畑 日 記

「屈辱」                               2001/5/6

思えばいろんなカレーを食べてきた。ハクサイと白ネギの和風カレー。ナス入りの薄汚れたカレー。ほとんどがジャガイモの、肉ジャガから気が変わったのよカレー。トウガンがメインの、ともかく減らさなきゃカレー。コマツナばっかりの、終戦直後かカレー。要するに、そのときあった野菜でカレーは作れる。カレーの主役は肉ではない。肉はだしをとるために入っているに過ぎない。カレーのデキを左右するのは野菜なのだ。カレーとは千変万化、印度マジック、畑の食材を巧みに操る魔法の料理なのだ。

人間とは学習する動物だ。いろいろなカレーを作ってみて私も学習した。カレーにはどんな野菜を入れてもよいが、タマネギだけは抜いちゃなんねえ、ということを。タマネギ抜きのカレー、それはドレミファソラシファのような不安定感、コーヒーに入れないクリープの空虚感、コタツを片付けた後の喪失感などで、人々の心を責めさいなむ。タマネギこそがカレーの中枢なのだ。

我が家では消費する野菜はほとんど収穫でまかなっている。その時期に採れるものを食べ、採れなくなったら食べない。買う野菜はモヤシ、レンコン、キノコなど限られたモノに限られている。なのにあなたはもういない。いつもそばにいてくれたやさしいあなた。振り向くと軒先でゆれていたあなた。最後に姿を見たのは先週のヤキソバ。ああ、タマネギよ。労働と言う名の鞭に打たれ、やっと稼いだわずかな銭で、お前を買う日が来ようとは。これを屈辱と呼ばずして、どこに悔恨の涙を落とそうか。

重い足を引きずりやっとたどり着いたスーパーの野菜売り場。すでに奥歯は3ミリも磨り減っている。タマネギはジャガイモとゴボウの間で黄色いネットに入れられて山積みになっていた。ネットを引き裂き「さあ、お逃げ」と野に放したい衝動にかられる。おばさんがやってきて、タマネギを手にとって選んでいる。「選ぶなー!むしろ選ばれろー!」私の心の叫びは誰にも届かない。タマネギのありがたさは、失った者だけにわかるのだ。

タマネギは収穫の時には自分から土の上に出てくる。葉はじゃまになるどころか、取っ手の役目を果たしている。吊るしておけば、冷凍も乾燥もせずに長く日持ちする。天然の包装紙に包まれて、いつまでも新鮮さを保っている。「タマネギはおらぬか」の一声に「これに控えておりまする」と、アイドリングなしに活躍するのだ。

食材としてのタマネギもすばらしい。和食洋食中華を問わず、煮ても焼いても揚げても生でもOK。カレーの具はもちろん、ルーのベースになり、ハンバーグではメインに近い。南蛮漬けでは頼りになって、酢豚の中では愛くるしい。皮は手でむけ、分解しやすく、バラいてしまえばパズルにもなる。大人も子供も大好きで、血をさらさらにしてくれる。なんと献身的なことか。何たるボランティア精神か。

スーパーで買ったタマネギを刻みながらそんなことを考えていると、思わず目頭が熱くなる。すりおろしたときなど号泣してしまった。

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