハクション大魔王』に続いて2つ目である。
子供の時から『トムとジェリー』は見てきたが、音声無しでも十分だと思ったことはなかった。このレストランのように、連続で6話も見せてもらえたからこそできる発見だったのだろう。
そしてもう一つの発見は「ランチは時間がかかりますが…」の真意が「ランチは時間がかかりますが、それ以外はもっと時間がかかります」だったこと。
人の話は最後まで聞かなければならないという教訓。
こうして有意義な時を過ごして私は店を出た。この新鮮な気持ちを大事な思い出として心の中に封印するつもりだ。
ついでに封印が二度と解かれないように、鍵付きの金庫に入れ、コンクリートで固めて深い海の底に大事に隠しておきたい。それほど私の心が揺さぶられたのだ。
「このすばらしいサービス満点のイタリアンレストランに、必ず友人を連れてこよう、いや、引きずってでも連れていく」と誓った真夏の午後3時のことだった。
人間はミスをする生き物です。どのような完璧なマニュアルがあっても、何故かミスは発生します。
その原因は『うっかり』とか『勘違い』だったりと様々です、注意していれば防げるミスも多いのですが、何故かミスはなくなりません。
私もごく稀にミスをすることがあります、大小含めると一時間にわずか4回程度です。
先日も仕事中に眠くなり、一瞬意識が遠のいてシャーペンを落としてしまいました。これからはシャーペンを落とさずに眠るように気をつけなければと、深く反省しているところです。
ミスと一口に言っても大小の程度があります。小はほとんど意味がないミスで、電気を消し忘れたとか、ちょっとした事を忘れるなどです。それから段々程度が大きくなり、連絡ミスや確認ミスがあり、最大のものは下手をすると地球がなくなるようなミスです。
何をすれば地球がなくなるのかはわかりませんが、私も地球を亡くすことのないよう、細心の注意を払って日々を送っています。今のところ地球が亡くなったというニュースは聞かないので、私の努力は効いているようです。
前例のないミスを防ぐことほど難しいことはありませんから。
ミスを防ぐためには、ミスした時に反省をする必要があります。何が原因なのかを突き止めないと、防止策が取れないからです。しかし、原因が解らないミスもあります。
例えば原因不明のぐうたらとか原因不明のサボりなどがそうです。
後になっていくら考えてもこれらの原因が何なのか全く思いつきません。
ただ『眠たかった』『やる気になれない』としか考えられません。そしてそれらについて考えることもめんどくさくなります。おそらくこれらを防止するのは不可能に近いのでしょう。
また原因がわかっても防ぎようのないミスもあります。
例えば暑さによる『だるさ』です。夏が暑いのは当たり前ですが、だからと言って元気になれるはずもなく、脳みそが茹るような暑さの中で、体を引きずって働くしかありません。
暑さを防ぐには、夏季だけ会社をオーストラリアに移動させるだけでいいのですが。『オーストラリアより北海道の方が涼しい。いや、日陰なら我慢できるだろう。とりあえず社長室と会議室だけエアコン入れとけばいいんじゃない?あとは扇風機で充分だろうし』という上司の考えのせいで、現実しないのが至極残念です。
他にも『寒さ』『眠さ』『ボーナスカット』『見たい番組がある』など原因はてんこ盛りです。
新聞で企業や政府などでミスや不正があると、当事者はもとより責任者までもが解雇されたり左遷されたりします。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。
防止策をいくら作っても、抜け穴はあるものです。人間を変えて規則を強化するだけでは不十分な気がします。
空き巣の手口を最もよく知っているのは空き巣です。同様に不正の手口を知っているのも不正を行った人です。また、ミスをした人も他人に言えないミスをいくつも抱えているに違いありません。そういう人たちが防止に取り組めば、結構有効な防止策が作れるのではないでしょうか。
よその部署から回された、ミスや不正の経験がない人材ではそれほど有効な防止策が作れないような気がします。それにミスを何回も繰り返せば、後始末に慣れて重大なミスを簡単に埋め合わせる方法が見つかるかもしれません。
重要な事態にこそ経験者が必要なはずです。ミスや不正があったからと、慌てて首を挿げ替えるより、まず当事者で防止策を作らせたほうが宵のではないでしょうか。
私も職場ではミスを防ぐために、日ごろから様々なミスを重ねて、防止策を考えているのですが、何故か上司には理解されていません。
最近では効率アップも含めて実験を行っています。効率を上げれば時間に余裕ができて、余った時間で居眠りがしやすくなるからです。
努力の成果があって、居眠りは日常的にできるようになったのですが、効率を上げることはまだできていません。ミスも着実に増やしているが対策が全く思いつかないでいます。
能率アップとミス防止は全ての組織の永遠のテーマです。完成までには長い時間が必要となるでしょう。
更に努力を重ね、居眠りとミスのプロと呼ばれるようになりたいものです。