Summertime in Italy

 POMPEI

ヴェスヴィオは山裾のあたりに靄を纏い、静かに眠っているようだった。今は活動していないまでも、もう少し威圧感のある佇まいを想像していたのだが、どうやら少し前に読んだスーザン・ソンタグの『火山に恋して』に知らず知らずのうちに影響されていたらしい。

ヴェスヴィオ山の大噴火は西暦79年夏のこと。ナポリの南20kmの位置にあったポンペイは一瞬にして溶岩灰の下に埋まってしまったのである。その後18世紀半ば、ナポリ王カルロス3世によって発掘が行われるまで、ポンペイは当時そのままの姿で地の下に眠ったままだった。

車がポンペイに近づくにつれ、道の両側に溶岩の黒い塊が目につくようになった。高速道路が溶岩台地を切り拓いたからだ。ヴェスヴィオの麓は今では葡萄が繁る穏やかな村になっている。椰子や夾竹桃、ブーゲンビリアといった南国の花々が咲き誇る塀の向こうに、大理石の飾りを剥がれた煉瓦塀が木の間隠れに見えてきたかと思うと、そこがポンペイの遺跡だった。

 ポンペイ遺跡

入場券売り場の近くに一匹の斑の犬が待っていた。邦人の観光客が来ると、どこからか現れ、後をついてくるという。どこで見分けるのかしらないが、確かに後になり先になりしてどこまでもついてくる。じゃれついたり吠えたりはしないから別段じゃまになるわけでもないが、入場料までとる遺跡の中に野良犬を放置しておく感覚はちょっと理解しがたいものがある。

石畳を敷き詰めた急な坂道が上の方に続いていた。トロイの遺跡もそうだった。かつてはここまで海が迫っていたのだろう。階段になっていないのは荷揚げの際に車を使ったためにちがいない。坂を上りつめたところに石組のアーチがあった。マリーナ門と呼ばれるそのアーチの下に立つとはじめて遺跡が目の前に開けた。

 フォロ(公共広場)

朝の強い光を浴びて石畳は白く輝き、真っ直ぐな道が光の来る方角にどこまでも延びていた。眩しさから目を転じると、ぼんやりとかすむヴェスヴィオの下、芝に覆われた広場の緑がくっきりと目に映えた。在りし日には、ポンペイの全市民が集まることができた公共の広場(フォロ)だ。正面に見えているのが今は凱旋門と台座しか残ってはいないがジュピター神殿の跡である。その日も人々は、ここに集まってきて火を噴き上げるヴェスヴィオ山を恐ろしい思いで見上げたことだろう。神殿の真後ろから上がる火柱を見ながら人々は神の怒りを感じていたのかもしれない。

 アポロの神殿

フォロを囲むように一群の建築物があった。西側にあるのがアポロの神殿。アポロのブロンズ像が残る神殿跡には今も壁と列柱が残っている。東側には食糧市場や職工の組合が建っていたという。

今でもヨーロッパの街を訪ねると、必ずと言っていいほど、市庁舎や教会が周りを囲むようにして立っている広場に行き当たる。その原型ははるか昔にできあがっていたのだ、とあらためてその歴史の古さに思いが及んだ。

広場とくれば時計塔が付き物だが、ここにもあった。アポロの神殿中央祭壇脇に白大理石の円柱の上で日時計の針がちょうど今の時刻を指していた。

 アボンダンツァ通り

マリーナ門からサルーノ門まで、その間約1q、フォロを突き抜けて真っ直ぐに道が通じている。それが当時最も賑わっていたアボンダンツァ通りである。大きめの平石を敷き詰めた通りには石と石の隙間に猫目石と呼ばれる白い石が埋め込まれ夜目にはそれが光ってここが車道であることを示していたという。車道の両側には歩道も整備され、一階は店舗、二階は住居という今もよくある造りの商店街が続いていた。店の壁には今も所々に四角な穴が残るが当時はそこに指された松明が夜の街を照らしていたはずである。

 大劇場

アボンダンツァ通りを南に折れ、だらだら坂を下りていくと小さな広場があらわれる。大きな木がつくる陰の中に高い壁があった。入り口を抜けるとそこは馬蹄形をしたギリシャ様式の大劇場の観客席。紀元前3世紀から2世紀のもので5000人が収容できるという。今でも時折使われるのだろう、板を張れば仮設の座席になるように足場だけが組まれていた。

 フレスコ画

大劇場からさらに東に進んだ辺りで一軒の住宅に入った。入り口近くの天井には四角に空が切り取られていた。青空から降り注ぐ光のおかげで家の中は明るく、その様子を細部まで見ることができた。天窓の下の床は一段掘り下げられた今で言うスキップフロアで変化をつけてあった。そこにも壁画があったが、印象的なのは奥の部屋である。「ポンペイの赤」と呼ばれる独特の朱色で周囲を囲った壁一面に動物の走りまわる様が圧倒的な迫力で描かれていた。千七百年も地中に埋まっていながら、よくもまあ無事に残っていたものだ。そう驚いた後、その頃これだけの絵が個人の住宅を飾っていたということから想像される文化の持つ厚みに再度衝撃が走った。

 スタビアーネ浴場

アボンダンツァ通りとスタビアーネ通りが交差する位置に浴場跡が今も残る。三方を柱廊が囲み、芝生の運動場まである豪勢なものだ。脱衣場の中に見覚えのあるものがあった。噴火の際火山岩の中に閉じこめられて死んだ男の遺骸だ。何かの本で見たこの男の遺骸が、街の通りにそのまま残っているものだと勝手に思いこんでしまっていた。

実は遺骸ではなく、ただの石膏像だった。発掘作業の途中で、踵のところに骨の残るこの遺骸の中が空洞になっていることに気がついた作業員たちは、その中に石膏を流し入れたのだ。骨以外はとけてなくなっていたのだろう。そうしてできたのがこの石膏像というわけだ。腰のところに巻かれた帯状の跡からこの男が奴隷だったことが分かるという。現代人に比べ、随分小柄という印象を受けた。

 モザイクの床

ポンペイの遺跡で驚くのは、度々言うようだが、その保存状態の良さである。住居跡に残るモザイクの床は、石の剥がれた部分とてない、昨日敷き詰めたままのように完全な図柄を残していた。誰が考えた意匠なのか、幾何学的な紋様と動物をあしらった絵柄をうまく組み合わせた楽しいデザインになっている。色は二色のモノトーンだが、床であることを考えれば、かえってこの方が落ち着くというもの。大聖堂のように特別な場所ではない。日々の生活が行われる場所なのだ。

 猛犬に注意

遺跡の入り口に軒を並べた土産物屋の店先で、モザイクのレプリカを見かけた。黒い犬が吠えている絵の下に文字が書いてある。「あれはなんと書いてあるのか」と聞いたら「猛犬に注意」という意味だと教えてくれた。今は、作業中で公開していないという。ちょっと見てみたかったな、と思った。見ていれば買っただろう。もっとも家に犬はいない。猛犬どころか軽自動車に怯えて家の中に駆け込んでくる箱入り猫がいるばかりだ。

そういえば、あの斑の犬は、ずっと最後までついて来ていたのに出口にはついて来なかった。入り口に戻って、また次の日本人観光客を待つのだろうか。一緒に見て回っているうちに情が移ってしまったらしい。今度の客には何かご褒美をもらえるといいのだが。
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last update 2001.8.10. since 2000.9.10