畑 日 記

「蚊」                                      2004/10/9



そのオヤジは草取りにやってきた。まったく雑草の生長は早い。うんざりしながら作業に取り掛かる。作業を始めてまもなくのことだ。せっせと草を取るオヤジの耳元を、人間が最も不愉快になる周波数の「ぷ〜ん」という羽音がドップラー効果を伴って通り過ぎていく。奴らの宣戦布告だ。


どんな生物でも獲物にはなるべく気がつかれないようにするものだ。それが自然の摂理であり、また礼儀でもある。しかし、やつらは非常識で礼儀知らずで横暴だ。人にその存在を知らしめた後、虫除けスプレーを吹きつけたはずの腕に平気でとまり、はっきりわかる乱暴なやり方で口吻を肌に突き刺す。家にいる蚊のように「気づかれないようにこっそりと」なんて気遣いは一切ない。人に見つかっても「どうぞお構いなく、手酌でやってますんで」ってな感じだ。


普通なら、即、叩き潰すところだ。しかし、今両手は土まみれの軍手。腕を振って追い払おうとしても奴らは逃げない。まるで手が使えない状態にあることを知っているようだ。仕方なしに汚れていない軍手の甲で叩こうとするが、そんな不自然なポーズではとてもやつらに対抗できない。奴らは優雅に身をかわす。そして人間の目のピントからうまく外れていく。こうなると蚊が止まれないように体を動かし続けるしかない。


近くに住む主婦は不審に思い始めていた。
「あの人、草刈りに来たようだけど、なんだか様子がおかしいわ。なんだか無駄に大きく動いているわ。いやだなあ、今日は家に誰もいないのに・・・」


オヤジはすでに蚊の術中にはまりこんでいた。奴らが羽音を聞かせたり姿を見せたりと存在をアピールしたのは作戦だったのだ。罠にかかった人間の皮膚は知覚過敏になっている。草の先が触れても、麦わら帽子の紐が揺れても蚊がとまったと錯覚してしまう。首筋を汗が伝う。つい、汚れた軍手で叩いてしまう。首筋に土がつく。ちくちくと肌を刺激する。ついに右手の軍手を取り首を掻く。土の破片が背中に転がり落ちる。皮膚の過剰反応は上半身中に広がる。そこに再びあの羽音。「うぎゃー!」思わず立ち上がり、軍手を脱ぎすてると、蚊に止まられないように全身をフルパワーで動かしながら体中をかきむしる。


近くに住む主婦は心配し始めていた。
「踊っているわ、踊っているわ。やっぱりこんな畑地の真ん中に家を建てたのは間違いだったかしら。あ、今叫んだわ」


ふと気がつくと足首が痒い。今までのちくちくとする知覚過敏とは違う、蚊のお食事後の痒さだ。見れば赤くなっている。チッと舌打ちをしてかき始める。おかしい、かきながら痒いところがわからなくなっていく。よく見ると足全体が赤い。皮膚の表面がでこぼこしている。掻いてる横でちゅうちゅう吸っているやつがいる。これはたまらん、一時撤退。


畑から出て座り込む。「やはり短パン、ゴムぞうりは失敗だったか」と、いまさら後悔してももう遅い。指の付け根、くるぶし、土踏まずの横、アキレス腱、いったい何ヶ所くわれたんだろう。つい数えてしまう。ふくらはぎ、ひざの裏、数えているその手にもふくらみが。二の腕、ひじ、肩、だんだん痒いところが増えてくる。あご、ほっぺた、目の横まで。立ち上がって全身チェック。隠れていたはずのわき腹、太もも、おしりまで。数えながら痒さとくやしさで地団太を踏む。「ちくしょー!」


近くに住む主婦は迷っていた。
「あ、畑から出て行ったわ。このまま帰ってくれるかしら。あ、座り込んでぶつぶつ言ってるわ。立ち上がって・・また踊りだしたわ。やっぱり通報したほうがいいかしら」




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