畑 日 記

  「キュウリ」                                     2000/7/8


夏場は日が長く、仕事が終わってから収穫ができる。洗面器ほどのコンテナには、トマトとナスが2個ずつ。インゲンとミニトマトが手のひらいっぱい。にもかかわらずコンテナがずっしりと重いのはキュウリのおかげだ。この重量感は野菜作りの醍醐味のひとつでもある。ここのところ、私は毎日この「醍醐味」を感じている。流しの洗い桶も、冷蔵庫の野菜室も私と同意見だろう。ヌカドコと漬物用タッパーもうなずいている。


正直に言えば「ウンザリ」なのだ。「トレスギ」なのだ。「カンベンシテクレ」なのだ。洗い桶も冷蔵庫もヌカドコもタッパーもそう思っているのだ。数えてみたら27本もあった。漬物やサラダの残りは別で。しかも、明日の朝の収穫を心待ちに、風に吹かれてルンルン揺れている一団が畑にいる。その後に控えている、黄色い花も咲き乱れている。


思い出されるのは、あの初収穫の喜び。もぎたてを洗って丸かじりにしたとき、五感のすべてが感動にうちふるえたものだ。音、歯応え、香り、味、色、ちくちく、どれをとってもスーパーのキュウリとは格段の差があった。特に今年は、トマト、ナス、ピーマンなどが不調のため、「よくやった、よくぞがんばった」とほめたたえ、妻にも「どうだ」と自慢したものだ。


それが今では、不満が続出である。栄養価が低い。料理法が限られている。無軌道につるをのばす。ネットを張らなければならない。ちくちくする。すぐ育ちすぎる。輪切りにすると転がっていく。へたがある。長い。緑だ。言い始めればキリがない。


もちろん、親戚、友人、ご近所などにも配り歩いた。その場合、やはり新しくてまっすぐなのを進呈するので、古くて曲がったキュウリばかりが、居残ることになるのだ。妻との会話も「今日のおかずは何」「古くて曲がったキュウリだ」「しくしく」と戦後の物資不足にあえぐ貧困家庭風になってしまう。


はた。今、思いついた。これだけキュウリ攻めに合えば、誰でも嫌気がさすだろう。しばらくは食べたくなくなるのが当然だ。だが、それがために来年の収穫期まで、キュウリなしで耐えられるのじゃないか。そうだ、そうに違いない。そして、それこそが「旬」なのだ。毎年同じ目に合うわけだ。ようし、来年も6本植えるぞ。





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