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 2004/7/30 『一階でも二階でもない夜』 堀江敏幸 中央公論新社

意味があるようなないような、翻訳詩にでも出てきそうな曖昧なタイトル。副題に「回送電車U」とある。以前に出した同名のエッセイ集の続編である。そういう意味でつけたのなら、その意図するところは分からないでもない。かつて、その『回送電車』の中で、作者は階段の踊り場に寄せる愛着について語っていた。それは、煌々と灯りをともしながら、そこにいるべき乗客を乗せずに走り続ける回送電車にも通じる、ある種の居心地の悪さを意味している。「一階でも二階でもない」のは、小説ともエッセイともつかない作品を書いている作家の置かれた位置を表していたのである。

『一階でも二階でもない夜』は、主に新聞、雑誌、その他に求めに応じて書かれた短い文章をまとめて編まれたエッセイ集である。四つの章に分けられているが、その分類は大まかにいえば、東京風景、文学芸術評、パリ風物、身辺雑記とでもいえようか。どちらかといえば、相手の注文に合わせて書かれた請け負い仕事という感じもする随筆風の文章が集められている。次々と文学賞を取り、仕事の注文をこなすのに忙しい流行作家の横顔が見えてきそうだ。

ところが、意外なことに、作家は、自分の仕事を、いきあたりばったりなもので「企画書が書けませんでしたという始末書」を丁寧にしあげようと努力しているようなものだ、と評する。そして、「ときに技巧が勝りすぎると思われるほど計算されて」いると評される自分の仕事について、相手の誤解に対する苛立ちを隠せないでいる。「しかしそれほどの技巧と計算力が備わっていれば、わたしだっていまごろは立派な物語作者になっていたはずではないか」と。自己韜晦をしているわけではないらしい。「存在の明るみに向かって」という、宇佐見英治を追悼した文章の中で、その文章を引いている。

以前、或る長いエッセーを書いたとき、当時著名であった先輩の文芸評論家から、きみの書いたものはおもしろいが、結局何をいいたいのか、結論がないといわれたことがあった。あたかも行為には必ず結果があり、人の一生や歴史はある結論に達するためにある、といわんばかりに。かかる実務家まがいの俗流には、錬金術師に倣って《四角い円》circulus quadratusを夢みているのだといっておこう。(『方円漫筆』)

宇佐見英治という人を、迂闊なことに知らなかったのだが、面白いが結論がない、というのは堀江敏幸その人に対する評とおおむね重なろう。結論が予めあって、それを導くために書くのではない。自分が今どこにいて、どう感じるのかを探り続けた結果が、作品として成立する。自分が感じていたことをかくもあざやかに表明されていることに新進作家がどれほど勇気づけられたか想像するに難くない。

物語作者かどうかは知らぬが、「スタンス・ドット」で川端康成賞を、それを収めた『雪沼とその周辺』で木山捷平文学賞を受賞したあたりから、堀江敏幸にも、というべきか、日本の短編小説作家的なものが期待されるようになった。古書店巡りを題材に採った一編にも小沼丹や島村利正に対する関心について言及した部分があるように、作家自身あらためて、この国の文学地図の上に標された自分の位置を探りはじめているようなのだ。

先に引いた宇佐見の別の文章。「方位でもなく方角でもなく方向。定位ではなく定向。それが今日の人間の行動を律する主要な指標となった」という言葉が、ことのほか身に浸みた、という堀江である。自分の位置がどのあたりにあるのかを探っても、それを自分の進むべき方角と勘違いしたりはしないだろう。たとえ、筋らしい筋や、結論がなくとも、面白いと感じられるなら、そこには何かがあるはずだ。今一度宇佐見の文を引いておこう。

「もし私の書くものに何らかの真実があるとすれば、それは森の下蔭に、言葉の岩肌の間に隠されているはずだ。私がそう望んだためではない。存在(ザイン)は、もしそれが真の存在であるなら、自ずと隠されてあることを、秘匿されることを希うからだ。」

日本文学プロパーには逆立ちしても書けぬ硬質な気韻のようなものを、堀江にはいつまでも持ち続けていてもらいたいと思うのである。

 2004/7/29 『わが師わが友』 山口瞳 河出書房新社

単行本未収録のエッセイを集めて一冊にする。編集者の仕事である。わたしは、こういう本をひそかに「落ち穂拾い」と読んでいる。巧い書き手を見つければ、それだけで一冊の本が出来上がる。もっとも、作者の承諾が必要だろうから、関係の深い出版社や編集者しか手がけられない。それに、落ち穂とはいってもそこはそれ、ブランド米でないといけない。山口瞳はブランドである。しかも、もう二度と新しい穂は実ることがない。

『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞した63年から90年までに書かれたエッセイを集めたものである。一読して気づくのは、文章にばらつきが見つからないことだ。若いうちに自分のスタイルを身につけた証拠である。山口瞳が、開高健や柳原良平と寿屋のPR誌『洋酒天国』に携わっていた話はよく知られている。短いセンテンスと言い切り口調の多用はコピーライターの文体かと思ったらそうではないらしい。

文章について書かれた物の中に「鴎外の文章にシビレルという時期が長く続いた」とある。また、「紀行文を書く時は、内田百關謳カと井伏鱒二先生のマネをしようと思っている」とも書いている。手本は名文である。簡潔で要を得た文章は、意図して採用したスタイルなのであった。スタイリストぶりは吉野秀雄と並んで「わが師」と敬愛する高橋義孝氏譲り。なにしろ蝶ネクタイと相撲好きで知られるこの老独文学者から、高価な服や着物を直接もらっている愛弟子である。

二人の師について語った文章もそうだが、このひと、人間についての見巧者である。ぼんやりとものを見ている者には見えない、もしかしたらその人自身でさえ気づいていないかも知れない暗部をさっとつかみとる。吉行淳之介が週刊誌に小説を連載したことをからかわれて著者を呼び出し、殴ろうとする場面がある。「印刷工場の暗い物陰で、吉行さんは、長身を曲げて、私を睨み、荒い息をしておられた」。遊蕩児然とした吉行の裡に秘された純文学作家としての自負や葛藤が、はからずも現れた場面をこう書いてしまう。傍に置きたくない人である。

伊丹がまだ一三だった頃、山口家を訪れている。二十歳当時の伊丹は、ハニカミヤで控え目で無口だった。何事にも本格的で「日常生活のあらゆることについて厳密であろうとしている」ところを山口が、気に入ったであろうことはまちがいない。しかし、「無類の優しさと純心」を身につけ、友人に囲まれた伊丹に、「一種の『憂鬱』とでも呼びたい雰囲気がただよっている」ことを山口は喝破している。亡くなったばかりの川島雄三が伊丹に似ていると言いつつ、こう続ける。

「伊丹さん、あなたがユーウツそうな顔をして私を悲しませる、ということをしないでくれ給え。そして長生きをしてください。私には人生には『まだ、何かがある』というように思えるんだよ。すくなくともそう思いながら暮らそうじゃないか。」

この文章が書かれたのは63年。伊丹が飛び降り自殺を試みるのはずっと後のことである。しかし、伊丹の中にある「憂鬱」を見抜き、後の行動を諭すようなこの文章は、まるで自殺直前の伊丹に話しかけているようではないか。なんという眼力だろう。そして、この人の目に映った、もう一人の若者は、こう書かれる。「大江さんの体重は、十九貫になっていた。差し引き八貫目という重量はいったい何だろう。それは解消されたコンプ劣クスの総量ではあるまいか。」山口は、大江の仕事は認めながら、その人間にはついに相容れないものがあったのだろう。『個人的な体験』の末尾の文章についてこう記す。

「私は大江さんのようにすぐれた資質の人たちにいろいろ教えてもらい、リードしていただきたいと願っている。しかし、この三行は全く不要だと考える。『個人的な体験』という「苦闘の汗しぶき」を流した小説の結末が《忍耐》であることがちょっと困る。私たちにとって《忍耐》はいつも出発点なのである。」

山本周五郎を師と仰いだ作家ならではの眼ではないか。

 2004/7/28 『バーナム博物館』 スティーヴン・ミルハウザー 福武書店

たとえば聖フランチェスコのように、世界に対し、限りない共感を抱くことができれば、造り主である神に感謝し、御業を誉め讃えていればすむ。しかし、現実に生きていれば、何かしら世界の在り様に不備やら不満、或は異和を覚えずにはいられない。共感にあふれてこの世界に入ってきた子どもなら、この世界の現実に触れたときに感じる幻滅は、感受性の強い者ほど大きかろう。

多くの人は、その段階で世界と妥協し、それを受け容れることで大人になろうとする。大人は、何も造り出すことはない。只管、世界と慣れ、馴染み、それを享受しようとする。今ある世界に何かをつけ加えようとか、変革しようとか考える人間は、世界のすべてを共感を持って受け止めてはいないのだ。だから、その反感の徴として、作品を創造する。作家の仕事は、小さいながら神の代理人としての仕事である。

自分の想像した人物や世界をわざわざ提出しようというのだから、そこには何か、世界に対して言い分があるにちがいない。ところが、多くの作家は作品の舞台として現実の世界を選ぶ。いや、むしろ現実以上にリアルであろうとさえする。ごく稀に世界をひっくり返そうとする人物を描くことがあったにせよ、人物自体の存在は現実をなぞっている。大人の読者を想定する以上、それは当然だろう。

ミルハウザーの描き出す世界が、時を少し遡った時代であったり、ヨーロッパや東方の国であったりするのは、作家の現代世界に感じる異和の現れである。大人になることは、自分の愛するもので溢れた世界を喪失することを意味する。繰り返しその作品に登場し、ミルハウザーの強迫観念と化した自動人形や博物館は、矮小化された人間とその世界にほかならない。

ミルハウザーは現実の世界に敬意を表したりしない。傲岸なまでに自分の夢見る世界を構築して見せようとする。主題が変わらないのも題材が似てくるのも当たり前だ。彼こそが世界の創造者なのだ。作品世界は彼の夢想によって形作られている。彼こそは小さな神なのだ。作家には、自分ひとりの手で、自分の欲する世界を創造する必要があったにちがいない。

「ロバート・ヘレンディーンの発明」は完全な空想によって作られた女性が現実世界の浸出によって歪みはじめ、やがて崩壊に至る物語。ポオの『アッシャー家の崩壊』や『ウィリアム・ウィルソン』の影響が見られる。この作家にはめずらしく夢想に対する自虐的な言及が目立つアイロニーに満ちた作品である。

生きている人魚や本当に空を飛ぶ絨毯を見ることができる「バーナム博物館」。その内部は、決して終わることのない工事で、常に迷路のように変化し続ける不思議な博物館。いつ入場しても驚きに出会える、作家の愛してやまない世界の縮図である。

「シンバッド第八の航海」は、富裕な商人で、かつて船乗りシンバッドであった男の回顧譚、今現在冒険の渦中にあるシンバッドの物語、そして、千一夜物語の比較文学的考察、という三つの異なったテクストが、分断され、交互に記述されるというポスト・モダン風な構成を持つ。「探偵ゲーム」とともに、物語の登場人物と話者が入れ子状にメタ・レベルに立つボルヘスを思わせる作品。

「幻影師、アイゼンハイム」は、作家の独壇場である、孤独な芸術家の苦闘ぶりを描いた作品の系譜に属する。気になるのは、「ロバート・ヘレンディーンの発明」といい、この作品といい、主人公が精魂傾けて創り出すものが、実体の伴わない幽霊のような存在であることだ。かつては、子どもの頃に夢見たものへの確固とした信頼の上に立ち、小さくとも現実に存在する物を制作していた主人公が、1990年に出版されたこの第二短編集で現出させた物が、実体を欠いた観念のお化けのようなものであることに興味を覚えた。さしものミルハウザーも、この時期、夢想の実体化という飽くなき夢の追求に、疑問を感じはじめていたということだろうか。

 2004/7/25 『イン・ザ・ペニー・アーケード』 S・ミルハウザー 白水社

ポオに『メルツェルの将棋指し』という一文がある。人間相手にチェスを指す機械仕掛けの人形のからくりを、得意の推理で暴いていく小品だが、怪奇と幻想の詩人ポオが、その反面徹底した合理主義者であったことを納得させられる身も蓋もない結論で終わっている。つまり、中には人間が隠れていたのだと。およそ、自動人形の類はこのように胡散臭い出自を持っている。場末の見世物小屋あたりに置いておけば、それなりの関心を買うだろうが、白日の下に晒されたらひとたまりもない。

人型ロボットの相継ぐ開発に湧く日本とはちがって、西欧では、あえてロボットに人間の姿を与えようとはしない。それは、自分に似せて人間を創り出した神に対する冒涜だと考えられているからだ。限りなく人に近い人形を造ろうという行為は背徳的なものであり、「フランケンシュタインの怪物」を持ち出すまでもなく、その行為に携わる者には必ず罰が下る。しかし、禁じられているからこそ魅惑的な主題となりうる。19世紀後半のヨーロッパでは、絡繰り仕掛けの自動人形の一大ブームが起きた。メルツェルの自動人形もその一つである。

短編集『イン・ザ・ペニー・アーケード』は、三部構成で第一部が、自動人形作りにのめり込む若者の姿を描いた「アウグスト・エッシェンブルク」。第二部は、作者にはめずらしい現代女性の一日をスケッチした小品三作。そして第三部には表題作を含むいかにもミルハウザーらしい意匠を凝らした小品三編が配されている。

「アウグスト・エッシェンブルク」の主人公アウグストは、後に描かれ、ピューリッツア賞を受賞することになる『マーティン・ドレスラーの夢』の原型的人物である。葉巻商人と時計職人のちがいはあれ、父親の店舗に自分の作品を展示したところを見出され、より大きい世界に導かれ、自分の天職に目ざめてゆくところも、眠る間も惜しんで制作に没頭し、初めは飛躍的な成功を収めるものの、やがて飽きられ、挫折するところも同じだ。自分の希求するものと世間一般が求めるものとの差異を知りながら、自分の夢に殉じるしかない男の世間知らずな生き方が共感を込めて描かれている。自己憐憫に耽ることなく、再起を予感させられる結びまで酷似している。

これだけよく似たストーリーを繰り返し、繰り返し使いながら、読者に飽きられもせず、賞まで取ってしまうミルハウザーの秘密はいったい何だろうか。ひとつは、フロイトならコンプレックスと呼ぶにちがいない原風景への絶対的な固執がある。他の作家には書けない自分だけの世界を持っている強さだ。しかもそれは、極めて個人的なものでありながら、ユングの言う「原型」に近い普遍性を持っている。予め喪われているからこそ甘美な、思春期という「夢」の揺籃期を背景に描かれるミルハウザー的世界には、抗しきれない魅力がある。

小説が言葉で書かれる以上、プロットやストーリーがいくら卓抜であったとしても、その提示のされ方がお粗末であったら、誰も見向きもしない。反対に、同じメニュウであっても、料理の仕方のちがいで、うまい店もあれば、まずい店もある。ミルハウザーの提供する素材は限られている。いわば専門店だ。読者は、初めからシェフの腕に期待して扉を開けるのだ。同工異曲であっても、これでもか、これでもかと供される物尽くしめく選び抜かれた素材の配列の妙に客は堪能させられるのである。

 2004/7/22 『犬は勘定に入れません』 コニー・ウィリス 早川書房

妙なタイトルだが、もともと、ヴィクトリア朝を舞台にテムズ川で川遊びをする三人の様子を描いたユーモア小説の名作ジェロ−ム・K・ジェロームの『ボートの三人男』の原題には、邦訳部分に続いてこの文句が入っている。ボートに乗っているのは三人と犬一匹だが、犬は勘定に入れません、ということ。タイトルはもちろんのこと、作品自体が『ボートの三人男』に捧げるオマージュになっている。

タイムトラベルという設定をとっていることから考えれば、まちがいなくSF小説。しかし、邦訳の「消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」という副題からは本格探偵小説の匂いがぷんぷん漂ってくる。余談だが、ヴィクトリア朝花瓶というのは、それ以前の名探偵による謎解き主体の推理小説からハード・ボイルド小説への変化を評した「死体をヴィクトリア朝花瓶から取り出して街路に投げ出した」という有名な一節から来ていると思われる。

「司教の鳥株」と呼ばれる教会内部を飾る美術品の紛失事件を調査するという点では、死体こそ登場しないもののミステリと言ってもいいだろう。お定まり通り最終章は謎の解明にあてられている。ウィルキー・コリンズの『月長石』や、クリスティのポアロ、ドロシー・セイヤーズについての度重なる言及はミステリの黄金時代へのオマージュでもある。SFとミステリを融合させつつヴィクトリア朝を舞台にしたユーモア小説を書くという何とも欲張った小説だが、ヒューゴー賞をはじめ、他の賞も受賞しているところからみても作者の狙いはあたったと言えるだろう。

21世紀、オックスフォード大学史学部の学生ネッドはロンドン大空襲で焼失したコヴェントリー大聖堂の復元計画の資料集めのため、20世紀と21世紀の間を何度もタイムトラベルさせられ、ジェットラグならぬタイムラグに陥っていた。主任教授はそんな彼を休養させるためにヴィクトリア朝に送り込もうとするのだが、そこにはもう一つの隠された使命があった。それは、別の学生が時を超えて持ち帰ったある物をもとの時代に戻すというものだが、ひどいタイムラグの所為でネッドは、それを理解しないまま過去に送られる。

送られた先は例の三人男も登場するテムズ川。やたらとテニスンの詩を引用したがるオクスフォード大学生、魚の標本集めが趣味でどこでも釣りをはじめる歴史学教授、日本産の金魚を蒐集する館の主人等の奇癖の持ち主、執事は他家から盗む等のヴィクトリア朝ならではの独特の流儀、それにタイムトラベルの起こすズレなどが絡まり合い、抱腹絶倒の頓珍漢な騒動が巻き起こる。

人間だけではない。ヒッチコックがマクガフィンと呼んだ、ストーリーを展開する上で鍵となる物にあたる猫のプリンセス・アージュマンド。あるいはボートの乗組員の勘定には入れてもらえないが、脇役としていい味を出しているブルドッグのシリル。この二匹と登場人物のやりとりが、単なるドタバタにはない温か味のあるユーモアを醸し出しているところがさすがだ。猫好きなら、プリンセス・アージュマンドの振る舞いににんまりとし、犬好きなら、シリルの扱われ方に一喜一憂しながら、物語に引き込まれてしまうこと請け合いである。

食事作法や料理、女性の衣裳や使用人との付き合い方までヴィクトリア時代の蘊蓄満載で、話の中にはダンセイニ卿まで登場する。引用されるテニスン、シェイクスピアの詩、第二次世界大戦における暗号解読戦、エニグマとウルトラ等々、文学、歴史好きにもたまらない一冊。ゆったり流れる川にボートなど浮かべて、柳の木陰をのんびり滑りながら繙けば最高の休暇となるだろう。

 2004/7/18 『エドウィン・マルハウス』 スティーヴン・ミルハウザー 白水社

処女作にはその作家が後に書くことになるすべての要素がつまっているといわれる。ここには、後に何度も登場することになる地下室に棲む画家がいる。賞賛されることだけを愛し、決して自分からは愛さない女がいる。兄妹と兄の友人という関係、月夜の彷徨、そしてお気に入りの小物達。ミルハウザー的世界はここに始まったのだ。

十一歳で早逝した少年が一冊の本を書くに至るまでのできごとを、その一部始終に付き合ってきた親友が伝記として書く。一見何の不思議もなさそうだが、その伝記が親友の死の三時間後から書き始められ、八ヶ月後に完成したのだとしたら。『エドウィン・マルハウス<あるアメリカ作家の生と死>』は天才少年作家の伝記という体裁をとった一種異様な小説である。

作家は始め、主人公に二十五歳という年齢を想定していたという。もし、初めの構想通りに、見られる側と見る側、つまり、天才とそれを嫉妬した競争相手の愛憎劇として書かれていたなら、よくある心理ドラマの一つとして人の口の端にのぼったりはしたろうが、これほどまでに話題をさらうことはなかったはずだ。舞台を子ども時代に限定し、特有の心理、お気に入りの本や玩具、遊び等の材料を贅沢に使用し、濃密に描写しきったことが作品の成功の秘密だろう。

「何かに執着できる能力を天才と呼ばずして、いったい何を天才と呼ぶのだろう?普通の子供なら誰だってその能力を持っているのだ。君も、僕も、誰もがかつては天才だった。しかしじきにその才能は擦り切れて失われ、栄光は色褪せていく。そして七歳にもなれば、僕らはもうひねこびた大人のミニチュアになってしまっている。したがって、もっと正確に言うなら、天才とは何かに執着する能力を維持する才能である。」

伝記作者であるジェフリーの言葉だが、作家の告白と見て差し支えないだろう。他のあらゆるものを犠牲にしても、成長によって喪われることになる「何かに執着する能力」を維持し続ける人物を描くことがこの作家畢生のモチーフである。人間的な快楽に見向きもせず依怙地なまでに自分の仕事に執着する主人公を書かせたらミルハウザーの右に出る者はいない。成人が主人公であっても彼らは何かに執着し続けることによって≪成熟することの醜怪さ≫から己を守っているのだ。

ミルハウザーの小説に頻出する遊園地や遊戯場の遊具、見世物、玩具、マンガ映画その他のアイテムは、子どもにとっては城や宝物に類する物だ。一方でそれは、ジェフリーがエドウィンの作品を評した「アメリカという名の野蛮で舌足らずの哀れな巨人の魂の発露たるテクニカラーと金粉のイメージ」と通底する。アメリカは若い国だ。「アメリカの夢」という言葉は、成熟した国の見せる絶望や諦念とは無縁に輝いている。しかし、現実の「アメリカの夢」は作品の中で何度も描かれる廃業した遊園地のメリーゴーランドやコースターのように既に遠い過去の遺物と化している。

物語や小説は、普通、過去形で書かれる。つまり終わってしまった物や事しか語ることのできない宿命を帯びていると言えよう。伝記作家は生きている対象を伝記にすることはない。その意味ですべての伝記作家は自分が書くべき対象が死んで始めて心おきなく筆を執ることができるのだろう。幼年期に心躍らせた対象を執拗に描き続けるミルハウザーは、死んでしまった「アメリカの夢」を描く伝記作家なのかもしれない。

 2004/7/11 『キリスト教思想への招待』 田川建三 勁草書房

タイトルだけ読むと、キリスト教への入門書のように見えるが、なかなか、そんな生やさしいものではない。著者はクリスチャンを自称しているが、そんじょそこらにいるクリスチャンとはひと味もふた味もちがう。生半可な牧師なら耳をふさぎ、逃げ出してしまいそうな口吻である。なにしろ、カール・マルクスを読むことを称揚し、神などいない、とはっきり言い切ってしまうのだから。それなのに、なぜ今キリスト教なのか。それは、現代にあっても古びない価値のあるものをキリスト教思想が遺しているからである。

キリスト教にはよく知られた四つのドグマがある。創造論、教会論、救済論、終末論がそれである。本書の四章はそれぞれのドグマに対応して構成されている。よく知られてはいるが、まちがった翻訳や意図的な解釈によって、本来語られているはずの意味とずれてしまって、文字通り「憶説」となってしまっているものも多い。それらを長年の聖書研究の成果を活かして、本来の意味を明らかにし、翻って、その今日的意義を語るという仕掛けだ。知的なミステリを読むようなもので、面白くないわけがない。

第一章「人間は被造物」では、「キリスト教では人間が自然を支配してもいいと思い込んでいる」という誤解を解く。例として挙げられている教科書に載った国粋主義的な日本賛美の文章を見るまでもなく、日本人の多くは、八百万の神を戴き四季に恵まれた日本に住む我々は自然を大事にしている民族で、一神教であるキリスト教を奉じ、自然が人間のためにあると考える西洋人とはちがうといったイデオロギーを多かれ少なかれ信じ込んでいる。しかし、干潟を埋め立て、ダムを造り、大規模な自然破壊をしているのもこの国である。自分に都合の良いイデオロギーを国民に信じ込ませることで、国家的規模で行われる自然破壊をごまかそうとしているのだ、と著者は警告する。

第二章、「やっぱり隣人愛」では、「背教者」と呼ばれ、キリスト教世界では評判の悪いユリアノスを採り上げる。彼はヘレニズム文化に憧れ、キリスト教を憎みながらも、その中の「異邦人」や恵まれない者に対して親切にする精神だけは認め、自分の政策の中に入れようとした。つまり、いちばん嫌っていた相手からも評価された隣人愛の理念こそキリスト教思想の際立ったところだというのだ。病院や失業保険といった現代にも繋がる弱者を保護する制度はこの精神に淵源を持つ。

第三章「彼らは何から救われたのか」が、いちばん面白い。十字架に架かったキリストによって、我々の罪は贖われ、救われたのだ、というのが誰でも知っている救済論のドグマである。しかし、いったい我々は何から救われたのだろうか。結論から言ってしまおう。それは「宗教」からである。聖書に使われた言葉の語義から「贖われる」は「身代金」のことだと著者は言う。

人間は生きている限り、どれだけ注意深くしていても「罪」からは逃れがたい。個々の生き方の問題ではないのだ、とパウロは考えた。宗教者といっても人間である。突きつめたらそう考えたくなる気持ちは分かる。そこで神は、イエスを十字架に架ける(身代金を払う)ことで、その罪を許したのだ、と。しかし、それで彼らは、何から救われたのか。古代宗教の祭儀には金がかかった。犠牲の牛や羊も一頭では足りない。何か頼み事をするたびに何度でも必要になるからだ。ところが、キリスト教を信じれば、無料で、「一回限り」のキリスト・イエスにおける贖いを通して、救われるのである。これが、他の「宗教」を信じることで必要となる物入りからの救済でなくて何であろう。

それだけではない。実はここが肝心なのだが、キリスト教は、ローマ帝国の支配の宗教になる以前は「無神論」と呼ばれていたという。そりゃ、そうだろう。所謂「宗教」というのは、寄進によって成り立っている。「救済が本当にタダであるのなら、我々はほかにいかなる宗教行為も、宗教信心も、必要としない。一切の宗教から解放される」ということになる。現代に生きる日本人のほとんどは無神論者だと思うが、自分や家族が死んだら、ふだんは「葬式仏教」とばかにしている寺や坊主にかなりの金額を包まなければならない。それも一回では終わらないのはご存じの通り。もうそろそろ宗教から解放されたいと思っているの私だけではないだろう。

キリスト教思想というものが、自分とは関係ないところにあるのではなく、現代を生きる毎日の生活と深いところで結びついていることが、よく分かる。特に宗教に興味がなくとも、現代の世界の在り方について疑問を感じている人には肯けることの多い書物である。

 2004/7/4 『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』 蓮実重彦 青土社

相変わらず派手やかなタイトルだ。何を書く時にも、わざとらしいスタイルを誇示し、良識派の顰蹙や論争相手の反発を誘い、あわよくば無関心な大衆も引きつけようというこの人一流の計算が働いているにちがいない。少し毛色はちがうが、作者には先に『表層批評宣言』がある。自著のパロディをやってのけているわけだ。題は似ているが、中身の方はちがう。「蛞蝓がのたくったような」と形容される独特の技巧的なスタイルは放擲して、映画批評と同じく読者にストレートに伝わる文体を採用している。

著者がここでやろうとしているのは、かつて、文学批評や映画批評の場で行ったことと同じである。文学には文学でしか、映画には映画にしかないものがある。それは、表層部分にこそ表される。ところが、多くの評者はそれを見ずに、あらかじめ用意されている「物語」へと、すべてを回収してしまおうとする。そうして、居心地のよい「物語」に収まった文学なり映画なりを見て、やっと安心して、語り合うことができるのだ。著者は、それに対して真っ向から批判を繰り返してきた。「表層批評宣言」とは、その旗幟を鮮明にした表題であった。

スポーツとは「運動」である。ところが、試合後のインタビューで訊かれるのは、プレイ中の気持ちであったりすることが多い。それは本来運動とは無関係な何物かである。日本のインタビュアーが、その手の質問に終始するのは、彼らが「運動」を嫌っているからだと蓮実は言う。持続する運動を規制し、統御するのが、規則という名の文化である。試合の結果は数字になり、記録可能となるが、運動の軌跡そのものはその場限りで消滅してしまう。文化的なスポーツの中に奇跡的に恩寵のように起こる瞬間に出会うために、人はスポーツを見るのである。

「不意に文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンスを演じること」が運動することの「知性」であり、「それを周囲に組織する能力」が運動することの「想像力」であると、蓮実は定義する。知性と想像力が一つになった時、動くことの「美しさ」が顕現する。その意味で言えば、当然寄せ集めのナショナルチーム間で争われるワールドカップに、その美しさに出会える機会は少なかろう。ヨーロッパのクラブチーム間のチャンピオンシップを争うゲームとは、根本的にちがう。

ここで話は一気に加速する。「運動」をスポーツのこととばかり思ってきた読者は、話がイラク問題に飛ぶやいなや、スピノザやドゥルーズが登場するのに驚くかもしれない。しかし、スピノザは「運動」を止めるものは悪だと言っているし、ベルクソンは動きを止めることは滑稽だと言っているから、話の辻褄は合っている。問題は「自衛隊のイラク派遣」だとか「復興支援」という「醜い」言葉にあふれた報道に左右されて、人々が今という時間の「運動」を見ないから、所謂「運動」が高まらないのだと、蓮実は論じる。「今という動きを肌で感じる」ことができれば、時代の動きも判断できる。そのためにこそ、我々は、「運動」嫌いな人類に逆らってでもスポーツを見なければならないのだ、と。

なんだか、難しそうな話になってきたが、これはあくまでも逸脱。渡部直己や草野進を対談相手にしながら、プロ野球やサッカーについて語る対談の部分では、「ドーハの悲劇」を「ドーハの天罰」と言ってのけるなど、言いたい放題、悪口雑言のオンパレード。著者のサッカー・野球批評を「インテリのお遊び」「知的スノッブのたわごと」と揶揄する日本のジャーナリストたちに、「世界の優れたスポーツ・ジャーナリストたちは、いずれも『インテリ』ですよ」と、切り返すところなど蓮実重彦の面目躍如たるものがある。「運動」嫌いな人にこそ読んでもらいたい。

 2004/7/4 『マーティン・ドレスラーの夢 スティーヴン・ミルハウザー 白水社

「ミルハウザーの小さな王国」

こういうのを強迫観念というのだろうか。ミルハウザーの描く物語は、どれも同工異曲。まるで、別の物語など書けないかのように、何を書こうが、少しずつずれを含みながら、同じ物語が繰り返し表現されているのだ。

たとえば物語の舞台。主人公はいつも塔屋か地下深くに自分の根城を造る。「J ・フランクリン・ペインの小さな王国」では、文字通り塔の部屋。「王妃、小人、地下牢」では、王妃は塔にそして、王妃との密通を疑われた辺境伯は地下牢に幽閉され、二人を仲介する道化の小人だけがその間を往き来することを許されている。「マーティン・ドレスラー」では、ついに地下十二層、地上三十階という摩天楼を造ってそこに住むに至る。

行動半径は限られている。自分のテリトリーと考えられる領地なり、町なりの中を散歩することを好むが、テリトリーを離れて旅をしたりすることは考えられない。主人公にとって、世界とは、彼が目にし、彼が触れることのできる範囲でしかない。ちょうど、封建領主が自分の領地を石垣で囲んで侵入者を阻むように、見えない防壁をめぐらして他者の介入を拒んでいるように見える。彼のテリトリーに入ることを許される者は、家族と少数の気心の知れた友人に限られる。

主人公は、画家やアニメーターのように創造的な仕事に携わっていることが多い。それも、生計を得るためというのではなく、全身全霊をかけ、それに没頭することで自己実現を図るというタイプの仕事人間。芸術のためなら魂を悪魔にでも売りかねない浪漫主義的芸術家の変種である。しかも、その作り出す作品ときたら、偏執狂的に細部にこだわりを見せる。フランクリン・ペインは分業化が進む業界の動向を無視し、深夜、塔の部屋に籠もり、一枚一枚ライスペーパーにペンによる手書きでアニメーションを制作する。

ミルハウザーは、女性に対して何かのトラウマを持っているのだろうか。聡明でしかも生気にあふれるエメリンをほとんど実生活上の伴侶として選んでおきながら、性的魅力を感じることができないという理由で、美貌以外に魅力を感じない姉のキャロリンを妻に迎えるマーティンを代表として、主人公たちは、まるで、躓くことを前提に結婚をしようとしているかのように見える。彼らにとって性愛の対象として選ぶ女性と、日常行動を共にする相手としての女性が引き裂かれているのだ。

『三つの小さな王国』所収の「展覧会のカタログ」はアッシャー家を思わせる兄と妹の物語だが、これに親友の兄妹が絡み合い、錯綜した男女関係の愛憎劇が描かれることになる。普通なら、妹を交換することで、二組のカップルが誕生してめでたしめでたしとなりそうなシチュエーションなのに、ミルハウザーの手にかかると不幸な悲劇になってしまう。近親婚への恐怖が無意識に妹への愛を抑圧し、その歪められた感情が行き場をもとめて本来愛してもいない別の女性に向けられるのが不幸の元凶だろう。

「神は細部に宿り賜う」というが、まるで、細密画を見るかのように克明に描かれる細部の描写と、増殖し先鋭化する想像力の奔騰、ホテルの中に百貨店、劇場は言うに及ばず、博物館から自然公園、果てはバロック時代の城を思わせる洞窟や迷路までを呑み込ませてしまう作者の想像力というより妄想の暴走にはさすがに、この種の絡繰りや見世物好きの読者も食傷気味になるのでは、と思わされた。『マーティン・ドレスラーの夢』は、作者が神として創り続けてきたスティ−ヴン・ミルハウザー的世界の総仕上げといった感のある一作である。それだけに、ここを出て、これから作者はどこへ行こうとしているのか、期待を抱かせてくれる結末が愛読者には魅力的に映る。

緻密な構成力で、設定された時代の風景を浮かび上がらせてくれるミルハウザーだが、ようやく都市化しようとしつつあるニュー・ヨークの風物、景観が丁寧な筆致で巨細に描かれている。ゴシック・ロマンめいた書き割りを好む作者が、想像力にまかせて筆を走らせた蝋人形館や人工の森といったグロテスクのアラベスクを凝らした場面より、高架鉄道やハドソン川に架かるブルックリン橋の出てくる場面の描写にむしろこの人の力量を感じる。訳者は柴田元幸氏。多言を要しない。
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