人が生活していく上で予定と予想は欠かせない。
これから何をするかを決め、その行程でどのような事態が発生し、どのように対処すればよいかを決めなければ、仕事どころか昼寝もろくに出来ないのだ。
私自身に関しては、予定通りにいくことは少ないが、予想が外れる事は滅多に無い。時には自分に予知能力があるのではないかと思ってしまうほどである。
ある一日の行動を予定・予想に絡ませて書き連ねることにする。
朝はいつも通り目覚ましの音と共に目覚める。
時間にかなりの余裕があることを確認してから、すがすがしい気分に浸りながらまた寝る。遅刻ギリギリまで寝るという予定通りの行動である。早めに目覚ましをかけるのは、二度寝をするためである。この時には「次に起きる時はぎりぎりになるかもしれない」と予想が立っている。
そして予想通りに目覚める。
朝食もそこそこにして出勤である。この時点で「この調子だと今日も予定通りにいかないかもしれない」と予想が出来てしまう。
予定では、余裕をもって会社に着くはずなのだが、なぜか全ての信号につかまり(点滅含む)、はるか前方の車が右側のコンビニに入ろうとして作り上げた行列に並んでしまい、結局ギリギリで会社に着く。
仕事中もまた、予定は大狂いである。
午前中に仕上げるつもりの仕事は、現場サイドからの予定外の呼び出し(主に「何じゃこの図面は!」とか「これでホンマにえんか?」とか「倉庫片づけて」などである)によって大幅に遅れてしまう。
「午後からは頑張るぞ、でもまた呼び出しや予定外の出来事によって遅れるだろうから、余裕を持って予定を立てよう」と予定を立て直すが、以外にも現場からのイジメ呼び出しはほとんど起こらない。しかし、以外な伏兵(眠気やIさん)によってやはり仕事が大幅に遅れてしまう。
この時点で当初の予定はともかく、「予定通りにいかないかも」という予想は当たりまくりである。
定時近くになると、上司の様子から残業の加減が伺える。上司の機嫌がいい時は仕事が順調に流れている状態、つまり仕事がたくさんあり、なおかつさほど忙しさを感じていない状態である。
分かりやすく言えば、たくさんの仕事があり、そのほとんどが私に振られている状態の事である。
その日は上司もやる気満々であった。「こんなにたくさんの図面があったら、いくらやっても終わらんなぁ」と嬉しそうに言ってきたりもする。もちろんその「たくさんの図面」を処理するのは私である。上司の笑顔に憤り覚える瞬間である。
「これは8時くらいまでやらな終わらんな…」と思いつつ、仕事をしていると電話が鳴る。嫌な予感がする。
上司が出て「ハイ、ハイ、いやー、急にはムリやで」などと話している。どうやら急ぎの仕事が入ったようだ。上司の口ぶりからすれば、無理なので断っているらしい。
電話が終わると上司は私に「明日の午前中に納めなならん仕事が入った。今から図面FAXで来るからすぐに取り掛かってくれ」と言ってくる。
さっきの電話での会話と180度違うことになっているが、こんな事は日常茶飯事なので驚くことも無い。予想の範囲内である。
FAXを受け取った上司が「こんなもん、今時分になって言ってきたって、出来るわけないやろが。なあ?」と私にFAXを渡してくる。それも笑いながら。上司の笑顔と判断に殺意を抱く瞬間である。
結局、10時過ぎまでかかって大急ぎの仕事だけを終えて帰宅した。気力がなくなり当初の予定量をさばく事は出来なかった。(すぐ傍で何もしない監督業に勤しむ上司が「まだか?」と熱意のこもった応援を繰り返したためである)
予定通りにはいかなかったが、「予定通りに行かない」という予想は完璧に的中していた。やはり私は予知能力があるのかもしれない。
しかし、その晩の母の作った夕食がサンドウィッチ(紅茶付き)だったことは予想外の出来事であった。
動物好きの人にとって、動物の話をするのはとても楽しいことだ。
ゴリラは片手で人をひねり潰せるとか、アイアイは現地では悪魔の使いと呼ばれているなど、楽しい話題に事欠かないのでつい話がはずんでしまう。
先日も職場のIさんと象の話で盛り上がった。
(どうしてこういう話になったかは省略)
Iさん 「そやけど、象だって野菜や果物しか食べてないのに、あんなに大きな体しとるやんか」
杜川 「いや、それはどうかな」
Iさん 「どういうこと?」
杜川 「表向きは野菜ばっかかもしれないけど、裏では握り飯食べてるかもよ」
Iさん 「そんなアホな・・・」
杜川 「でも、カバだって肉を食べることもあるし、共食いもするって聞いた事あるよ。もしかすると象だって肉食かもしれんやんか」
Iさん 「でも、動物園で象に肉をあげてるなんて聞いた事無いで」
杜川 「いやいや、動物園でもらう餌は野菜や果物だけかもしれない。でも、ほかにも餌をとる方法はあるやん」
Iさん 「…何?」
杜川 「あのながーい鼻を使ってると思うで。象の背中に鳥が止まる事ってよくあるやんか、でも次の瞬間鳥は忽然と消えてしまって、象の口がモグモグしてるなんて事があるかもよ。早すぎて分からんだけで」
Iさん 「そんなわけないやろが」
杜川 「でも、カメレオンだって大昔は『かすみを食べて生きている』って言われとったらしいで。餌を食べるところを誰も見た事が無いから」
Iさん 「…ふーん。で、私もそんなふうに影で食べまくっていると言いたいわけやな」
杜川 「さて」
このように会話の間に動物の話題を入れるだけで、それまでの殺気立っていた空間が和んでくるのだから面白い。もし、あの時点で「象は関係ない」などと言い切ったら、血を見ていたかもしれない。もちろんそれは私の血であろう。
動物の話で盛り上がるのは、「可愛い」や「美味しい」などのありきたりの話題だけではない。
最近、2本足で立ち上がる動物が話題になったが、これを見て「進化の瞬間だ、数万年後ヤツらは文明を築くに違いない」と言い切ったのは、社内では私一人である。
皆は「アホか」・「そんなわけないやろ」・「ちょっと背伸びしただけやんか」などと否定的な意見ばかりであった。学校で進化論を学んできたはずなのに、どうしてこうも頭ごなしに否定できるのか不思議でならなかった。普段から私の意見(「今度から買う機械や工具には○○1号・○○2号ってネーミングをしようぜ」・「こんどシャッターを塗りなおす時は、画を描きたい」・「杜川のセンスで設計してもいいですか?」等)を頭ごなしに否定している条件反射からかもしれないが、後輩ですら信じようとはしなかったのだ。
この結果は数万年後明らかになるだろう。その時になって皆が何と言い訳するか聞いてみたいものだが、おそらくムリだろう。みんな都合の悪い事はすぐに忘れるとりえがあるから(そのかわり人の失敗はよく覚えている)。
動物の話でさらに盛り上がるのが、動物の不思議さについてである。
後輩 「杜川さん、カルシウム取っていますか?カルシウムは大切ですよ」
杜川 「うーん、あんまりとってないかもな。タマゴの殻好きじゃないし」
後輩 「普通は食べませんよ。食べたことあるんですか?」
杜川 「学生のころの弁当で、玉子焼きがジャリジャリすることって多かったから」
後輩 「それは学生の時だけですか?」
杜川 「うーん、最近は朝の目玉焼きが…」
後輩 「ジャリジャリするんですね」
杜川 「まあ、程よくね」
後輩 「…。ところでカルシウム取るなら牛乳ですよ。牛乳。僕なんかちいさい頃からかなり牛乳飲んでましたよ」
杜川 「えっ。それはアカンやろ」
後輩 「えー、何でですか?いっぱい飲めって言われましたよ」
杜川 「よーく考えや、本来牛乳ってのは子牛が飲むものや。子牛が大きな牛になるための材料が牛乳や。わかるよな」
後輩 「今のところは」
杜川 「という事はやな。お前さんは牛になるための材料をしこたま体に取り込んでしまっとるという事や。そしたら仕舞いには牛になってまうで」
後輩 「…杜川さん。正気ですか?」
杜川 「だってそうやろうが。もうお前さん4割がた牛になっとんとちゃうか?ほら、昼飯の後にまた噛み直ししとるやろ。あれ反芻っていう牛独特の…」
後輩 「あれはガムです!牛乳飲んだくらいで牛になるわけないでしょうが」
杜川 「そうか?食べて寝るだけでもなれるんやけどな…不思議なこったねー」
後輩 「杜川さんのほうが相当不思議です」
このように動物をネタにした話は不思議と盛り上がって、話が長くなってしまう。
動物にかかわる話は全く持って不思議だらけである。
先日「この盆休みに富士サファリパークに行く」と言っていた動物好きのTさんがお土産をくれた。お土産の箱には『心斎橋限定チーズケーキ』と書いてあった。中身のチーズケーキは動物の形をしていなかった。
これもまた、動物に関する不思議と言わねばなるまい。
最近、後輩のMが政治に興味を持ったようで、色々質問されるようになった。
「選挙っていつあるんですか?」
「郵便局が民営化されるとどーなるの?」
「小泉って自民党?」
などである。
仕事で質問される事は滅多にないが、こういう事を聞いてくるところを見ると、私が一般常識を持っている物知りな先輩と思っているようだ。「今までの努力が実ったな」と実感している。
だいぶ前から選挙での投票率が低いと問題になっていたが、このように若いヤツラが政治に興味を持ってきたところを見ると、今度の選挙の投票率はかなり高くなるだろう。
参議院で郵政民営化法案が否決され、衆議院の解散が行われてからつい最近まで、私は自分の将来が心配で仕方がなかった。
幾つかの政党から出馬の依頼が来るかもしれないと思うと、落ち着いてポテチも食べていられなかったのだ。
私は今まで政治にかかわったことはないが、それは今までのことである。今回の選挙は今までのような成り行きの選挙ではなく、幾つかの重大な争点をもったたいへん意義のある選挙である。
こういう時には、各政党はふつーの地味な人物ではなく、様々な話題性のある人を選挙に出そうとするはずである。現に何人かの有名人が打診をされて、そのうちの何人かの政治には全く縁のなかった人の立候補が大きく報じられている。
もちろん私は大きな範囲では有名ではないが、ある一部の地域と社会の中ではかなり有名である。特に隣近所・会社と親戚関係においては知らない人などいないくらいである。(1歳少しの姪っ子は少々微妙であるが)
それに、ある程度の資質もあると自負している。
私はこう見えても裕福な家に生まれて、勉学に勤しみながら何不自由なく成長して今に至ってきたわけではなく、どちらかと言うと清貧である。
どこぞの悪徳政治家のように何百万円もの賄賂を受け取ったことも、悪徳な会社社長のように脱税したことも、悪徳社員のように横領もしたことがなく、人がうらやむ程の資産すらもないのだ。私の過去と預金通帳は真っ白である。
また、私は間違った事が出来ない。
私の周りには私以上に間違った事が嫌いな人(同僚のIさんなど)が多く、事あるごとに私の間違いを指摘してくる。
だいぶ昔のことであるが、映画A.Iを見て「あまり感動できなかった」と私が言った後にIさんたちが言い放った罵詈雑言(頭がおかしい・人間の心がない・結婚出来なくて当たり前・など)は、普通ではなかった。
Iさんたちが「自分が絶対正しい=杜川は絶対間違っている」と決め付けていることもあるが、さらに3対1という不利な環境に置かれているせいで、私は自己主張(=間違ったこと)が出来なくなってしまった。今の私は間違っても間違った事ができない。「痩せたいなら食後のアイスクリームは止めたほうが…」などという不適切な発言は死んでも出来ない。
先の話と少しかぶるが、私は謙虚である
私の周りの人達は私に「謙虚になれ」・「逆らうな」・「仕事をしろ」と理不尽に攻めたててくる。おかげ謙虚が染み付いてしまい、最近では自分は世界で1番弱いのかも知れないと思うようになってしまった。まんじゅうですら怖いくらいである。
世間で政治家に望まれる「清貧・正義・謙虚」の3拍子がそろっているのだ、これほど理想に近いのなら掛け算の九九で7の段を間違える程度に頭が悪くても許されるはずである。
そんな訳でココ最近は、どこかの政党から私に出馬の要請が来るのではないかと心配でならなかった。
もし出馬しても当選しなければ普通の生活に戻れるが油断は出来ない、私は友達も少ないし地域で有名な人物ではないがそれだけに私を知らない人が勘違いで投票してしまう可能性が高いのだ。
選挙ポスターも油断できない。
普通、選挙ポスターは立候補者の顔写真と名前を、やたらと大きく載せるものであり、そこにはセンスのかけらもないのが普通である。
実際、ポスターを見る有権者も立候補者の名前を読んでから顔を批判する程度であって、ポスター自体の良し悪しを語る人などほとんどいないだろう。例外としては邪心のない人物が立候補者の顔にマジックで修正を施したり(世間では落書きと評される)、鼻に画鋲を刺す(どちらも公職選挙法違反として怒られる)ことぐらいである。
もし、私の(不本意ながら)顔写真をポスターにしたなら、ピカソ並みの芸術的なポスターが話題となり、たくさんの同情票が入るに違いない。
そして、もし(不本意ながら)当選してしまったら、世の中の幸せを少しでも多くするべく、手始めに自分が幸せになれるように微力を尽くすことであろう。
そんな激務に果たして耐えられるであろうか?
そんなことを考えながら過ごした数日間は落ち着かなく、夜の数時間を除いてはろくに眠ることも出来なかった。
しかし、投票日まであと少しとなった今では、これまでの心配も杞憂となり、後は有権者としての重大な責任が残った。
今日、後輩Mが「投票ってどこでやるんですか?市役所でしたっけ?」と聞いてきた。
仕事をしていると、いろいろな場面でいろいろな人に命令されしまう。
「仕事をしろ」「 残業をしろ」「汚い字を書くな」など、一日中命令されまくりである。なかには「計算を間違うな」「図面を間違うな」「納期に遅れるな」などと不可能でなおかつ非人間的な命令をする人もいる。
「仕事をするな」「 昼寝をしろ」「 おやつを食べろ」という命令をされれば、どんなに困難な状況であっても死ぬ気で従うつもりだが、不思議とそういう命令はされない。
私には後輩が数人いるので、彼らに命令をすることもあるが、どちらかと言うと「間違えずに指示して下さい」などとやんわりと命令されてしまう事の方が多いような気がする。
考えてみれば世の中は命令ばかりである、道路には信号・標識が立ち並び、止まれ・止まるな・曲がれ・曲がるなと命令してくるし、工事現場は立入禁止になっているし、見晴らしの良い海辺の崖には柵があって「入るな」と命令してくる。
命令を無視してもよいのだが、たまに柵を乗り越えて海に飛び込む人がいると『無理矢理柵を乗り越えて自殺か?』などとニュースになって世間にさらされたあげくに死んだ事にされてしまうのだから油断は出来ない。
また、命令ではないものの危険だとか病気を招くなどととして「○○はやってはいけない」と警告されている事も沢山ある。
「梅干と生のうなぎを食べる」「ぎっくり腰でボウリングをする」「「ガンが治ると売り出されている健康食品を風邪を治すために飲む」などである。
他にも「コレを食べれば○○が治る」「○○にすればお得ですよ」「今どき○○は当たり前」など選択の自由度が狭くなる情報が山ほどある。
会社には、こういう情報を沢山仕入れて、親切にも(=聞きもしないのに)教えてくれる人が必ずいる。そのおかげで何かにつけて「それ絶対損だからやめとき!」「絶対得するのに何でやらへんの!?」と圧力を受けることがたびたびある。
お得な情報が命令っぽく聞こえるため、最近では何か言われても受け流す事が多くなってきた。先日も「これやっといて」と命令っぽく渡された図面を一週間ほど放置したため、ちょっとした騒ぎになってしまい少々寿命が縮んだ。
この経験から、私は「命令」とは「人の命を削る悪逆非道なモノ」だと思うようになった。
人は生きている間、常に命令や束縛を受け続ける。命令によって自由を奪われ、抑圧を受ければストレスになる。このストレスが溜まるうちに人は衰弱し、最後には死んでしまうのである。
しかし、よく考えれば、死んだからといって命令から開放されるわけではない、通夜・葬式でこれでもかというくらいにお経を唱えられ、初七日・49日など事あるごとにお経を唱えられて成仏を強制されるのだ。これでは現世にどれだけ未練があっても簡単には残れない。
まかり間違えて幽霊になってしまったら、周りの者達に嫌われ、これでもかとお経を唱えられてしまうだろう。生身の身体でもあのお経は結構こたえるのだから、幽霊にはかなりのダメージになるだろう。幽霊になったことがないので想像するしかないが、死ぬ程足がしびれて『もう、いっその事死なしてくれ』なんて気になるのではないかと思われる。
大人しく成仏していれば良いのかと思いきや、たまに身内になにかあると『助けて下さい』と無理難題を押し付けられたりする。いつまでたっても自由になれないのだ。
ココまで考えて、私は「命令」とは「人と仏の命を削る悪逆非道なモノ」と思うようになった。
「悪逆非道な命令」に完全に包囲され、逆らうこともままならない毎日を送っている私はとても長生きできないだろう。恐ろしい事だが、毎朝起きるたびに自分の寿命が一日分縮んでいる事を実感しているのだ。
このまま命令に従い続けていれば、どんなに頑張っても150歳にはなれないだろう。
誰か「200歳まで健康に長生きしろ」と命令してくれないだろうか?
2005年ももうすぐ暮れようとしているある土曜日、その日は会社の忘年会があった。
私は幹事として、一ヶ月以上も前から宴会場の予約やゲームの景品などの準備に追われていた。年末はタダでさえ(気分的に)忙しいのに、イベントや忘年会の準備など仕事以外の用事が多く、ろくにぼんやりする事も出来ない有様だった。
我が社の忘年会のキモは景品である。
料理や宿泊施設も大事ではあるが、やはり『もらえる物』に対する皆の期待はかなり大きく、直前まで「今年は何がある?」と聞かれ続けた。
幹事の仕事は社員旅行やスポーツイベントなどを企画・実行する事である。任期は2年あり、私は今年で2年目なのでコレが終われば最低でも10年は幹事をしなくて済むはずである。
私は「自分が楽しい事は皆も楽しいはずだし、自分が嫌な事は皆も嫌なはずだ」という思いやりの心と「全員を喜ばすのは難しいが、皆を不愉快にさせない努力は必要だ」という深い考えにより、自分が嫌だと感じることは極力避けて来た。
そんなわけで年末までの丸一年、幹事として何もせずに過ごしてきたのだが、忘年会だけは『面倒くさいから嫌』と思っても避けるわけにはいかず、『どうせやるならパーッと(皆で積み立てた金を使ってしまえ)』と思い準備を進めてきた。
私が幹事をする以前の忘年会では景品にランクがあった。それもアタリとハズレの差がかなり大きく、金額にして3倍近くの格差があった。
幹事をする以前は、私もそれなりに良い物やあまり良くない物が当たって適度に喜んでいたのだが、昨年初めて幹事をした時にこの不公平に疑問を抱き「全部同じ程度の物にしよう。それも全て最高ランクで」と下の者に話をして今回のような豪華な景品ばかりとした。言っておくが前回当たったもの(実際は最後にあまったもの)が安いものだったから、ムカついたわけではない。
今回の景品はデジカメ・ゲームキューブ・折りたたみ自転車など私がもらってうれしいものばかりである(下の者の希望も取り入れた)。金額にすれば昨年の倍以上も使って豪華商品を用意した。
幹事でない人から頼まれた物(ビール1箱・レンジ台)もあったが『私がうれしくないものは皆もうれしくない。人の嫌がることをするべきではない』という道徳的観点からやむを得ず却下した。
景品の当たり外れは『くじ引きで』と決めた。これなら誰に何が当たっても文句はないはずである。
昨年は少し凝ったゲームをしたが、しこたま酒を飲んだ奴らが…(以下省略)
当日の忘年会は風邪等で2人の欠席者があったが、旅館は綺麗で料理も上々、景品も豪華ときては盛り上がらないはずもなかった。
旅館の従業員も「あんなに景品があってうらやましい」と言っていたぐらいに良い忘年会であった。
だいぶお金を使ってしまったので、次に幹事をする人は大変かもしれないが「私が気持ちよく幹事が出来れば、皆も気持ちよくなるに違いない」という慈愛の精神でやってしまった事なので仕方がない。次回の忘年会は知恵と勇気とアイデア勝負で行ってもらいたい。
その後、欠席者に景品を選んでもらうのだが、品物を知ってしまうと面白くない(一番安いものが残る=私の景品となる)ので、中身を言わず「大きい箱と小さい箱、中くらいの箱どれがいい?」と聞いて選んでもらった。あまった一つを私の景品としたが、皆が遠慮して小さい箱を選んだので、私が得たのは今回購入した景品の中で一番安い「レミパン」であった。思わず『舌切り雀』に舌打ちをしたくなった。
レミパンを希望した後輩Tは卓上IHクッキングヒータが当たって上機嫌であった。欲しがってたレミパンならばもっと喜ぶだろうと思いトレードを持ちかけたが、「このクッキングヒータ欲しかったんですよ。レミパン?ちょっと便利なフライパンでしょ?そんなのいりません」とあっさり断られてしまった。
レミパンは料理をする親ならば喜ぶかもしれないと思いながら持って帰ったが、反応は「ふーん」であった。
その日を最後に私がレミパンを目にすることはなかった。おそらく押入れの深いところに厳重に保管されているのであろう。
私が幹事をするのは今回で終わりなので、来年以降は別の者が幹事として色々なイベントを仕切ることになるが、次の幹事になる者は私同様の道徳と慈愛と常識を持って事にあたっていただきたい。