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近代的な町づくりに奔走した伊勢の開拓者
敬神家で実業家の「太田小三郎」 について
遊郭・備前屋のコーナーで展示中

近代的な町づくりに奔走した伊勢の開拓者

敬神家で実業家の太田小三郎について


太田小三郎は古市の三大妓楼の一つ備前屋の主人で、崇敬家としても知られた人。
小三郎が生涯を通じて成し遂げて来た神都における文化事業のいずれもが現代文化の先駆けであり、その足跡は誠に大きく、伊勢市民にとって忘れることのできない人物。
小三郎は、弘化2年(1845)正月28日、鷹羽寿一郎の三男として豊前(ぶぜん)国彦山:今の福岡県東部と大分県北部に生まれた。幼名は匡一、長山と号した。家は累代豊前彦山の執当職で、長男浄典は幕末勤皇の大義を唱え遂に之に殉じた。

備前屋調度品


小三郎は(*1)沈毅果断済世(ちんきかだんさいせい)の志を有し、明治5年(1872)初めて神宮に参拝した時、縁あって備前屋こと太田家の養嗣子(小三郎27歳)となる。当時の備前屋は、外見の派手さとは裏腹に、累代の負債が嵩んでいた。小三郎はただちにこの深刻な状況打開のため、整理に着手し僅か10余年で、この負債を解消し傾いた家業を建て直した。経済の才はよほど非凡な才能を有していたものとみえる。(*2)後顧の憂い(こうこのうれい)がなくなると、兼ねての理想(神宮の尊厳と神聖を保持すること)に乗り出す事となる。小三郎、42、3才の時であった。
当時の神宮は、宮域の中に民家が入り込んでいて、神宮の尊厳と神聖が保たれていなかった。そこで彼は「神宮の尊厳を維持し、我が国の象徴である神宮とその町を、国民崇拝の境域にすべき」と呼びかけ同志を募り明治19年(1886)に財団法人「神苑会」が結成された。

小三郎肖像画ほか


小三郎が神宮の整備に尽くした業績は、想像以上なものがあり、明治天皇御下腸金、一般の寄付金等併せて711万円余りの財源をもとにして、神宮周辺の民家183戸を撤去したり、2万余坪を買収して神苑の拡充を図り、さらには倉田山に4万坪の土地を買収し徴古館・農業館を建設し、神苑文庫をつくるなど、活発な事業を行った。小三郎は単なる敬神家というのではなく、偉大な事業の実践家であった。しかもその事業は広い視野に立って行われ、近代的な伊勢市開発の名誉ある開拓者であった。
例えば、明治23年(1890)には、他に先駆けて参宮鉄道(株)を創立して後の国鉄参宮線の基礎をつくった。さらに明治29年(1896)には、秋田喜助などとともに宮川電気(株)をつくって、市内の電燈・電車事業を開発した。これは後の三重合同電気(株)に発展するものである。その他事業を振興するためには、金融の必要を痛感して市内に山田銀行を創立している。
小三郎の事業は多岐にわたっており、神宮につながる製紙業についても、殖産組をつくって神都(株)の設立を助け、自ら精心舎の印刷業を経営するなどすぐれた事業家であった。

舞踏台仕組図


大正5年(1916)9月5日、突然病を得て没する時が来たが、通常の人でなし得ない驚異の人生は、惜しくも72歳で終わったのでる。墓は久世戸町墓地にある。神苑会は、その記念碑を倉田山公園南端に建立した。
*1 沈毅果断:沈着で思い切ってするさま
    済世:世の弊害を取り除き人民を救い助けること
*2 後顧の憂い:立ち去ったあとの心配

参考文献

 伊勢古市考 野村可通 著 ・ 伊勢市史 伊勢市編纂

最後に神苑会といっても今では地元伊勢ですら、その名前を聞く事は稀な様ですが、この様に多くの資産が明治時代の財団法人「神苑会」の業績だったことは記憶しておきたい。

伊勢古市参宮街道資料館 世古富保