私は完璧主義者だ、どんな事でもやり遂げないと気がすまない。
仕事も常に完璧を目指している。私は書類をなくすことがほとんどない。あるはずの書類が見当たらない時は見つかるまで探し続ける。再びプリントアウトするなどは邪道であり、最悪の場合の最後の手段だと思っている。そのため会社にいる時間の三分の二は探し物をしている時間となっている。それでも見つからない時はばれないように再びプリントアウトしている。内緒でプリントアウトしているのはなくした書類の三分の二程度であるが、今までばれた事は一度もない。完璧である。
仕事にミスにも厳しいほうだ。誰しも完璧をめざし、ノーミスで仕事をこなすべきだと思っている。しかし、大変残念なことに周りに人たちは、私ほどではないので見落とす事が多い、特に私のミスを見過ごして問題に発展させてしまう事が多いので困っている。もう少ししっかりしてほしいものである。
完璧主義者は論争でも完璧である。
私の作戦はこうだ。
話が込み合ってきたり、負けそうな気配になると「お前の意見は完璧なのか?」と問いただす。
相手が「完璧ではない」と言えばこっちのものだ。「それじゃあ駄目だな」と鼻で笑うように言えば、相手より優位に立った気になれる。
もし、「完璧だ」と答えてもひるむ必要はない。「世の中には完璧などないのだよ。何を言っているつもりだ」とコレも鼻で笑うように言えばよい。
「完璧でないと駄目」「この世に完璧など存在しない」この二つを使えば、どんな論争でも勝つことが出来る。たとえ理論・構造・心情を知らなくてもこれらの言葉を出せば相手はひるむのだ。
特に「この世に完璧など存在しない」は万能に近い言葉である。誰しも常識と信じて疑わないため、反論してくる者はほとんどいないのだ。もし相手がこの言葉で攻めてきたら「どうして完璧が存在しないと言えるのだ?」と尋ねればいい。大抵は「そんなの当たり前やし、みんながそんな風に言っていた」などと小学生の言い訳のような言葉が出てくるに違いない。
職場でIさんと論争になる事は当然のように「完璧」作戦でIさんに挑む。
「確かに完璧な話じゃないけど、あんたよりかは私のほうが100倍ましな意見言っとるんやでな」と言われ、私は反論できなくなってしまう。
完璧主義者は負け方も完璧だ。
世間では『欠点のない人はいない』と言われいるが、果たしでそれは本当のなのだろうか、少なくとも私を知る人ならば否定するはずである。
先日も職場でこういう会話があった。
I さん「ほら、またここ書き間違えている」
杜川「え〜、うそやろぅ〜・・・本当や」
I さん「普通コレくらい気づくやろう、ちゃんとせなあかんやろ」
杜川「はいはい、でもほら『世の中欠点のない人はいない』って言うやんか…」
I さん「それで言い逃れできるつもり? でも、あんたの欠点は見つけにくいよね」
杜川「あらゆる方面でまんべんなく才能を発揮するもんねー」
I さん「なんでや、全てが低レベルっちゅうことやろが」
そんな欠点のなさそうな私でも、自他共に認める最大の欠点が『字がヘタ』なことである。
最大の欠点と言っても、そんなに大袈裟に考える事ではない。ヘタなのは手書きの字だけであって、PCで打ち込んだ字やプリントアウトした字まで下手なわけではない。
それに字がヘタなのはシャーペン・ボールペン・筆・鉛筆などの安い道具を使ったときに限られる。ロールス・ロイスやジャンボジェット機を使って字を書けば上手に出来るかもしれないし、大金を払って人を雇えば上手な字を書く事は可能だ。それに下手なのは世界の数多ある言語のうち日本語とごくわずかな英語だけである。他の言語(特に文字を持たない言語)では美しい字が書けるかも知れない。
今の世の中では、字がヘタだと損をする事が多い。
どのような立派なことを書いていても、字が下手だと読む気になれないし、誰も読んではくれない。大昔の文献などは、どんなに読みにくくても必死になって解読をするくせに、私の書いた字は一瞥しただけで読もうとしない人が多すぎる。古文には現在役に立つような事が書いてある事がほとんどなく、比べれば、私が書いた文(『この薬品は飲むと死ぬ可能性大』『この図面は間違ってる』等)のほうがよっぽど有用なはずなのに、どうして意味のない古文の下手な字のほうがありがたがられるのか不思議でならない。
しかし、そんな事も言ってられないのが現実である。自分の書いた字が自分でも読めないという最悪の事態に直面した私は、しぶしぶながら自分を変える決心をした。かれこれ数年前のことである。
それ以来、練習に練習を重ねたが下手な字は思っているより手強く、効果もすぐに現れるものではなかった。日本語は英語とは違い使用する文字が無数にあるために、ちょっとやそっとでは変わらないのだ。
私の字がヘタなのはちょっとした癖があるためである。『まっすぐに線が引けない』『きれいなカーブが書けない』『同じ字を書いてもそっくりにならない』『大きさをそろえられない』『字を知らない』などである。
もちろんこれらには原因がある。『もともとは左利きだったのに右で字を書いている』『超近眼である』『コーヒーが飲めない』『腕力がない』などの肉体的な原因と『読めない字を書いていると気が滅入る』『ダイエットの効果がない』『仕事で失敗する』『 I さんがいじめる』などの精神的な原因である。
このような絶望的な状態で、ヘタな字に立ち向かうのはかなり勇気がいる。ファミレスで大声で「パーマン!助けて!!」と叫ぶくらいに勇気がいる。
それでもあきらめずに努力を続けた結果、最近ではかなりのレベルに達したと自分でも思うようになった。
しかし、私の同僚達(特に I さん)は、中途半端に字が上手いためか私のような努力をしようとはしない。今だに私の字を「読めん」と批判をするのだ。
どうして私のように下手な字を読む努力をしないのか、私は不思議でならない。
世の中はすごい勢いでコンピューター化が進んでいる。車にカーナビやETCが付き、携帯で支払いが出来るまでになっている。
ペットにまでコンピューター化が及んでいるのだ。近い将来には鏡や木彫りの人形にPCが内蔵される事だろう(どういう使い方をするかは想像におまかせ)。
職場でもコンピューター化は進んでいる。機械の幾つかはパソコンを内蔵するようになったし、メールでのデータの受け渡しは当たり前になっている。
私は仕事で設計をしているが、設計もPCを使ってすることがほとんどである。
ちなみに私の本当の仕事は「準備・片づけ・手伝い・ピンチヒッター・伝言・電話番・小さな問題解決・余った時間に設計」である。何でもこなす私を会社の同僚たちは敬意を込めて「雑用」と呼んでくれている。
PCが使われる以前は紙に図面を書いていた。これは一般には製図と呼ばれている。
大きな会社では設計と製図は別の部門になる事もあるらしいが、私の勤める小さな会社では設計と製図および機械加工のプログラム作りはほぼ同じ意味である。想像が付くと思うがこれらの仕事は複雑で面倒なため、やりたがる人も少なく社内でもこれらをこなせる人は私ともう一人しかないない。
設計の仕事をするためにはスキルが必要である。たまたま私に製図とPCの経験があり、仕事を人に押し付ける強い意志と、計算能力を異常なまでにひた隠す謙虚な同僚達に囲まれていたため、私が設計をする事になった。おかげでミスを多発する毎日を快適に過ごしている。
PCを使った製図は、以前の紙を使用した製図と比べると段違いである。企業でPCを導入する時は、それぞれに長所と短所があるものだと言われているが、製図に関してはPCを使用したほうが断然に仕事が楽である。たしかに短所が全くないわけではないが、得られる便利さに比べれば、多少の不便さなど気にもならない。
以下に製図に関してPCを導入した場合の長所を挙げる。
このようにPCを使って行う製図は長所ばかりである。他にも「PCの使い方を覚えることが出来る」「ブラインドタッチ(タッチタイピング)が出来るようになる」「左手でマウスが使えるようになる(製図ソフトは左手でマウス、右手で数字キーが基本姿勢である。他のソフトで役立つ事はまず無い)」「PCを買う事が出来る」などの長所が確認されている。
「イマイチPCを使いこなせない」と思っている人は製図ソフトを使い覚えてみることをお勧めする。
ちなみに設計の計算を行うときは、PCでは非常識なほどに使いづらいので電卓を愛用している。
さて、今晩はどんな話をしようかのう
『砂の大蟹』の話はどうじゃ?
そうか、もう話したか
それなら『カジカの君』はどうじゃ?
おお、まだじゃったか。それなら今晩は『カジカの君』の話をしようかのう。ほら、面白いからとて相槌を忘れるでないぞ。
昔々のことじゃった
深い山の中にさほど大きくもない村があった。その村では時々鬼が近くの山から下りてきて悪さをするためとても困っていたそうじゃ。
ある日、村に一人の若者がやってきた、その若者は村の長にあってこう言ったそうじゃ
「私はカジカの君という者だ。この村は鬼が出て困っていると聞いた。もし、私がその鬼を退治したらこの村で一番の娘を一人もらうがよいかな?」
村の長は二つ返事でカジカの君に鬼退治をお願いした。
するとカジカの君は村の者に桃の実と一升の酒と一振りの太刀を用意させ、それらを持って山に入っていたんじゃ。
次の日の夕暮れ、カジカの君は鬼の首を持って村に帰ってきた。
村人達は大いに喜び、カジカの君は村一番の庄屋の娘をもらうことになったそうじゃ。
娘をもらいに庄屋の家に入ったカジカの君は、庄屋と娘の前でこう言った。
「私は人に見えるが、その正体はカエルだ。しかし約束は守ってもらうぞ」とな
庄屋の娘はたいそう嫌がったが、約束を破るわけにも行かず、いつの間にか家の前に現れた牛車に乗せられて、カジカの君と村を出て行ったんじゃ。
牛車で山を3つほど越えたあたりで、カジカの君の屋敷に到着した。
カジカの君の屋敷は、大きく立派な屋敷であった。石の瓦と土の壁、何十もある蔵を見れば、田舎の娘であってもカジカの君がたいそう身分の高い人であることが分かったことじゃろうな。まあ、カジカの君がカエルだと知っている娘は、屋敷を見てもただ怯えていただけだったようじゃがな。
不思議と人気のない屋敷にあがり、娘が空腹を訴えるとカジカの君はこう言った。
「カエルが何を食べるか知っているか?ハエや蜘蛛やバッタだ、お前もカエルとなって虫を食べるがいい」
もちろん娘は虫を食べたいなどとは思っていなかった。イナゴの佃煮や蜂の子ならまだよかったかも知れんがな。なに、食うたことがないのか?結構美味いもんだぞ。
話がそれたな、虫を食えと言われて娘はこう言い返したんじゃ。
「私は虫など食べたくありません。普通の晩飯が食べたいのです」
すると、カジカの君は娘をある部屋に連れて行った。そこには二人分の善が用意されていたんじゃ。人気の無い屋敷で誰が用意したのか不思議なものじゃが、白いご飯、焼いた鮎、キジの肉、吸い物にみかんとそれは豪華な食事じゃった。
二人で晩飯を食べながら、娘はカジカの君に尋ねた。
「いつもこんなに贅沢なものを食べているのですか?」
「ああ、そうだ」
「カエルはこのような贅沢はしないはずです、あなたは本当にカエルなのですか?」
するとカジカの君は悲しそうに答えたんじゃ「そうだ」とな
食事が終わると、二人は中庭が見える釣殿で月見をした。
そこでも娘はカジカの君に尋ねた
「こんなに広いお屋敷に住んでいるのですか?」
「もちろんここは私の屋敷だ」
「カエルが屋敷に住んでいるなんて聞いたことがありません。あなたは本当にカエルなのですか?」
するとカジカの君はすこし悲しそうに「そうだ」と答えたんじゃ。
次の日の朝、娘はカジカの君に水汲みに行くように言われた。
井戸はどこだと娘が聞くと、屋敷の裏に流れる川に行って汲んでこいとカジカの君は娘に言った。
屋敷の裏に行くと、川は崖のはるかに下を流れていた。娘は降りる道が見つからないとカジカの君に道を尋ねた。
「カエルならひとっ跳びで川に降りれるはずだ」
すると娘は「私はカエルではないから、川まで跳び降りれません。あなたはカエルなのだから、あなたが跳んで下さい。」と言い返した。
それを聞いたカジカの君は、娘が見つけられなかった小道を降りて川から水を汲んできた。
「カエルのくせに跳べないなんておかしいわ、あなたは本当にカエルなのですか?」
するとカジカの君はまたも少し悲しそうに「そうだ」と答えたんじゃ。
不思議なものじゃろう、見た目もしぐさも何もかも人であるのに、カジカの君は自分はカエルだと言う。
実はの、カジカの君にはカエルの呪いがかかっていたのじゃ。
ある時、貴族の奥方が重い病に臥せた。薬も祈祷も効かず、もはやと思われたとき、カジカの君の父親がある薬を献上した。その薬の効き目は抜群でな、あっという間に奥方は元の元気な身体に戻ったそうじゃ。
貴族はカジカの父親に褒美として領地を与えた。しかし、薬の材料が大嫌いなカエルだと知った奥方が、呪いをかけたのじゃ「お前はカエルのおかげで領地を得ることが出来た、だからその領地はカエルのものじゃ。生まれてくるお前の息子は領地を継ぐためカエルとして生まれるだろう」と。
そしてカジカの君は生まれたのじゃ。カエルとしてな。
カジカの君にかけられた呪いを解く方法は一つだけだった。それはな、事情を知らぬ娘に心から「本当にカエルなのか?」と百回言われることなんじゃ。
それからしばらくの間、娘とカジカの君は双六をしたり、鷹狩をしたり、和歌を詠んだりと、貴族らしい生活を続けた。そして、何かをするたびに娘に「カエルらしくない、本当にカエルなの?」と尋ねられたのじゃ。そして数を重ねるにつれカジカの君の表情も明るくなり、娘と普通に話をするようになっていった。
娘のほうもな、最初はカエルだと思って嫌がっていたが、どう考えても人にしか思えないカジカの君に心を引かれていった。まあ、田舎娘が貴族の生活を目の当たりにしたんじゃ、こうなるのは当たり前と言うものじゃな。
そして、呪いが解けるまであと3回となったある日の晩飯の時じゃ。
いつものように、二人で晩飯を食べていると、ふと思い出したかのように娘がカジカの君に尋ねたのじゃ。
「そういえばカジカの君はお酒は召し上がらないのですか?ここに来てから一度も見た事がありませんが」
「そうだ、私は酒は飲めないんだ」
「でも、たしか鬼を退治するときには、一升の酒を下げて行ったではありませんか」
「あれは、鬼たちから姿を隠すためだったのだ。桃を浸した酒を体に振り掛けると、鬼たちには見えなくなってしまうのだ。でも酒の匂いは苦手だったので足元がふらついて大変だった」
「そうだったのですか、カジカの君はやっぱりゲコだったのですね」
…その瞬間、カジカの君は石のように固まってしまったそうじゃ。そしてその顔はこの国と隣の国の夜を集めたよりも暗く、この世の不幸を全て集めたくらいに痛々しい形相だったそうじゃ。
すぐに娘は牛車で村に返された。娘の家族は涙を流して喜んだが、娘は心を抜かれた腑抜けと化しておった。
カジカの君のせいではないぞ。一度贅沢を味わった娘が、元の生活に戻るのはなかなか難しいんじゃよ。一日中あの屋敷での生活を思い出してはため息をついて過ごしていたそうじゃ。それにな、おそらく娘はカジカの君に惚れてしまっていたんじゃろうな。かわいそうなことじゃよ。
それからカジカの君がどうなったかって?
さあなぁ、どうなったかは誰も知らん。呪いが解けて人になれたのか、はたまたカエルのままなのか。お前達はどう思う?
ただ、ここから山3つ越えたふもとの村で、大きな酒樽がいくつも盗まれた事件があってな。その時はカジカの君が盗んだんじゃないかと噂になったそうじゃ。
とっぴんぱらりのふうじゃ。
今年も健康診断が行われた、不健康を自負する私にとっては迷惑この上ないイベントである。
喘息持ちで視力も悪く、顔も悪い私が健康であるはずが無い。それにここ数年で記憶力が極端に低下して来ている。先日もふと気づくともう12月になっていた。年末になっているのに夏の楽しい思い出が一つもない。こんなに記憶力が低下するとは正直自分でも驚いている。もしかすると死ぬほど不健康な自分を忘れて普通人のように暮らしているのかもしれない。
不健康な私でも他人に「お前は不健康だ」と決め付けられるのは気持ちいいものではない。だから健康診断が行われるたびに「健康」と診断されるように一所懸命努力をしている。
健康診断が近づくと問診票が渡される。問診票には「病気が無いか?」「痛いところは無いか?」「健康か?」などの質問が書いてある。
不健康と言われたくないので、出来るだけ健康そうな回答を選ぶようにしている。しかし、問診票に嘘を書くのは気が引けるので、出来るだけ調子のいいときに問診票を書くようにしている。
また、健康診断の当日はできるだけベストの体調で挑みたいので、数日前から早寝をするように心がけている。冬に早起きをするのは眠いうえに寒いため、風邪ひく可能性が高い。だから時間ギリギリまで布団に入って体力を養うのが上策である。
当日になるとなぜか体調が微妙に悪くなる。少々熱っぽく身体もだるい。10時間も寝ればかなり健康になるはずなのに、不思議なものである。もしかしたら、今までは不健康すぎて感覚が異常だったのが、少し健康になり感覚が正常に戻ったため異常に気づいたのかもしれない。
「このだるさはガンかもしれないな、だったら仕事を休まないといけないな。仕事を休んで何をしようかな?いやいや病気なんだから入院しなきゃならんだろうな。美人看護婦(正確には看護士)に囲まれるくらいなら仕事をするほうがなんぼかマシだが、まあ病気なら仕方がないか、歯を食いしばって耐えねば…」などと最悪の事態を想定してつい悲観的になってしまう自分を抑えつつ、健康診断に向かう。
健康診断バス(名前は知らない)に乗り込むと視力・聴力の検査とレントゲンが撮られる。20代の時はここで身長を測定していたが、30を超えると測定をしないので現在の本当の身長は分からない。もし、今でも身長が伸びていたらと思うと「測ってくれよ」と思うのだが、縮んでいるとイヤなので測定を要求する事は出来ない。問診票に書く自覚症状は自己申告なのに、身長体重を自己申告できないのは少し納得できない。
その後、血圧・脈拍を測定し、直接医者に問診をされる。しかし、医者は問診票を見て判断しているらしく、私の体内に巣食う不健康を見つける事もせず「喘息はどうですか?薬を持っているならいいですね」で終わってしまう。おそらく露骨な死相が出ていなければ健康なのであろう。
こうやって健康診断を無事に終えて「今回も無事に乗り切れたぞ、よかったよかった」と思っていると、2週間ほどして結果が送られてくる。
健康診断の結果を見るたびに思うのだが、健康診断を受けたはずなのに結果として「健康です」という書き方をしないのはなぜなのだろう?今回も結果は「所見なし」であった。
しかも、その後に「病気によっては発見しにくいものもありますから、毎年健康診断を受けましょう」と続いている。ただでさえ「病気だったらどうしよう」とビクビクしながら健康診断を受けているのに、このように言われると「発見できない病気になっていたらどうしよう。ヘタをすると老衰で死ぬまで発見されないかもしれない」と不安が広がってしまうではないか。どちらに転んでも不安を抱かせるだけの健康診断なら、止めて欲しいものである。
人類が言葉を使うようになってから、どのくらいの時間がたったのであろうか?
言葉は人間の意思伝達の手段としては最高の物であるが、言葉が通じなければ、思いを伝える事はすごく難しい。
「ペンは剣よりも強し」と言うが、確かに言葉の力は弱くは無い。場合によっては大きな力となり、世間や人の心を動かす事も出来るのだ。
その言葉が攻撃的になってしまえば、強い破壊力を持つ力となるであろう。特にTさんの口を借りた場合は。
時々、事務所から上司達がいなくなると、私とIさんで上司がいると出来ない話(愚痴や世間話など)をする。会話の内容は普通でにこやかに聞こえるが、何気ない会話の奥底で見えない火花を散らしている事に気づいている人はいないであろう。我々は常に隙を見せれば負けになる真剣勝負をしているのである。
実際にはこういう会話をしている。
Tさん「最近、あまり不細工な子って見やへんようになった気がするわ」
杜川「最近の子供が可愛くなったと?」
Tさん「子供だけじゃなくて、同年代の人見ても昔ほど『うわー、ぶっさいくー』って思わんなった感じやね。コレって年のせいなんやろねー」
杜川「許せる範囲が広がったって事ですかね?」(間違っても『それはTさんの見た目が…』とは言えない)
Tさん「そうやねぇ。年とともにいろいろな人に会うからね。そうなってったんやろうね」
杜川「そうですね。確か僕も若い子らを見て不細工と思わなくなったような気がしますわ」
Tさん(にやけた顔で)「・・・ええの?それで」
杜川「?・・・・・・ハッ! 違う違う!!それじゃアカンのやって!やっぱり仲間由紀恵とか常盤貴子ぐらいじゃないと・・・」
Tさん「あんたも、もう若くないねぇ」
このように、ちょっとしたミスが大きなダメージとなって帰ってくるのだ。日常会話だと思って気を緩めてはいけないのである。
もちろん私も負けっぱなしというわけではない。時には、鋭い反撃を見せる時もある。
杜川「そういえばIさん、ダイエットはどうですか?」
Iさん(何事も無いように)「続いているよ。そんなん当たり前やんか」
杜川「へぇー、今度は続いてますね」
Iさん「…でもね、この前娘がさ『どうしてダイエットなんかするの?小太りぐらいが丁度いいやん』って言ってたんさ」
杜川「それはあかんやんか。早く娘さんに本当のことを教えたらんと」
Tさん「何を?」
杜川「小太りの定義を間違えてる」
Tさん「何やて!?」
会話を読む限りは、五分五分のように見えるかもしれないが、実際は私のほうがかなり分が悪い。精神的のみならず、物理的にもTさんのほうが破壊力が大きいのだ。また、仕事の手順の関係でTさんを怒らすのも得策ではない(Tさんは私を徹底的に痛めつけても問題ないと思っている)。
私は「負けるわけにはいかないが、勝つわけにもいかない」という、大変厳しい戦いを日々強いられている。
今年の闘いも、先日の「今年もクリスマスは予定なしか。ダメやねー」の一言で負け越しが決定してしまった。
来年こそは、3回に1回は勝てますように。
月日の経つのは早いもので、もう2005年である。『もう2004年』とココで書いたのがまるで一年前のことのようである。
新しい年を迎えると『今年こそは』という気持ちが湧いてきて、心を引き締めて事に当たるようになるから不思議だ。新年のすがすがしさに心が引き締まり、さて何をしようかと思ったが、正月なのですることがないのでおこたで寝ることにした。もちろん心を引き締めて寝るのである。
寝ながらTVを見ていると、全国各地の初詣の中継があった。明治神宮に300万人とか熱田神宮に200万人(どちらも適当)とかTVのニュースを見ていた私は『そうだ、初詣に行こう』と思った。
お正月に初詣に行く人は多い。新年最初の行動が初詣だという人も多いだろう。私も元旦から初詣に行こうと思いついたのだが、元旦は伯父の所に挨拶に行く事になっているので、初詣は後回しにしてとりあえず伯父の所に出かけた。
本音を言うとここ数年、伯父のところに行くのは少々気が重い。イトコ達が子供をつれて来ているので楽しいのだが、あまり楽しくない事もあるのだ。
今回も例によって私の『結婚はまだか』の話になった。
イトコ『あんたまだ結婚せぇへんの、何歳になったんや?』
私『こう見えても18なんですよ』
イトコ『そんな訳ないやん、32やろ、確か』
私『いえいえ、実は魔女に魔法をかけられたんですよ』
イトコ『…それって…』
私『14年前に』
イトコ『アホか』
いつもなら『なんなら私の娘やろか?でも15年待ちないな』などと冗談半分にも言ってくれるのだが、今年はそんなやさしさもなく。イトコの旦那までもが『35を過ぎると、ぐーっと体力が落ちてな。早ようせんと、子育てが大変やぞ』などとプレッシャーをかけてくるようになった。
半日ちかく伯父の所でいじめられた私は心に誓った。
『今までは何もせずにぼーっとして来た。だから結婚もせずにこんな歳になってしまったのだ。今年こそは心を入れ替えて、積極的に縁結びの神様に頼んじゃおう』と。
この休みの間に、4箇所の神社にお参りに行った。今年は頑張ってたくさんの神社にお参りに行き縁結びをお願いするつもりである。