色々あって、30を過ぎていまさらとも思うが英語を勉強したいと思うようになった。
しかし、田舎に住むものにとって英語学習は茨の道である。
駅前留学でもしようと思ったが、最寄の駅は無人駅(かろうじて単線ではない)で周囲300mは田んぼである。こんなところで駅前留学したら農業とカエル語に詳しくなってしまうだろう。
やはり独学しかないと思い、勉強方法の書かれた本を読むことにした。本屋に行くと英語学習に関する本は売るほど並んでおり、どれを読めばいいのか皆目見当も付かなかった。立ち読みするにも数が多すぎる。
もし、買った学習方法の本が自分に合っていないとお金がもったいないので、図書館でいくつか借りて読んだ。
色々と学習本を読んでいて思ったのだが、これほど学習方法が多様にあるということは、人それぞれに適した学習方法を選ばなければ英語を習得できないということではないだろうか。どういう方法を取ってもちゃんと英語が身に付くなら「とにかく勉強しろ」の一言で住むはずである。
これほど沢山の学習方法があるにもかかわらず、学習方法を選ぶ方法を書いた本は見つからなかった。
どういう勉強方法が向いているかを知るにはどうしたらいいのだろう?著者にとって最適な学習方法が私に適しているとは限らない。
好きな小説家とか嫌いな深海魚で英語方法が判断できないものだろうか?
こういう場面でこそ血液型・星座などの分類法が生かされるべきなのに、それらしい本も見当たらない。占いコーナーも廻ってみたがどうでもいい占いばかりに使われて、てんで役に立たない。
こうなると自分で慎重に学習方法を選らばなければならない。
学習方法を決めるためにはあらゆる学習方法を知る必要がある。しかし、英語を習得するのに1ヶ月やそこらで達成できるはずはない。外国人で生後一ヶ月で英語を話せたなんて話は聞いた事もない。
そういうアヤシゲな学習法を除いても、まだ山ほどの学習方法がある。私にとって最適な学習方法がどこかにあるはずだ。最適な学習方法が見つかるまで探し続けなければならない。勉強とはまさに茨の道である。
しかし、沢山の本を読むには当然時間がかかる。短時間で本を読むためには、速読術を身につける必要がある。そうしなければ10年経ってもまだ学習法の本を探し続けているかもしれない。
速読術読んで、すばやく沢山本を読んでも記憶力がイマイチでは意味がない。実際私は記憶力には自信がない。仕事で物忘れによる失敗も数多いはずであるが、あまり覚えていない。もし、全て覚えていたら恥ずかしくて会社に行く勇気も湧いてこなかっただろう。そういう意味では忘れっぽくて助かっているくらいである(「忘れなければ失敗もないだろうが」というツッコミは忘れてもらいたい)。
結局、方法を覚えられないと何度も同じ本を読まなければならないのだ。コレでは先に進まない。英語が遠のくばかりである。
速読術を身につける以前に記憶力をアップさせる必要がある。
記憶力をアップさせる方法も沢山あるようだ。本屋には何冊かそういう類の本が並んでいた。
早速、記憶力をUPさせる本を借りに図書館へ行った。目当ての記憶力と速読術・英語学習の本を手に取り、ついでにと他の棚も廻ってみた。
面白そうな本が結構あったので、それらも借りようとしたら貸出し制限を越えてしまった。仕方なくつまらなそうな本を3冊あきらめた。
というわけで記憶力・速読術・英語学習の本はいまだに一冊も読んでいない。
読書好きにとっては英語学習は茨の道である。
去年はクラシックが流行った年だった、
モーツァルトが流行り、クラシックが題材のドラマが放送されたりもした
流行りに敏感なYoswiも着メロがベートーベンに変わっていた
ドラマになった「のだめ…」は3年ほど前から知っていたのでクラシックが流行るだろうとは予測していたが、チャイコフスキーは100年以上前にこの事を予測していたしモーツァルトやベートーヴェンに至っては240前から判っていたようだ。さすがに天才達は違うなと感心した。
もし、彼らがこの21世紀に生きていたとしたら、朝から晩までTVに引っ張りだこになり、盆と正月一緒に来た様な、てんてこ舞の忙しさだっただろう。
クラシックが流行ったと言っても、住んでいるところが田舎なので、ほとんどの人はクラシックを楽しもうとはしていない。ブームに乗ってモーツァルトのオムニバスのCDを買った人は多いだろうが、ほとんどは流行りに乗るためだったり、癒しを求めて買っているのであって、それを聞いて楽しむ人などほとんどいないだろう。
クラシックを聴くのに頭を使う必要はない。誰が作曲したとか、どんな時代だったとか、そういう事を考えていてはクラシックを本当に楽しむ事は出来ない。ただ流れる音楽に耳を傾ければそれでクラシックは楽しめるのだ。
私はこう見えてもクラシックを趣味としており、昨日もTVでクラシック音楽を聴いた。
CMだったので時間は十数秒だったが、クラシックを楽しむにはちょうどいい時間だと私は思っている。
曲名も作曲家も全く知らないが、心から楽しんでいるのは事実である。
数多ある趣味の中でクラシックにはたくさんの長所があると私は思う。
○最近の歌謡曲のように移り変わりがほとんどないし、カラオケで歌わなくてもいい
○スポーツみたいに実技を必要としない、ただボーっとしているだけでいい
○年代、作曲家、指揮者、楽器など情報が信じられないほど多いので、知らない事があっても恥ずかしくない
○周りに同じ趣味のひとがいないので、実は何も知らなくてもバレない
これらの長所に比べれば、クラシックの短所など些細なものばかりである、ざっと頭に浮かんだだけでもわずかに200個程度である。
今後、更にクラシックが流行って、有名でない曲や、いろんな理由で聴くことの出来なくなった曲が見直されて、幅広いジャンルの曲が簡単に聴けるようになればいいなと思っている。
特に笠置シズ子の唄が復活することを私は心から願っている。
人は誰にでも欠点はあるものだ、かく言う私も多少の欠点を持っている。
『多少』とは言っているがそれは謙遜しているからであって『多』よりは『少』の方に傾いているのは言うまでもない。
私の欠点はわずかに4つである。
簡単に挙げれば
たったコレだけである。それ以外については全く問題がないと言っても良いくらいである。
しかし、欠点が少ないからといって安心してはいけない。欠点は無いに越した事が無いのだ。たった一つの欠点が全てに影響する可能性があるのだから。車だって車両全体の1%も占めていないキーがないだけで動かないのだ。
私は自分を高めるべく、タダでさえ少ない欠点を取り除こうと努力している。
近年は運を少しでも良くしようと「神社めぐりの旅」をしている。
神社めぐりでどれほどのご利益があったかと考えてみると、ここ数年は何も起こっていない。有難い事である。
何もないのに有難がるのは不思議に思えるかもしれないが、常に不運に見舞われる私の視点から見れば、現在こうやって生きている事が何よりのご利益である。
この一年間は身内の不幸で休んでいたが、来月に再開するつもりである、発表するのは2007年6月になると思う。再開すればさらにご利益を得る事が出来るだろう、そうすれば奇跡が起こって平均寿命まで生きられるかもしれない。
最近私が直そうと思っている欠点は性格である。
私は自分の性格が良くないと思っている。当然取り除くべき欠点だとも思っている。
今年に入ってから、私は性格や人格に関する本をいくつか読んだ。性格を良くするには悪い原因を見つけなければならないからである。幸い、数年前から人間関係や性格分析に関する本が何冊も出ていたので、簡単に図書館で借りる事が出来た。
今まで私は周りの人間(特定はしないがIさんがこの文章を見つけないことを祈る)が性悪でイジワルに見えた場合「この人は異常だ、絶対おかしい」と思っていた、思うと同時にその人を見下している自分もまた性悪に思っていた。他人の事はどうにもならないが自分の悪い部分だけでも直せるならとの思いもあった。
借りた本を読んでみる(当然、難しい部分と都合の悪い部分は飛ばして読んだ)と、意外な事が分かった。
私の周りの人たちが、ことごとく本の中に出てくる「良くない人」に当てはまるのである。当てはまらないのは超可愛い姪っ子ぐらいだった。
読後は私の考えが180度変わって・・・ということも無く、「やっぱりこの人は異常だ、本に載るぐらいにおかしい」と思う程度になってしまった。
その後、改めて別の本をいくつか読んだが、自分を戒めるような結果には至らなかった。逆に他人をみては性格を分析しつつ、その人を見下している自分がここにいたりする。
私は性格が悪くなっているだろうか?いやそんなハズは無い、これらの本にはそのような効能は無いはずだ。本の裏にそういう説明は書いてないし、性格が悪くなる本がベストセラーになるはずが無い。
私の性格が良くなって来ているので、周りの人たちが低く見えるに違いない。このままこの類の本を読み続ければ、性格はどんどん完璧に近づいていくだろう。
私の数少ない欠点から『性格』が消える日もそう遠くは無い。
人は見かけで判断されるといわれているが、何も人間に限った事ではない。
ツバメの世界では長くて綺麗な尻尾をしているオスがモテるらしいし、孔雀にいたってはやりすぎなくらいにど派手さを競っている。
『見かけ判断してはならない』とは道徳的にもよく言われることであるが、私もまた外見で判断しているクチではある。理性ではわかっていても本能が私に命令するのだろう、やはり外見の悪いヤツよりかは美しくて長い尻尾をしたツバメのほうが好みだから。
同じ外見で良し悪しを判断するにしても、尻尾で決めるツバメと違って人はそう単純ではない。
顔もさることながら、体格や手足の形、人によっては耳の形で判断するのだ。これほど多いとどれを重点的によくしたらモテるのか全く予想が出来ない。不細工な私としては頭を悩ますところである。
また、人には動物にはない「身につけている物」という見方あり、それが人によっては大きな影響力を持っていたりする。
同じ時計ならブランド物の時計の方が印象が良いだろう。それ以外にも靴や服、車に至るまで人の持ち物が他人に与える影響は少なくない。
どの品がどのような印象を与えるかは時代によって変わっていく、今では普通の破れたジーンズは20年間なら「乞○の格好(某高齢者談)」と言われていたのだ。その逆に昔は誰もがあこがれたアイテムでも、今ではお話にならないくらいすたれた物も沢山ある。例えば勾玉やかんざしなどである。
あらゆる時代を通じて共通しているのは「高価なものほど良い」という考え方である。この考え方に異を唱える人はほとんどいないであろう。
『見かけで判断してはならない』と言われるように、外見や持ち物でその人を決め付けるのはよくないはずだが、ブランドを求めたり整形が当たり前になっている今の世の中を見れば『人は見かけである』と言っても間違いだとは思えない。かえって貧乏人のひがみと思われてしまうだろう。
同じような外見・機能を持つ腕時計が2つあるとしよう。片方は安く、もう片方は高い。そういうのはよくある事で、大抵は高いほうがブランド物である。安いほうが数万円だとしても、高い方は数百万円していたりするのだ。
高価な品が高いにはもちろん理由がある。
安い製品がこの反対であることは言うまでも無い。
物の価値をお金で表すだけではただ「高い・安い」としか考えられないが、最近流行しているエコロジーの視点から見れば別の考え方が見えてくる。
効率が悪いという事は、それだけ時間がかかっており、当然電力や輸送などに余分にエネルギーを使用していると言える。エネルギーとは石油等の資源の事である。もちろん材料も資源である。資源を使うのだからその分高くなるのは当然である。
お金がかかるということは、それだけ資源を消費しているという意味になるのだ。
高価なものが資源を消費しているのならば、逆に安いものは資源を節約していると言えるのではないだろうか?
簡単に考えるならガソリン代に置き換えればよいのである。とりあえず130円で1gとすればよい。
52万円の腕時計と2万円の腕時計なら差額は50万円、ガソリンにしたら約3840gである。安い時計を買うだけでこれだけのガソリンを節約した事になるのだ。あまりの数に計算していた自分が驚いてしまった。
高価な物を身につけている格好いい人よりも、安い服を着ているだけの人のほうが地球にやさしいのである。
今、地球は未曾有の危機にあると言っても過言ではない、温暖化や資源の枯渇が予測される未来を考えれば、高価な物を買う事がどれだけ地球をいじめていることになるのか…何でも手に入る日本において、少しはこういう事を考える人がどうして今まで現れなかったのだろう?私は天才か?
この文章を読まれた方は、明日からは心を入れ替えていただきたい。高い物より安い物のほうがエコロであると、安っぽい服を着ている人がいてもそれは地球に優しい人であると。
この考え方が世に広まれば私が安っぽい格好をしていても、誰も馬鹿にしなくなるはずだ。
次はブサイクな男がモテる屁理屈を考えなければ!!
近頃は大人でもゲームをするのが普通らしい。
私はほとんどゲームをしないので良く分からないが、最近のゲームはただのゲームではないようだ。
なんでも脳を鍛えられるらしい、以前から子供がそういうゲームに熱中しているのは良く知っていた、昨年の祖母の葬儀で親戚が集まった時に従弟の子供たちがやっているのを見ていたからである。
当然のように「やってみー?」と子供たちに勧められたが、使い方が分からないのとゲーム機があまりにも小さいので丁重に断った「んなチマチマ事、大の大人ができるかってんだ!(江戸っ子風に)」
当時は子供用だと思っていたが、どうやら大人も脳を鍛えるゲームをやりだしたようで、会社でも子供のゲームで脳を鍛えているという話を聞くようになった。
大人がやるゲームならば相当難しいのだろう、知識や深い洞察力が試されるだろう。と私は思った。
将棋やチェスなどのようなゲーム、あるいは矛盾を探し出すような推理系と想像していた。
しかし、話を聞いてみるとそれは計算とか記憶力が試されるゲームで、私が思っていたのとは違う内容であった。何よりも不思議だったのは点数らしきものが脳年齢と言われ、その脳年齢が少ないほど「勝ち」とされている事であった。
脳年齢が少ないほうが良いというのは納得がいかない。人間を含む高等とされる生物は高い記憶力や知恵を持っているからこそ「高等」と呼ばれるのである。平たく言えば経験が蓄積されるからこそ偉い生き物であるはずだ。積み重ねられた経験があるからこそ大人は子供より賢く、さらに年を重ねれば老獪と言われるのだ。
身体能力で考えれば若い方が有利なのは間違いないが、思考力ならば年齢が高いほうが有利なはずである。
しかもこのゲームは慣れるにしたがって脳年齢が下がるように作られているらしい。脳を鍛えているはずなのに幼児化しているとは一体どういうことなのだろうか?もしかするとこれがゲーム脳を鍛えているという事なのだろうか?
いや、本来は深い洞察の元に答えを導き出す事が正しく、脳年齢が高い事そこが勝ちであって、ほとんど考えずに反射神経のように画面をつついているだけでは賢くなれないという意味であのような点数になっているに違いない。
つまりゲームをやっている人全員が大きく勘違いしているのだ。ゲームによる脳の幼児化によって。
私はこのゲームをまだやった事がないが、やるなら高得点をたたき出したい。どれくらいが賢い年齢となるのかは不明だが、100歳程度では人として普通のような気がする。やはり伝説レベルの年齢を目指したいものだ。旧約聖書ではノアは900歳以上生きたらしいし、日本の神話でも武内宿禰は300歳以上であったとも言われている。これくらいの点数を出せば子供たちもびっくりするはずである。
最低でも100歳は越えたいので、このゲームをやるのは100歳の誕生日を越えてからやる事にしよう。いや念のため120歳を越えてからの方がいいだろう。
始めてやるゲームで300歳以上の点数をたたき出し、周りで見ている点数30歳程度の若いヤツラをびっくりさせてニヤリとしたいものだ。