caravan serai


エシェアバト

伝説の遺跡 TROY,BERGAMA


桟橋近くのレストランでシーフード料理を食べた後、バスはイスタンブルを後にして、マルマラ海沿いを西に走り、エシェアバトという小さな港町に着いた。ここから船に乗り対岸に渡ろうというのだ。対岸はアジアサイドとはいえ、海はエーゲ海である。バカンスの季節を迎え、フェリーは賑わっていた。イスタンブルで働いていた人たちも休暇で帰るのだろう。歌を歌う若者。手拍子を打つ子ども。静かにベンチに腰掛けている老人。チャイ(トルコ風紅茶)をすする女性客。客たちの顔に心なしか軽い興奮が浮かんでいた。少し油の臭いの混じった潮風がひとしきり髪を乱すと、船は対岸に着いた。

 チャナッカレ

両側に野菜畑の広がる一本道をバスは走っている。緩やかな上り下りを繰り返した後、海沿いの避暑地めいた村にバスはおりていった。そこがチャナッカレだった。

ホテルに着いた頃には、陽はすでに沈みかけていた。いかにも避暑地にありそうなリゾートホテルで、全室にプールに面したテラスがついていた。レストラン前がプライヴェートビーチになっていて、海を見ながらの夕食となった。目の前に見えているのは、今は穏やかな海にしか見えないが、第一次世界大戦時の激戦地であったダーダネルス海峡である。

夕食後海に出てみたが、泳ぐには水が冷たすぎた。浜辺の椅子に寝そべっていると、星が一つ二つと瞬きはじめた。沖の方に船がいて、舷側に灯りが見える。何をする船だろうと考えていると、妻が
「北斗七星見つけた。」
と言った。気がつけば頭の上には満天の星空が広がっていた。

 食堂の猫

エアコンもなくバスタブも小さかったけれど、開けておいても安心だという網戸付きの窓からの風は涼しく、気持ちよく眠れた。夕食をとったシーサイドテラスで、朝食を摂っていると、また猫が現れた。三毛の仔猫が二匹。それとどうやら母猫らしい。オーナーが飼っているのか、悠然と歩いてきて、餌をねだる。食べたいだけ食べると、後はどれだけ呼ぼうがしらんふりしてどこかへ行ってしまう。こういう勝手なところはどこの国の猫も同じだ。

食事の後海岸を散歩した。朝の海は静かに波が寄せていた。中庭を通って部屋に帰ろうとすると、いるいる。何匹もの猫がじゃれ合ったり、木登りをしたり、朝飯後の腹ごなしの最中である。オリーブの木の植わった中庭にはギリシャ風の円柱やその台座がところどころに置かれているが、仔猫たちはどうやらそれをつかってかくれんぼをしているようだ。

 トロイ遺跡

 トロイの木馬原寸大復元模型

九十九折りの坂をバスは喘ぎ喘ぎ登っていた。一つ曲がり角を曲がるたびに窓の外には赤松の林と、曇った空の色を映す鈍色のエーゲ海が代わりばんこに現れては消えていった。幾つ目かの坂を越えたとき、道は平坦になりエンジンの音も静かになった。

何の変哲もない山の中に、かの有名なトロイ遺跡があるとは考えてもいなかった。朝の早いこともあろうが、駐車場にも人影はなく、遺跡の中に入ってもしばらくは、廃墟の中に迷い込んだような気がしていた。

木馬の計略で知られるトロイだが、その歴史は古くBC3000年まで遡れるという。それぞれの時代に繁栄した都市の遺跡がサンドウィッチ状に層をなして土の中に埋まっている。現在では、あのベンツ社がスポンサーとなって発掘調査を進めているところだが、全容が明らかにされるのはまだまだ先のことになるだろう。

このスポンサーという考え方は興味深かった。我が国においても、貴重な遺跡が開発の目途も立たないままに宅地開発やその他の目先の目的のため日の目を見ることもなく空しく土中に眠っているのは、衆知の事実である。営利目的でデパートを建てたのはいいが、それが倒産した日には、発掘調査を望んでいた人々の気持ちはいったいだれが保証してくれるのだろうか。広く世界に向けて、文化遺産の保護や調査を期待することもできない相談ではないことに気づかされた。もっとも、日本にも、ベンツとまではいかないが、世界的に有名な自動車会社がないわけでもない。スポンサーの有無ではなく、文化に関する意識の差なのかもしれない。

 第8市 生贄の祭壇

少し曇り気味で、小雨のぱらつく天気だったが、こんな天気の日は、発掘日和だそうで、発掘作業を目の当たりにすることができた。上天気の日は、暑くて作業がはかどらないのだろう。写真の左手に見える四角い井戸状の物が生贄のための祭壇である。BC334年には、かのアレクサンダー大王も、ここで神々に生贄を捧げたという。無花果の木が数本見える辺りに城壁があり、かつてはそこまで海が来ていたという。遺跡の中には、おそらくその海から船荷を運び込んだのであろう。石で敷き詰められた坂道が残っていた。

現地ガイドのダヴさんは英国留学の経験もある歴史好きの好青年で、解説も丁寧で、とてもよく分かった。その彼が、
「みなさん。トロイ人は、なぜ戦争に負けたのでしたか?」
と聞くので、これはてっきり木馬の話だと思った。この話は日本でも有名なんだぞ、と思っていたら、
「その答えは、トロイ人はとろいからです。分かりましたか。」
彼は、日本にも何年か来ていたそうだ。英国では何を学び、日本では何を学んだのか、聞いておくべきだったかもしれない。

 バスの故障

そのダヴさんおすすめの「田舎の喫茶店(チャイハネ)」に立ち寄ろうと、車を進めていたときだった。それまでもいやにゆっくり走るなと思っていたバスが、今度は坂の途中で完全に止まってしまった。運転手が、キイをひねっているのは音から分かるのだが、車がそれに答える力がないのも伝わってきた。アシスタントのカバク君が、懸命にエンジンの調整をして、やっと車は動き始めた。と、思ったのも束の間、またしてもバスは止まってしまった。カバク君は、少し手に火傷をしたらしい。痛々しいのだが、こんな田舎道でエンストされても困ってしまう。ここは一つがんばってほしいものだ。彼の努力の甲斐もあって、車はまた少し走った。しかし、また坂道になると止まる。聞くところによれば、昨日入れたガソリンに水と泥が混じっていたらしい。何とか休憩のできるところまで、騙し騙し車を走らせ、そこで我々をおろし、車は近くの町のスタンドに行き修理をするという。俎の上の鯉ならぬ貸し切りバスの乗客。ここは任せるしかあるまい。

バスは、林の中の小さなガソリンスタンドに停まった。ダヴがペットボトル入りの水をみんなに配っている。水不足による熱中症を恐れているらしい。ふだんは、あまり水を飲まないので、スタンドでビールを買った。小さなスタンドの横では、カバブを売る屋台が出ていた。串に刺した肉を焼くそれは、まるで日本の焼き鳥だった。ビール片手に一串やるのもおつだなとは思ったが、まわりの雰囲気にあまりそぐわないのでそれは見送ることにした。けど、カバブの匂いをあてにしたビールは格別うまかった。

しばらくすると、バスは修理を終えて戻ってきた。みんな、 やれやれと思って乗り込んだのだったが、どうも本調子ではない。またか、と思った。それでも、少しほっとしたのは、それまでの林の中を通り抜け、少し大きな町に入っていたからだ。ここなら修理も可能だろう。案の定、バスは、今度はベンツの修理工場に行くという。このバスはベンツ製だったのだ。
 
田舎のチャイハネに行くはずが、車の行き交う騒々しい大通りに面した喫茶店で、修理の終わるのを待つことになった。それまでの町でもそうであったように、ここでも幾組かの男たちが、何をするでもなく、ゆっくりと時間を過ごしている。同じテーブルに着いた乗客の女性が小声で言った。
「どうして女がこんな所にいるんだって思ってる顔よね。」
モロッコでも同じだった。日がな一日家の前の椅子に座って男たちはメンテ(ミント茶)を飲んでいた。女性の姿は、そこでも見かけなかった。
「女の人は、どこにいるの?」
と、そばにいた人に聞いたことがあった。
「絨毯を織っているのでしょう。」
その人はこともなげに言ってのけたのだった。そんなものかなと、何だか割り切れない思いがしたものだったが。

どこかに姿を消していたダヴが、両手に袋一杯のバゲットを抱かえて戻ってきた。そういえば、トルコのパンは美味しいとどこかで読んだ記憶があった。ダヴの心遣いのパンは、焼きたてということを割引いても、本当に美味しかった。その後、もう一度現れたときには一抱えもあるほどのチーズを買ってきて、テーブルで切り分けてくれた。あっさりとした風味で、これも口にあった。チャイも二杯お代わりをした。ふだんは砂糖抜きで飲んでいるのだが、ここでは一つだけ砂糖を入れた。チューリップの花の形をしたチャイグラスに入った熱い紅茶が、ともすれば苛立ちがちになる待ち時間を紛らしてくれたのだろうか。落ち着いてバスを待つことができた。

 ベルガマの遺跡

 アスクレピオン



バスは、今度はどうやら本当に調子を取り戻して、少し遅れはしたもののベルガマに着いた。ベルガマの街はそれまでのエーゲ海沿いの別荘地とはうって代わって、オリエンタルな雰囲気にあふれていた。天井に吊した肉を捌いている店先に集まる人だかり。焼きたての大きなパンを並べているショーケース。相変わらず、男たちが暇そうに集まる床屋。それらの店が、狭い通りに軒を並べている中を、バスは、店の鼻先をこするようにして丘を、今度は難なく登っていった。

アクロポリスを高い丘の上に築く必要があって、すべての古代遺跡は丘の上にある。坂道を上るたびにエンストをするバスでは、何年経っても行き着けまい。最初に訪れたのは、古代における総合医療センター、アスクレピオン。なかなか面白いところである。

アスクレピオンを訪れた患者は、まず最初に「聖なる道」を歩かなければならなかった。だれにも支えられずにその道を歩き通した者だけが治療を受けられる仕組みになっていたらしい。現在残っているのは150メートルほどだが、本来はもっと長かったという。それだけの道を自力で歩き通すことのできる体力の持ち主だけを受け入れたというのである。というのも、アスクレピオンの治療は、今風に言えば心理療法なので、はじめから自力で治ることのできる体力、気力の持ち主でなければ治すことは不可能だった。しかし、「聖なる道」を歩くことができた者には様々な治療が待っていたのである。

「聖なる道」を通って、アスクレピオンに迎え入れられた患者は、「聖なる泉」の水を飲み、地下道に入る。善光寺にもよく似た仕組みの「胎内巡り」があるが、要は「死と再生」を疑似体験させることで、弱まっていた生のエネルギーをリフレッシュさせるのがねらいである。

地下道の中は静かで暗く、どこかで水の流れる音が聞こえるばかり。そこへ、神の声が降ってくる。
「あなたは必ず治る。」
という声である。もちろん声の主は、アスクレピオンの医師なのだが、暗示をかけるには最高の装置であったろう。「病は気から」というが、当時の医師もよく分かっていたのだ。そのほかに野外劇場で芝居を見るのも大事な治療の一環である。

こうして見てくると、アスクレピオンで行われていたことは、現代のサイコセラピーとなんら変わらない。逆説的に見れば、人間の心理・精神と肉体との関連について、アスクレピオンの時代から現代にいたるも、なんら進展がないといえるのかもしれない。

アスクレピオンの売店にも仔犬がいた。妻が一匹をあやしていると、店番の少年が店の中に招き入れてくれた。そこにはほかにも仔犬がたくさんいた。全部抱かせてもらって、大喜びの妻だった。

 アクロポリス

アスクレピオンからまたバスに乗って、20分ほどで丘の上にあるアクロポリスに着いた。トラヤヌス神殿の大理石の柱は真っ白に輝いていた。 列柱上部のアカンザスの葉飾りの陰影が濃い。その繊細な彫刻から、コリント式の柱であることがよく分かる。学生時代に習ったことなど、実社会に出たら何の役にも立たないというのが通説だが、一般教養は別らしい。ガイドの説明を聞いていて、ああそうだった、とその頃を振り返るのも何となくうれしいものだ。

この神殿は、ローマ皇帝ハドリアヌスが先帝トラヤヌスに捧げたものだという。ついこの間、映画「グラディエイター」を観た。映画に描かれていた時代は、ハドリアヌスややトラヤヌスなどの「五賢帝の時代」が終わった180年、コモドゥス帝の時代を舞台としていた。ローマによる平和(Pax-Romana)が終焉し、ゲルマン人との壮絶な戦いの場面から、映画は始まっていた。

かつて、ハリウッドには、「スパルタカス」や「ベンハー」などの古代ローマ史劇を好んで作った時代があった。70oや、シネマスコープ、シネラマなどの大画面が次々と登場した時代には、それにあったスペクタクルが、好まれたものでもあったろう。壮大なオープンセットを使った大がかりな映画は、最近では制作費などの点から難しいのか、近頃ではその手の映画を目にする機会がなかった。懐かしい思いが先に立って、久しぶりに映画館に足を運んだのだった。

遺跡を歩いていると、今は、廃墟と化してはいるが、かつてはここに人が行き交っていたのだなと,ふと思う。人影の消えた時、この列柱と空は、そのときと何も変わっていないのだと改めて思う。遺跡を歩くとき、人は空間をでなく、時間を旅しているのかもしれない。

 世界一急斜面に作られた野外劇場



ギリシャやローマの遺跡を訪れて驚くのは、どこに行っても劇場の遺跡が残されていることだ。演劇というものの占める位置が現在とは比較にならぬほど大きいものだったのだろう。規模に大小はあるものの、どの都市にも人々の集う場所として劇場があるということが文化の高さを示している。

日本でも地方の、今は本当に農村としかいえない村に、古びてはいるが、立派な能舞台を見つけることがある。人は誰もいない。訪れる者もまれなのだろう。蝉時雨だけが耳に残っている。草むす石の椅子に腰掛け、吹き渡る風の中、遙か遠い日本の閑村を思い出していた。

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last update 2001.2.12. since 2000.9.10