過去の文章

2006/2/17作成
現在位置: 表紙 > 冗談半分嘘半分 > 過去の文章 正しい名前を

「正しい名前を」

一体どのくらいの種類があるのかはわからないが、地球は生命に満ち溢れている。
地の果てまで行っても何かしらの生命体は存在しているだろう。
図鑑を少しめくるだけでも見たことのない生き物のオンパレードである。
図鑑に載っている動植物だけではなく、普通には見えない生き物(小さい虫や細菌等)・普段見かけない生き物(深海魚・高山植物等)・過去に絶滅した生き物(恐竜・猿人等)まだ未発見の生き物・幻の生き物(ヒバゴン・川の主 等)などを加えていけば両手両足を使っても数え切れないほどの生き物が存在している計算となる。
ダーウィンの進化論が真実ならば、現在もその種類は人知れず増え続けているはずである。
天地創造論が真実ならば、神様はやりすぎである。創造がどれほど楽しかったのかは知らないが、数え切れないほどの生き物を作る必要は無かったのではないだろうか。いったい何本指を持っているかと言いたくなる。

図鑑を見ていて気づいたことだが、動物のネーミングには法則のようなものがるらしい。

このように動物にはある程度の法則にしたがって名前が付けられているようなのだが、中には納得のいかない名前の動物がいるのも確かである。
名前自体が意味不明ならまだ我慢が出来るが、変に誤解を与えかねない名前も存在しているのだ。

また、動物の存在自体を軽んじているネーミングも存在している。

外国の名前で「Mc」や「son」が付く苗字は「○○の息子」という意味があるのだが(例:McDonald's=マクドナルド)、上にあげた動物達は「○○のニセモノ」というレッテルを張られて、標準とされる動物よりも格下に扱われている。
発見される順序が違えばもっと良い待遇を受けていただろうと思うと、彼らが不憫でならない。

上に挙げた名前たちよりもさらに納得のいかない名前を付けられた動物達が存在している。

名前を調べているうちに解ったのだが、動植物の名前(というか呼び方)には2種類あるらしい。
一つは我々が普段使っている『和名』と言う呼び方。日本語の犬が英語ではDogになるように、それぞれの国・地域で名前が違ってしまう。
もう一つは世界で統一されている『学名』と言う呼び方。学名はどの国に行っても同一の物を指すという決まりになっている。「ニッポニアニッポン」がトキの学名であるのは有名。
和名には強制力は無く、どのような生き物を何と呼んでもダメという事は無いそうで、秋田犬に向かって「これはテレスコだ」と勝手に決めても怒られないのだそうだ。
つまり図鑑に載っている動物もその名前は「誰かが勝手に付けた名前」であって絶対に守らなければならないという事は無いのである。
これだと生物のテストで生き物の名前を「ステレンキョウ」と書いてもXに出来ないはずである。学名ならともかく「和名には正解がない」のだから。

ならば、上記のような誤解を招く名前や、動物に対して失礼極まりないヘンテコな名前は早いうちに改めるべきである。この先、これらの動物達が有名になった場合にかなり笑われる可能性があるのだ。
どこかのおバカなヤツが笑いのネタにしないうちに、正当な名前にしてあげるのが人としての情ではないだろうか。
私は動物たちの名前を正すべきだと強く主張する。

百獣の王ライオンがネコ科というのもいかがなものだろうか?

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2006/3/23作成
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「春なのに」

もう3月も下旬になり、少しづつではあるが春の近づく気配を感じるようになった。
鶯の初鳴きもあったし、春一番も吹き荒れて梅もほころび始めている。足音は忍ばせているものの確実にヤツは近づいてきている。
ほとんどの人は『春』に良いイメージを持っているだろう。正月に新しい年を迎えて2・3ヶ月たち、いまいち去年と違いが実感できない人々が、寒さも和らぎ新芽が芽吹くこの時期に目に見える形で変化を感じて「そうだよ、これからなんだよな」と本当の新年を迎えた気になるためである。
しかし、世の中の全ての人が春を心の底から喜んでるわけではない、変化を望まない人もいるし、様々な理由で喜べない人(おでん屋・雪だるまなど)もいるのだ。そして私もまた『春』の訪れる喜びを素直に受け止められない人の一人である。

私が春を喜べない理由は、ただ単純にひねくれているとか固定資産税を払う時期が近いからだとかそういう簡単な理由からではない。ましてや桜が大嫌いだとか一日中眠いからというワガママでもない。もっと内面的な問題である。
繊細な私と違い、心の造りが大雑把な人には理解できないかもしれないが、春は物悲しい季節である。
晩秋の落ち葉に哀愁を感じるのは、物事を表面でしか理解できない人である。そういう人にとって春の訪れは心ウキウキだろう。
私のように深い洞察力を持つ一部の人たちは、春にこそ悲哀を感じるのである。
木々は芽吹き、動物達が活動的になるこの時期は、希望と生命力あふれる時期ではあるが、それは近い将来に訪れる終末にむかっての第一歩を踏み出したに過ぎないのである。
昔の人は「世は諸行無常である」とあらゆる事の刹那さを説いている。
この広い宇宙に流れる広大な時間の流れの中で、我々が生きている時間は瞬きほども無いごく短い瞬間である。その中の一年の1シーズンともなれば、あったかどうかも分からないほどの時間ではないだろうか。わずか10日前後で散ってしまうソメイヨシノの花の短さと、それに一喜一憂する人の心情を思うと、私の心は物悲しさでいっぱいになり、あふれる涙と鼻水が止まらない。

春は物悲しいと書いたが、私にとって春は何もそれだけではない。
先にも書いたように、木々が芽吹き空も青さを深くして雲の白さを際立たせている。
冬の間は、あらゆるものがセピアかモノトーンに見えていたのに、春になるといきなり世界がカラフルに見えるから不思議である。
陽光の具合が季節で変わるのだろうか、それとも私の繊細な感受性のなせる業であろうか、とにかくこの時期になると、あらゆる物の色が強調されて見えてくる。光線がきついためか、あるいは強調されたカラフルさが目にとっては刺激となるのか、目をしばたきこすってしまう事が多くなる。
コンタクトをしている人なら解ると思うが、コンタクトをした目をこすると目がかゆくなり少々腫れてくる。眠さも合わせてかなり目をこすっていると思う。

春の影響は、心情や自然から受けるものだけとは限らない。私だけではなく周りの人々も春という季節に大きな影響を受けているのだ、その人々が私に及ぼす影響も少なからずある。
繊細な私と違い、春という季節をウキウキしながら過ごす人たちは、この時期になると活発になる。特に活動的になるのは会話である。
冬の寒い時期は口をあければ寒い寒いと言い続けていたおしゃべりな人たちが、寒さを話題にしなくなると別の事を話題にするのだ。また、気候がよくなったため縮こまっていた体がほぐれ、不要な話でもはずんでくるのだろう。寒い時は用件意外を口にするのは億劫なのだから。
この時、冬の寒さでガマンしていた会話の欲求を果たすべく、人々はあらゆる場所で色々な会話を繰り広げている。特に話題になりやすいのが噂話であろう。ある事、無い事、さらに無い事を話続けて尽きる事はないだろう。日が長くなるのも会話が長くなる要因である。
世間での噂話が極端に多くなるため、この時期は私は噂をされまくられてクシャミが止まらない。

このような症状は私だけかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
春になり新緑が目にキツイと思う人は意外と多いようで、この時期になるとサングラスや不思議な形をしたメガネをかける人をちょくちょく見かけるし、マスクをして噂話の自粛を表明している人も最近かなり多くなってきた。
ただ、春の陽気とは裏腹の諸行無常を感じている人はほとんど見かけない。
世間が私のレベルにまで追い付くにはあと数年はかかりそうである。


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2006/4/12作成
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「逆に考える」

最近(と言ってもこの2日のことだが)私は『物事を逆に考えれば、一見複雑に思える事も簡単に理解できるのではないだろうか』と思い始めた。
実は2日前より胃腸風邪(らしき病気)を患っており、物を食べると腹痛と下痢に襲われる日々を送っているのだ。
熱はそこそこでセキ・クシャミなどの症状はあまりないのだが、食べることだけが辛くなってしまっている。とりあえずおじやと味噌汁の汁のみで生活をしている。
ナゼ病気になるのだろうかと考えれば、ウイルスや免疫、さらにDNAなどの複雑な事が頭に浮かんでくるだろう。本を見ればさらに複雑な解説が目に跳びこんでくるはずである。
本には病気になる原因はしっかり書いてあるが、健康になる原因となるとほとんど皆無である。せいぜい「病気の原因を遠ざけて適度な運動を」とつかみ所のない目標が書いてある程度である。病気になる方法はかなり具体的であるのに比べて、この曖昧さはどういうことだろうか。
ここで私は逆に考えてみた。『人間は病気がある状態が普通なのではないだろうか』と。
人間はほぼ全ての病気にわずらっているのではないだろうか、風邪も喘息も花粉症すらも。
それらは通常は気付かないのだが、何かのきっかけで気付いてしまうのだ。
病気を例えるなら、蛇口からぽたぽた落ちる水滴の音のようなものだろう。昼間は生活の音にまぎれて聞こえないが、布団に入ると聞こえてきて変に耳に付いて眠れなくなる。そんな感じで人は「風邪に気付いてしまった」自分を指して「風邪をひいた」と言っているのではないだろうか?

他にも逆に考えれば理解しやすい事柄は沢山ある。
生卵を落とすと割れてしまうが、これを説明するのは意外に難しい。重力加速度だとか曲面をもつ殻の強度などの説明を重ねても気分的に理解できない部分が残ってしまう。
しかし逆に考えてみればどうだろう。『地球が卵にぶつかるから』と。
あの大きくて重たい地球が卵に向かって衝突するのだ。これなら割れて当たり前である。納得がしやすい。

税金はナゼあるのだろうか。「所得税や消費税を払うのはなぜか」と考えてみる。
『国民には納税の義務があるから』とか『政府を通じて公共サービスを行い、国民の生活を豊かにするため』などと考えても「自分で稼いだ金なのに・・・」と不満が出てくる。
これも逆に考えれば簡単である。『この国にあるものは全て日本政府の所有物なのだ』と。
土地も車も全て政府の所有物であり、我々はそれを借りているのだ。固定資産税はレンタル料だと思えば納得がしやすいだろう。
お金も同様である。子供の頃「自分の持ち物には名前を書きなさい」と言われた事があるだろう。お金を見ると「日本国」と名前を書いてあるではないか。お金は全て政府の所有物であり、我々はそれを借りて通貨として使っているのだ。消費税もまたレンタル料である。

人の死すらも逆に考えれば納得しやすいはずである。
周りを"ちゃんと"見回せば、この世界は「生きている物」よりも「生きていない物」のほうが断然多いことに気付くだろう。
鉛筆も石ころも本もケーキも人間や動物のように生きてはいないのである。
宇宙にある全ての存在を調べれば(地球上だけでも同様であるが)生物がいかに異常な存在かがわかるはずである。
つまり「生きているほうが極めて異常」なのである。
死とは『ありえないくらいに超異常』な状態から世間一般並みの『普通』な状態に変わるということに他ならないのだ。
だからといって「死んでもいい」と思えないのは、自分が「異常だが特別な存在」だという優越感を持っているからである。

このように物事を逆に考える事によって、意外な問題が解決するのだ、たまには軽く病気になるのも悪くない。

今回はかなり真面目で硬い内容となってしまったが、それはこの数日のプチ断食のせいで心身が変にフワフワしているせいであろう。
この事に関しては逆に考える必要はない。



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2006/5/24作成
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「ガリガリミステリー」

世の中には理解できない現象がたくさんある。謎だらけだと言ってもいい。
古くは生命の発生や恐竜の絶滅、ピラミッドやUFOなどいまだ解明できていない物事は山ほどある。
人類はあと何百年かけてこれらの謎を解明していくのであろうか?

謎なできごとは身近にもたくさん存在する。
私より上の世代の人は特に感じていると思うが、最近の若いヤツラの考えている事などは全く理解できない。
確かに私(30代前半)と後輩M(20代前半)では10歳近くの差があるが、そのギャップを考慮してもなお理解しかねる事がある。
後輩Mはアイスが大好きである。昼休みにはアイスクリームやアイスキャンディー、時にはその両方を食べている。
それもほぼ毎日である、春・夏・秋はともかく冬でも食べているのである。
私の働く職場の建物は雨漏りや隙間風が当たり前の、いわゆる夏は暖房・冬は冷房という風情ある歴史的な建造物である(と言えば上司も怒らないだろう)。
私は室内温度10度を下回る部屋でアイスを食べる後輩Mが、一体何を考えているのか全く理解できない。
本人は「美味しいから」と言っているが、見ているこっちは寒気がするうえに美味しくともなんともない。
そんな想像を絶する思考回路を持つ後輩Mの言う事は、当然ながら普通ではない。「12球団の名前を覚えるのは日本人の義務です」「オリンピックに興味がないのは非国民です」「色とタイヤの数だけでは車の名前は解りません、へたくそな絵ではなおさらです」などとことごとく先輩である私に逆らってくるのである。

話は変るが、そんな後輩Mと話をアイスの話をした。
その日、後輩Mはいつものようにアイスを食べていた。商品名は「ガリガリ君」。
知っている人も多いと思うが「ガリガリ君」はアイスの世界ではかなり有名な商品である。知らない人はとりあえず有名なアイスだと思っていただきたい。
この「ガリガリ君」の特徴は今どき珍しい『当たりつき』である。私の子供の頃は当たり前にあった『当たりつき』のアイスであるが、今ではほとんど見かけることはない。
もしかするとバブル以後の不景気で、このようなギャンブル性の高い商品は敬遠されていたのかもしれない。
今の時代の買い物で『お得感』を出しているのはポイント制である。ポイント制は「ある物を買って金額の数%をポイントとして貯めていく、ある程度貯まれば金券として使用できる」というシステムである。店によっては曜日や期限を決めて「ポイント2倍」などと宣伝していたりする。このポイントという言葉に目が眩んでお金を無駄に使っている人も多いのではないだろうか。しかし、たとえポイントが2倍になったとしても、それは使ったお金の何割かであって、使った金がそっくり戻ってくる事はありえない。
が、ガリガリ君の『当たり』はこのような子供だましなポイントシステムとは一線を画している。ガリガリ君で『当たり』が出ればもう一本ガリガリ君が手に入るのである。

この事を解りやすく比較してみよう。
仮にガリガリ君で当たりが出る確率が1/10とする。そしてポイント制で貯まるポイントが金額の1/10とした場合、どちらの方法でも理論上では10個買えば、11個手に入る計算となる(10個プラス当たり又はポイントによってもう1個)。
しかし、ポイント制の場合は10個買わないと1個分のポイントは貯まらない。
それに比べてガリガリ君では最初の1個から『当たり』が出る可能性があるのだ。1個買っただけで2個手に入るのである。ポイントに換算すれば10倍である。運がよければ10個のうち2個当たりが出るかもしれないのだ。これでガリガリ君がいかにギャンブル性の高い物であるかがわかるだろう。
しかし、何度も言っているように、ガリガリ君の『当たり』はギャンブルである。当たらなければ意味がない。
「本当に当たるのか?」という疑問も出て当然である。私もそう思い後輩Mに聞いてみたところ「結構よく当たる、先週も当たったのでコンビニでもう一本もらってきた」と返答してきた。
どうやら、普通にしていれば結構な確率で当たるようである。

ここまで後輩Mと話していてふと気が付いた事があった。
「当たったガリガリ君のお金はどこから出るのだろうか?」
普通に考えれば当たりの分は誰かが負担しなければならない。この場合では「客・コンビニ・メーカー・その他」の中の誰かが負担しているはずである。
先ほどと同じように当たる確立を1/10とした場合。このように考える事が出来る。

売るほうも商売であるからには、損をするような事はしないはずである。どう考えても客が負担していると考えるのが普通である。
やはり5番目の当たりのバーをメーカーに渡して引き換えていると考えられるが、後輩Mの証言によれば「当たりのバーは捨てていた」そうである。
そうなると6番目の仕入れ値に上乗せされていると考えるのが普通であろう、しかし、それでも謎が残ってしまう。それはコンビニにとっての利益である。
仮に「ガリガリ君を買う店をA店として、当たりが出た時に交換する店をB店とする。買うときは必ずA店で買い、B店では絶対に買わない」と決めて当たりの時のみB店に行ってタダでガリガリ君をもらい続ければ、かならずB店での利益はマイナスになってしまう。
メーカーは損をしないがコンビニが損をするシステムはあり得るのだろうか?

この時点で考えられる事は以下の通りである。

いつの日にかこの謎が解ける時が来るのだろうか?
まったくもって世界は謎だらけである。



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Copyright (C) 2006 by 杜川月史